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2.川崎のなりたち-江戸時代-

【現在位置】 大師の歴史>2.川崎のなりたち-江戸時代-

江戸時代

ここまで見てきたように、川崎は天領(幕府の直轄地)となりました。

後北条氏の支配を受けていた頃は、村々は郷(ごう)を単位にまとめられていましたが、徳川の世になると、郷がさらに小さな村々に分けられました。寛永(かんえい)2年(1625年)には今の川崎区には次のような村がありました。

【武蔵国橘樹郡に属した村(川崎領)】

下平間村、塚越村、小倉村、古川村、小向村、取手村、南河原村、堀ノ内村、川崎宿(久根崎村、新宿村、砂子村、小土呂村)、中島村、川中島村、大師河原村、稲荷新田村、大島村、渡田村、小田村、下新田村)

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後北条氏の時代には既に大師河原の名がありますが、その他にも幾つかの集落ができており、文化文政年間(1804-30年)(※11)に編纂された武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)には、市域で628の小名(こな=集落の名前)を見ることができます。

(図は『新編武蔵風土記稿』に見られる川崎区の村名とおおよその村域)
 

※11 文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい): 化政期ともいい、江戸時代末期の文化・文政年間(1408-30)をさす。 江戸幕府11代将軍徳川家斉が将軍職を家慶(いえよし)に譲った後も大御所として幕府の実権を握っていた。江戸を中心に町人文化が栄え、化政文化と呼ばれる。同じ町人文化でも元禄文化(5代将軍徳川綱吉の頃)は上方を中心としたものであった。遊蕩的気分が強く、『粋』に象徴される世界や、虚無的風潮を生じた。

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二ヶ領用水

家康は江戸に入るとすぐに農業生産力の増大を図るため、役人達にその任を与えました。その中の一人が代官小泉次大夫(こいずみじだゆう)で、稲毛・川崎二ヶ領用水(※12)の工事を進め、慶長16年(1611年)に完成させました。

※12 二ヶ領用水(にかりょうようすい): 多摩川最古の灌漑用水で、稲毛領と川崎領の二領を流れているのでこう呼ばれた(現在の多摩区宿河原1~6) (参考:『二ヶ領用水せせらぎ館』のサイト)

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川崎宿の誕生

慶長5年に長さ百九間の六郷橋が架かり、翌年には東海道の伝馬(てんま)制(※13)がしかれて宿駅が設けられましたが、品川-神奈川宿の距離が長くて両宿の負担が過重になったため、遅れて元和9年(1623年)、三代将軍家光の時代に久根崎(くねさき)、新宿(しんしゅく)、砂子(いさご)、小土呂(ことろ)の四村からなる川崎宿が設けられました。(※14 『東海道五十三次「川崎宿」(歌川広重 1797-1858)』)

しかし、元々江戸から近い川崎宿では宿泊客もなく、伝馬役は過重で、慶安、元禄の大地震、さらには宝永4年(1707年)の富士山の噴火による降灰被害などで川崎宿は疲弊しました。

※13 伝馬(てんま): 宿駅に常備されて公用の人や荷物の継ぎ送りに当たった馬。

※14 『東海道五十三次「川崎宿」 : 六郷渡舟 Kawasaki_juku_800x515

品川宿と川崎宿の間に横たわる多摩川には江戸時代初期までは橋が掛けられていましたが、洪水で度々流されたため、貞享(じょうきょう)5年(1688)の流失後は六郷の渡しを舟で渡るようになります。かつての渡し場は現在の国道15号号線(通称第一京浜)が通る六郷橋の掛かる付近にあり、渡し場を越えるとするに川崎宿がありました。

この絵は品川から川崎側の岸を望んでおり、対岸では舟の到着を待つ人々、その右手奥には船場会所があり、船賃を払っているような人の姿が見られます。そのすぐ背後に続く家並みが川崎宿です。 渡し舟の乗客に目を向けると、のんびりと煙草をくゆらす商人風の男の満ち足りたような表情や談笑する男女など、この絵にのどかな雰囲気を与えています。 家々の急勾配の屋根は、京都で流行していた四条派の絵画に見られるものです。

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江戸初期の川崎大師

江戸に諸藩の武家屋敷ができ、人口が増えると共に、信仰と行楽を兼ねた大師参詣は江戸時代初期から大変盛んになりました。そこで、寛文(かんぶん)3年(1663年)に江戸からの参詣者のための道標が立てられました。

正面には真名(まな=漢字)で「從是弘法大師江之道」、正面右には仮名で「こうぼう大し江のみち」と書かれています。(この道標は現在は川崎大師境内に移されています)

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『東海道五十三次駅名所川崎宿大師河原真景』歌川広重

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江戸方面から六郷の渡しで多摩川を渡った場合、上記の道標そばにある「万年」の前で本道から左(東)に折れて医王寺(いおうじ)の前を通り、若宮八幡宮を通って川崎大師に向かいました。医王寺の境内には『しおどけ地蔵』(コラム参照)が祀られています。

