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1.川崎のなりたち-古代~戦国時代-

【現在位置】 大師の歴史>1.川崎のなりたち-古代~戦国時代-

地形的な特徴

川崎市は面積144.35平方キロメートル(川崎区は40.35平方キロメートル/2009年3月末時点)で、多摩川の右岸に沿って北西の丘陵部から南東の臨海部へ細長く伸びています。

標高70~100mの多摩丘陵が市の北西部に広がり、市のほぼ中央部に当たる宮前区、高津区、中原区は主に標高30~40mの下末吉台地(しもすえよしだいち)と多摩川流域の低地からなり、南東部の幸区と川崎区は多摩川と鶴見川が形成した沖積低地(※1)からなっています。

※1 沖積低地<沖積(ちゅうせき): 土砂などが流水に運ばれて河口や河岸に堆積(たいせき)すること。

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縄文時代・弥生時代・古墳時代

縄文時代(紀元前1万年前後に始まり、前4世紀頃まで継続して、弥生時代と交代する。)、弥生時代(紀元前8~7世紀前後から後2~3世紀頃まで。)、古墳時代(ほぼ3世紀後半から7世紀に至る。)

今から5000~7000年前頃、気候の温暖化に伴って海面が現在より数メートル上昇(縄文海進)し、海岸線が溝の口付近まで入り込み、川崎が現在のような地形に近づいたのは縄文時代後期から晩期と言われています。

縄文時代の川崎区は海深5、6mの海底で、古墳時代から古多摩川の運んだ土砂と東京湾の海流が運んだ砂が堆積して、砂州や浮洲(砂州が広く堆積して固まった小島)が見られるようになったと推測されています。

川崎の貝塚としては、多摩丘陵に属する子母口(しぼぐち)貝塚、加瀬山貝塚などが有名です。川崎区の小土呂(ことろ)、久根崎、渡田、小田、大島に見られる貝塚はこの時代のものでなく、奈良期前後のものと思われ、その時代、漁労(ぎょろう)を生業とした集落が存在したことをうかがわせます。

採集・狩猟社会から稲作農耕中心の弥生時代に入ると、川崎北部には規模の大きな集落が見られるようになります。この時代に続く古墳時代初期の4世紀末に築造された市内唯一の前方後円墳である白山古墳(幸区北加瀬)からは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)(※2)が出土しています。銅鏡は地方の強力な豪族に対して大和朝廷から下賜されたもので、既に関東一帯に大和朝廷の支配が及んでいたことを分かります。

奈良期(720年)に編纂された『日本書紀』によると、5世紀の頃、現在の川崎を含む多摩川の下流一帯に胸刺(ムナサシ)というクニがありましたが、現在のさいたま市にあった牙邪之(ムサシ)との戦いに破れ、ムサシ(武蔵)の支配下に置かれました。

また、安閑(あんかん)元年(534年)に大和朝廷に武蔵国の橘花(たちばな)、多氷(たび)、倉巣(くらす)、横渟(よこぬ)を屯倉(みやけ)(※3)として差し出したという記述もあり、橘花は後に橘樹郡(たちばなのこおり)(※4)となりました。現在の川崎は橘樹郡に含まれており、そのため、昭和の初め頃まで川崎市と横浜市の一部は神奈川県橘樹郡と呼ばれていました。

※2 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう) : 銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡。

※3 屯倉(みやけ): 大和朝廷の直轄領。収穫物を蓄える倉庫から出た語。

※4 郡(こおり): 律令制で『国』の下に位置する行政区画。

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平安時代

平安京〔= 現在の京都市〕に都があった時代。七九四年の桓武(カンム)天皇の平安遷都から一一九二年の鎌倉幕府成立までの約四百年間。

律令制(※5)が施行された奈良時代から平安時代中期になって、現在の川崎区は、砂子(いさご)、堀之内、久根崎(くねざき)、中島、大島、貝塚、渡田(わたりだ)、小田などの浮洲郡(※6)の形成がさらに進みました。

平安時代後期になると律令体制が崩れ、墾田の私有化が進んで市域にも加瀬庄、丸子(まりこ)庄、小山田庄、稲毛庄、河崎庄(現在の川崎区)などの荘園(庄園)が成立しました。河崎庄を治めていたのは平氏の子孫である秩父十郎武綱(たけつな)の子、基家(もといえ)で、河崎冠者(かんじゃ、かじゃ)と呼ばれました。

※5 律令: 古代国家の基本法である律(刑罰についての規定)と令(政治/経済に関などの一般行政に関する規定)中国の随・唐に習って制定された。

※6 浮洲(うきす): 水面に浮いているように見える洲

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川崎大師のはじまり

Heikenji_01

厄除けで全国的に有名な川崎大師(正式名称:真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺)が開山(かいさん)したのもこの頃です。

