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3.川崎のなりたち-明治時代-

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神奈川県の成立

新政府は明治元年(1868)に武蔵国内の旧幕府領を管轄するために武蔵知県事(むさしちけんじ)を派遣しましたが、明治2年(1869)の版籍奉還(※16)、明治4年(1871)の廃藩置県を経て、ほぼ現在の神奈川県の形になりました。明治5年に現東京の北多摩、西多摩、南多摩が神奈川県に加えられ(明治26年に東京府に移される。)、明治9年に足柄県が神奈川県とひとつになりました。

※16 版籍奉還(はんせきほうかん): 明治維新後も存続した諸藩主が明治2年(1869)、土地(版)と人民(籍)に対する支配権を朝廷に返還したこと。明治政府による中央集権強化のための改革で、廃藩置県(はいはんちけん)の前提となった。

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鉄道の開通と六郷橋の完成

明治5年(1872)5月7日、横浜(現在の桜木町)-品川間を日本最初の鉄道が開通しました。横浜-新橋間が開通するのは4ヶ月後の9月のことです。6月には川崎停車場が川崎宿とはやや離れたところ、現在の京急川崎駅近くに完成しました。

鉄道の開通は川崎宿の旅籠屋(はたごや)には大きな打撃を与えました。今まで東京から横浜までは2日がかりだったのが、たった52分で行けてしまうからです。しかし、陸蒸気(おかじょうき=汽車)で来る川崎大師の参詣客に目をつけた小川松五郎という人が、駅から宿までの道を広く整備して人力車を置き、参詣客相手の商売を始めると、しだいに休み茶屋や土産物屋が増え始めました。

政府は全国の大きな川に橋を架けることを奨励しました。しかし、渡し舟にかわる橋を架けることに、当初は川崎宿の人々は反対でした。江戸時代から渡し舟の運賃は川崎宿のものとなっていたからです。明治7年、川向こうの八幡塚村の鈴木左内が中心となり橋が掛けられ、「左内橋」と呼ばれていましたが、明治11年の大水で流されてしまいました。宿の人々も橋の便利さに気づき、川崎宿で橋を架けることを政府に願い出ました。八幡塚村も申請し、争いが起こりましたが、最終的に共同で「六郷橋」をかけました。明治16年のことです。

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長十郎梨の栽培

明治期、橘樹郡の村々では多くの住民が農業で生計を立てていました。現在の川崎区にあたる地域では米も多く作られていましたが、砂地のため米の生育が悪かったので、砂地に適する梨や桃を作ったり、大師河原村では海苔の養殖も盛んでした。

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種梨遺功碑

1893年(明治26年)頃、大師河原(現日ノ出)の当麻辰次郎(とうまたつじろう/1826-1905)が病害虫に強く、甘みがあって収穫高の多い梨を発見しました。

この梨は当麻辰次郎の屋号を取って長十郎と名付けられ、たちまち川崎一帯に広がり、全国の梨の60%も占めるほど人気になりました。 画像は、川崎大師 境内に建つ記念碑「種梨遺功碑」で、大正8年(1919)に辰次郎の功績を讃え建立されたものです。

明治中期の俳人正岡子規は川崎の梨を詠んだ句をいくつか残しています。

  • 行く秋の 梨ならべたる 在 所かな   
  • 川崎や 畑は梨の 帰り花   
  • 梨くうは 大師戻りの 人ならじ   
  • 川崎や 小店々々 梨の山   
  • 川崎を 汽車で通るや 梨の花   
  • 徒歩で行く 大師詣でや 梨の花

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大師電気鉄道の開通

明治の中頃、川崎大師の参詣客を目当てに川崎駅-大師間に大師電気鉄道(現在の京浜急行大師線)が計画されました。

しかし、小川松五郎を中心とする人力車夫の団体「だるま組」はこれに反対しました。車夫だけでなく、川崎町の土産物屋なども客を直接鉄道で運ばれてしまっては商売にならないと反対しました。

そのため、大師電気鉄道は当初予定していた川崎駅からではなく、六郷橋から大師までとして、ようやく反対運動も収まり、明治32年(1899)1月20日大師電気鉄道が開通しました。六郷橋-大師間を10分で結び、上等10銭、並(なみ)等5銭で乗車することができるようになりました。米1kgが10銭の時代です。

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工場の進出

大師電気鉄道に電気を供給する火力発電所が川崎町久根崎(くねざき)にできると、この電力と多摩川の水、交通の便の良さに目をつけた横浜製糖(明治製糖=明治製菓の前身)が明治39年(1906)南河原に工場を建てました。

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さらに明治41年(1908)には東京電気会社(現東芝)が堀川工場を、明治42年(1909)に川崎町久根崎に日本蓄音機製造工場(現パイオニア)を建て、川崎の工業化が始まりました。

日本鋼管(現JFE)が田島村に工場を開くのは大正2年(1913年)のことでした。

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