医王寺としおどけ地蔵

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医王寺は延暦(えんりゃく)24年(805年)開山の古刹で、境内には骨と皮ばかりになったお地蔵様が祀られています。

言い伝えでは、昔、村でできものが流行ったときに、お地蔵様の身体に塩をこすったら治ったということを聞いて、皆、こぞってお地蔵様に願掛けをしたそうです。

それで、村にできもので悩む者はいなくなりましたが、お地蔵様は塩で溶け、すっかりやせ細ってしまいました。今でも塩を供えて願掛けをする人が後を絶ちません。

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また、この寺には蟹が守ったと言われる鐘つき堂があります。

昔、鐘つき堂の脇に池があり、たくさんの魚や蟹が住んでいました。参拝客がくれる食べ物を仲良く分け合い、また、天敵のサギが鐘の音を怖がって近づかなかったので平和に暮らしていました。しかし、ある日、寺の近くで火が出て本堂や山門を焼き払い、火の勢いは鐘つき堂にも迫る勢いになりました。すると池から蟹がぞくぞくと出てきてお堂によじ登り、焼き殺されながらも懸命に泡を吐いて鐘つき堂を守りました。それ以来、この池に住む蟹は炎で焼かれたような真っ赤な背中になったそうです。

【医王寺について】

  • 正式名称:薬王山無量寿院医王寺
  • 総本山: 比叡山延暦寺
  • 本尊:  薬師三尊(木彫座像 一尺八寸)、脇士 (木彫立像 一尺八寸)
  • 脇本尊: 十一面観世音菩薩

最寄り駅: 京浜急行大師線港町(みなとちょう)駅 下車5分

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馬頭観音(ばとうかんのん)

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川崎大師のほど近く、表参道には小さな祠(ほこら)に馬頭観音が祀(まつ)られており、江戸初期の作とされています。

馬頭観音は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ>略して観音菩薩とも)の化身で、宝冠に馬頭をいただき忿怒(ふんぬ)の相をしています。

馬は悪魔を下す力を象徴し、煩悩を立つ功徳があるとされますが、江戸時代に馬の供養と結びついて民間に信仰されるようになりました。

現在は昭和44年に再建された小堂ですが、天保12年(1841年)の記録では、広さは29坪あったとされています。

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【縁結びの神】

昔、平間寺(川崎大師)へ馬で参拝に来た人達がこの御堂の前で馬を繋ぎ止めていましたが、力の強い馬を手綱(たづな)一本で格子に繋ぎ止めることができたことから、縁結びの御利益(ごりやく)があると伝えられるようになりました。

赤い紐をお堂に結びつけると恋愛が成就するそうです。

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川崎宿の窮乏を建て直した田中丘隅

田中丘隅(たなかきゅうぐ 1662-1729)は武蔵国多摩郡平沢村(現あきる野市平沢)の名主の家に生まれ、農業と絹物行商を生業としていましたが、行商に出かけた川崎宿で、商売熱心で誠実な人柄を見込まれて、22歳の頃に川崎宿本陣名主である田中家の養子に迎えられ、田中兵庫と名乗りました。

代官伊奈半左衛門から川崎宿の立て直しを依頼された27歳の兵庫は、伝馬・人夫の役を半分にすること、また六郷川(多摩川河口近くの別称)の渡船権を川崎宿の請負になるよう願い出て許可を受け、渡船賃の収入を得られるようにし、幕府から宿救済金3500両の支給を受けて、短期間の間に川崎宿を再興しました。

その後『民間省要』全17巻を著して、その中で農民の生活実態、年貢徴収の実情、凶作対策、治水策などを論じています。この功績が認められて将軍吉宗から普請御用役に任ぜられました。兵庫はまた、二ヶ領用水の大改修も行っています。

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新田の開発

現在の池上町や池上新町はかつて池上新田と呼ばれていました。この地名は当時大師河原地区を支配していて池上新田を開発した豪族池上氏から付けられたもので、現在の東京都大田区池上とも関係があります。

池上氏は武蔵国荏原郡池上村(今の東京都大田区池上)に住んでいました。宗家に宗仲という人物がいて、日蓮上人に帰依しており、上人が病気療養のために常陸へ赴く途中,宗中の屋敷で亡くなったため、屋敷を寺としたのが後に本門寺のできる基なりました。

小泉次大夫が治水を行った当時、池上家二十代池上幸種が工事に協力しましたが、完成を見ずに亡くなり、息子の幸廣が引き継いで、開拓に本腰を入れるために、1642年(寛永19年)に池上の地を本門寺に寄進して大師河原に居を移しました。 

池上幸廣、その子の幸定(ゆきさだ)により新田の開発が進められ、孫の池上幸豊(ゆきとよ/1718~1798)に引き継がれました。当時は、享保の改革が行われ、幕藩体制の立て直しが行われる側面で農民は重い年貢に苦しんでいました。