縁起(えんぎ)によれば、無罪の罪で尾張国を追われた平間兼乗(ひらまかねのり)が夢枕に立った高僧のお告げで海から弘法大師像を引き上げ祀ったのが始まりで、大治(だいじ)3年(1128年)に高野山の尊賢上人の助力で寺を建立しました。(川崎大師公式サイト

また、『真言宗であった下平間村の称名寺が一向宗に改宗し、大師像を多摩川へ流したところ、それが下流の漁師の網にかかり、寺を建立して安置した。寺は平間村ににちなんで平間寺と呼ばれた。」という説もあり、民間伝承として、地元ではよく聞く話です。

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鎌倉時代

源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開いてから、1333年(元弘3)北条高時(ほうじょうたかとき)の滅亡に至るまでの約150年間。

平氏に代わって源氏が台頭してくると、武蔵国の武士団も源氏に接近しました。当時、武蔵国には七つの大きな武士団があったと言われています。源頼朝(1147-1149が平氏を滅ぼして鎌倉幕府を開くのにも、こうした強力な武士団を従えたからです。豪族は所領や所職を安堵(あんど=保護してもらうこと)や新たに所領を与えられたりという御恩(ごおん)と引き替えに軍事的負担などを追う(=奉公/ほうこう)という形で、将軍と地方の豪族との間に土地を仲介とした主従関係が生まれました。

川崎」(※7)の地名は弘長(こうちょう)3年(1263年)、「武州河崎庄内勝福寺」として当時庄内にあった勝福寺の鐘銘に「河崎」(河嵜とも)の名で登場します。梵鐘の銘文から当時佐々木 泰綱(ささき やすつな/鎌倉時代中期の武将・鎌倉幕府の御家人)が河崎庄の庄司(または荘司/しょうじ)だったことが分かります。

執権北条泰時(ほうじょうやすとき/在職:1224-1242)の時代、川崎の沿岸部の干拓が進められました。この時開かれた地域が今の下平間、鹿島田、古川、矢向、尻手あたりと言われています。

※7 「川崎」の名前の由来: 河水の運搬した土砂が、河口に沈積して生じた三角州・三角洲(デルタ)から、「河の先」にできた土地の意味から。日本各地には「川崎」という地名は約140箇所あるが、この意味の「川崎」は30箇所ほど、他の110箇所ほどの「川崎」は「先」ではなく「前」で、河に面した土地という意味からつけられた。

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戦国時代

応仁の乱(1467~77)以後、織田信長が天下統一に乗りだすまでの時代。

戦国時代になると、北条早雲が小田原城を攻略して相模地方を治め、大永(たいえい)4年(1524年)にはその子氏綱が江戸城を手中にし、市域は後北条氏(※8)の勢力下に入りました。

後北条氏は代々検地を実施し、農村支配を強めていきました。

永禄2年(1559年)に北条氏康が作成した『小田原衆所領役帳』(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)は、家臣名と知行貫高(※9)、郷村名を書いたもので、川崎区域では川崎、六郷、大師河原、小田村の郷村名を見ることができます。これには管轄していた城名も書かれており、多摩川を境に江戸城と小田原城の支城である小机城(現在の横浜市港北区小机町)の管轄下にあったと見られます。

現在の大師地区については、

   行方與次郎
     三百六十一貫二十四文
       江戸 六郷大師河原共

と、まとめて江戸城の管轄下にありました。

当時の多摩川は、川崎区池田町から渡田へ抜けて東京湾に注いでいたと考えられ、現在の川崎区は、古多摩川が流れていた近世始め頃まで今の東京と地続きであったようです。

天正18年(1590年)後北条氏は豊臣秀吉に降伏して滅び(小田原攻め)、北条氏が治めていた関八州(※10)は徳川家康に与えられ、市域は江戸城を本拠とした家康の支配下になりました。この年、多摩川の大洪水が起こりました。

※8 後北条氏(ごほうじょうし): 小田原城を本拠に伊豆・関東諸国に勢威をふるった北条早雲(室町時代中後期=戦国時代初期の武将)を祖と一族で、鎌倉幕府執権の北条氏と区別して後北条氏と呼ぶ。

※9 知行貫高>知行(ちぎょう): 平安~室町期における所領の直接支配、江戸時代のにおける所領の間接支配を表す法律用語。

※9 知行貫高>貫高(かんだか): 鎌倉時代末期から行われた土地面積の表示方法→石高(こくだか)が土地の生産高表示であるのに対し、貫高は土地に負荷された税額を銭貨の高で表示した収納高。

※10 関八州(かんはっしゅう) 関東八国の総称:相模(さがみ)、武蔵(むさし)、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)

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→「2.川崎のなりたち-江戸時代-」に続く

 

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