5.川崎大師地区の町名の歴史と由来
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『新編武蔵風土記稿』(文化・文政年間:1810-30年)に見られる川崎区の村名と村域
新編武蔵風土記稿の村名と現在の町名対比
- 川中島: 川中島、大師駅前、大師公園、大師町、大師本町、東門前の一部
- 大師河原: 東門前の一部、大師河原、中瀬、観音、藤崎、台町、昭和町の一部
- 稲荷新田: 昭和町の一部、出来野、大師河原、四谷上町、四谷下町、日の出、田町、江川、小島町、夜光(ブログ記事が別ウィンドウで開きます)、塩浜
- 池上新田: 池上町、池上新町1~3丁目
明治以降の行政区画の推移概略
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町名別解説 - 大師駅前(だいしえきまえ)1,2丁目
江戸時代の川中島村と大師河原村の一部にあたり、明治22年以降は大師河原村の字(あざ/※1)川中島耕地の一部と字西耕地の一部で、かつては「裏川中島」と呼ばれていました。昭和11年に耕地整理によって大師西町、大師中町と呼ばれるようになり、昭和40年と47年の区画整理および住居表示によって、大師駅前1丁目と2丁目に変わりました。
若宮八幡宮や金山神社がある町です。
町名別解説 - 大師町(だいしちょう)
江戸時代の川中島村の一部で、川崎大師(平間寺)のある町です。
川中島村は明治8年に大師河原村に編入され、明治22年に大師河原村字川中島になりました。大師河原村は大正12年に大師町となり、翌13年に川崎町や御幸村と合併して川崎市になりました。大師町の誕生は昭和11年です。
中央部にある仲見世通りは、かつての地名にちなんで「表川中島」とか「表門前」などと呼ばれます。
町名別解説 - 大師本町(だいしほんちょう)
町域は江戸時代の川中島の本村(ほんむら)にあたります。町名の由来は『風土記稿』の川中島村項に「本村、平間寺の門前を云」とあり、かつてこの辺りが川中島村の本村と呼ばれていたことから大師“本町”と名付けられたといいます。
くずもちで有名な住吉総本店の工場付近は元屋敷と呼ばれ、江戸時代の初めに池上家が現東京都大田区の本門寺から大師河原へ移住して最初に居を構えたところと言われています。なお、その後手狭になったために現在の藤崎に引っ越しました。
この町にある天台宗明長寺の脇から多摩川へ向かう道は早舟道(はやふねみち)と呼ばれました。明治期に現在の大師河原1丁目から穴守稲荷への渡しができたのに続き、大正期に早舟道が多摩川に突き当たる場所からも早舟が出るようになって大変賑わいましたが、次第に衰え、昭和10年頃には早舟も廃止されてしまいました。
町名別解説 - 東門前(ひがしもんぜん)1-3丁目
大師線の東門前駅がある町です。 ここは江戸時代の川中島村の一部と大師河原村の一部にあたります。町名の由来は、川崎大師(平間寺)の東の門前に位置することから、住民の総意によって昭和11年に命名されたそうです。
三丁目の大師河原寄りの辺りは八反割り(はったんわり)と呼ばれています。これは中洲などを新しく開梱してできた耕地を八反ずつ分けて分配した頃の地名です。
ここでは江戸時代後期から桃や梨の栽培が行われ、近大に入ってからもビワやブドウ、イチゴなどの果物が栽培され、全国各地に出荷されていました。中でも梨野の品種「上花」(じょうはな)は発見者の木村作次郎家の屋号にちなんで命名されたもので、現在の東門前小学校の辺りは木村家の屋敷があったことから、かつては「上花屋敷」と呼ばれていました。
町名別解説 - 大師河原(だいしがわら)
その名前は多摩川の河原と川中島村平間寺の弘法大師像に由来するとされています。その歴史は古く、戦国時代から大師河原という名前で呼ばれていました。
江戸時代には現在の大師駅前、伊勢町、東門前、観音町、藤崎、台町、昭和、塩浜を含む村となり、明治になって、大師河原村は川中島村と稲荷新田を編入し、さらに飛び地も編入して橘樹郡の広域な村になりました。
現在の大師河原1,2丁目は大師河原村の字上殿町(かみとのまち)耕地と字田町耕地の一部にあたります。
江戸時代後期には庶民の社寺詣でや行楽が盛んになり、羽田の穴守稲荷や弁天社に詣で羽田の渡しを渡り平間寺にお参りするコースが一般的になりました。明治期には現在の大師河原1丁目に大師の渡しができ、新渡し(しんわたし)と呼ばれ、ここからも穴守稲荷への早舟が出るようになりました。
町名別解説 - 台町(だいまち)
江戸時代は大師河原村に属し、かつての字(あざ)台耕地にあたります。
昭和40年の区画整理がなされる前は大師公園の南半分は台町に属していました。
町名の由来は、昔から個々は周囲の低地に比べてわずかに高いところだったから「台」と呼ばれたといわれています。
町の南端には善西坊という寺があり、通称「ジョンボ」と呼ばれています。これは、昔この寺に如雲坊(じょうんぼう)とい僧が住んでいたことから如雲坊が転訛した(読みが変化した)ものです。
町名別解説 - 昭和(しょうわ)1,2丁目
ここは江戸時代の大師河原村と稲荷新田の一部にあたります。昭和11年に新しい町が生まれ、町民の総意で元号を取って昭和町1,2丁目と名付けられました。戦後の区画整理、昭和49年の住居表示を経て、現在の町名になっています。
町の中央に産業道路と平行して、かつての羽田道が走っています。この南北に走る羽田道は、江戸時代には六左衛門の渡し(羽田の渡し)へ年貢米を運ぶ搬路でした。この道は微高地でしたが、町の南東部は低地で、ようやく明治以降に人家も増えて海苔養殖や梨、麦、タマネギなどの農業を営んでいましたが、度々水害に襲われていました。大正6年の水害後は手間のかからないイチジクに目が向けられ、江川町、殿町などとともにイチジクの栽培が盛んになりました。大正11年、多摩川の改修工事の際に土砂を運んで土盛りをして平らにならしました。
町名別解説 - 出来野(できの)
ここは江戸時代の稲荷新田の一部で、後の字出来野耕地の一部にあたります。産業道路によって出来野耕地が分断されて昭和11年に道路の東側が日ノ出町になり、一部が塩浜町や昭和町2丁目に編入されましたが、昭和49年の住居表示施行で古い地名が長命となりました。
町名は「海へ出来たところで、新田にならなかったので出来野という」とも言われています。
この地は梨の他にも多くの果樹が栽培され、大正中期、出来野桜井家によってイチジクの「ピオレートドーフィン」を独占販売し、リンゴの栽培も当麻家とともに始めたと言われています。
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