幸豊は100町歩(ちょうぶ/1町歩=約0.9917ヘクタール)の新田を開く計画を幕府に申し出て、その7年後の1752年(宝暦2年)に、計画を大幅に縮小されてようやく許可がおりました。更に7年かけて出来上がった埋め立て地は池上氏の名を冠して池上新田と名付けられ、一つの村となりました。 池上新田の他、江戸中期から幕末にかけて、渡田新田、大島新田、田辺新田など新田村が多く発生します。さらに明治中頃までに和泉新田、若尾新田、青木新田などの新田が造成されました。

Jihouten04大師河原酒合戦

川崎大師平間寺所蔵の『水鳥記絵巻』(一部)

慶安(けいあん)2年(1649年)に首将(=主将)地黄坊樽次(じおうぼうたるつぎ)が率いる江戸方と大蛇丸底深(=池上幸廣)を首将とする大師河原方が酒飲み合戦を行いました。

地黄坊樽次というのは『水鳥名』で本名は茨木春朔(いばらきしゅんさく)といい、元は武士でしたが、堅苦しい武士の生活を嫌い、学問を学び、上野国(こうずけのくに)廐橋(まやはし=前橋)城に儒学と医術をもって仕えていました。しかし、何よりも酒が好きで、同じく酒豪の底深に挑戦を申し込んで大師河原で繰り広げられたのが大師河原酒合戦です。

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川崎大師平間寺所蔵の『水鳥記』(一部)
地黄坊樽次作/菱川師宣(ひしかわもろのぶ)挿絵 池上邸での両首将対決の場面で、左は底深、右が樽次

地黄坊樽次がこの酒合戦のことを面白おかしく記述したのが『水鳥記』で、慶安3年に著したと伝えられていますが、その後も度々加筆され、その間に世間の評判になり江戸と京で出版されました。

『水鳥』とは『酒』の文字が部首の三水(サンズイ)に十二支の『酉』と書くことからもじったもので、酒の意味、転じて酒飲みのことを指すようになりました。

この合戦は1995年に『水鳥の祭』(すいちょうのまつり)として大師に復活し、以来、10月の第3日曜日に行われています。

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江戸時代の殖産興業(しょくさんこうぎょう)

幸豊はまた、米作り以外の産業を興(おこ)し、農民に新たな収入の道を開きました。

サトウキビの栽培による砂糖(黒砂糖、白砂糖)の生産や塩作りなどです。また、1760年に海に海苔(のり)を発見すると、自ら養殖の研究をし、海苔の養殖を広めました。

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徳川11代将軍家斉の厄除け祈願

徳川家斉〔安永2年(1787年)10月5日 - 天保12年(1837年)閏1月30日〕は、既に寛政9年(1797年)の25歳の本厄の前年である前厄と翌年の後厄に将軍自ら大師に詣で、厄除けの祈願をしていますが、公には伏せられており、食事や休憩を行ったのは多摩川の船上でした。

寺で食事を取っていただく、即ち『御膳所』(ごぜんしょ)となることは、その準備は大変なことながら、寺にとっては長年の悲願でした。それが成就したのは文化10年(1813年)の前厄の時で、翌年の42歳の本厄は代参が行われましたが、後厄の年には再び大師を参詣(さんけい)しました。

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明長寺の小袖

天台宗明長寺は、創建は文明年間(1469-1487)と伝えられていますが、寛文9年(1669)の落雷により堂宇(どうう)が消失した後、天明2年(1782)に現在の本堂が再建されました。

次の文化12年の将軍参詣では、台覧に供する(=高貴な人に見せること)品として、明長寺所有の由緒ある小袖(こそで)(※15)を貸し出しました。これは、大坂の陣(1615年)で松平忠直(ただなお)に従って功績を挙げた荻田主馬長繁(おぎたしゅめながしげ)という武将が家康から拝領した肌着で、その子孫が明長寺に預けたものです。

文化10年の徳川家斉による大師参詣の当日、当時の隆圓山主(さんしゅ=住職)が急逝するという一大事がありました。これを救ったのがすぐ近くの明長寺で、山主のなきがらを預かり、無事、将軍を迎えることができました。

※15 小袖(こそで): 広袖や大袖に対して、袖口を狭く仕立てた和服で現在の和服の原型。 平安末期頃は貴族が装束の下に着る下着であったが、実用的ではない重厚な重ね着が次第に形式化していき、小袖が上着化していった。女性の間では室町時代以降、袴(はかま)も除かれて着流しとなり、江戸期になると階層・男女問わず広く用いられるようになる。 明長寺所蔵の『葵梶葉文染分辻が花染小袖 』は川崎市教育委員会の該当サイトで画像を見ることができる。

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→「3.川崎のなりたち-明治時代-」に続く

 

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