兵士達の戦争 『昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~』
このwebページは、2010年8月9日(月) 午後0:30~1:15NHK BShi(再放送:8月10日(火) 午前2:45~3:30 総合)で放映された番組の覚え書きです
【内容】
天皇を守る、日本陸軍の花形だった「近衞師団」。しかし、昭和20年8月15日未明、「玉音放送を阻止せよ」と命令が下り、近衞兵は皇居を占拠することになる。実は、命令はねつ造されたものだった。陸軍の青年将校たちが終戦は天皇の真意ではないと考え、クーデターを画策し、近衞兵の動員を図ったのだ。偽の命令にほんろうされ、日本の命運を左右するクーデターに巻き込まれた「近衞師団」将兵の軌跡を描く。
近衛兵は、明治初めの御親兵を起源とする、「天皇をお護りし、全軍の模範たれ」と、全国から選りすぐられた精鋭で、その資格は体格良好で家柄が良く学力優秀で品行方正と、各市町村から年に1、2名しか選ばれない、郷土を代表する存在であった。
昭和20年(1945年)春、沖縄では絶望的な戦いを繰り広げていた。本土決算が目前に迫り、大本営はアメリカ軍の上陸が予想された千葉県の九十九里海岸に陣地を築くよう、近衛師団に命令する。
陣地と言ってもシャベルで山肌に穴を掘り大砲や機関銃を据えただけのもので、兵士はひたすらシャベルを振るう毎日であった。しかし、宮城を守るための最前線と考え、アメリカ軍が上陸した場合どう宮城を守るのか?それを考え、捨て身の攻撃を行う訓練を重ねていた。
昭和20年7月26日、連合国がポツダム宣言発表。敗色濃厚となった日本に無条件降伏を突きつける。
陸軍はなおも徹底抗戦を主張するも、政府は終戦の道を探る。8月14日、天皇がポツダム宣言の受諾を決定。翌15日に玉音放送を流すことが決定された。
近衛師団に宮城での実戦配備が命じられる。命令を下したのは森赳(もりたけし)近衛第一師団長で、陸軍の中の不穏な動きに備えるためであった。
青年将校は、ポツダム宣言を受諾すれば国体護持ができなくなる(=天皇制の維持ができなくなる)と、天皇に聖慮(聖戦終結の判断)の変更を求めるため、近衛師団を動かせば、全軍が決起すると目論んだ。森師団長はその動きを事前に押さえるために近衛師団を招集したのであった。
8月14日午後9時頃、宮内省では玉音放送収録の準備が進められていた。この頃、収録を控えた天皇の姿を目的した将兵によれば、軍装の天皇陛下が部屋を行き来しては椅子に座るといった姿だったという。
深夜、師団司令部で激しいやりとりが行われた。森師団長と陸軍省軍務課畑中健二少佐である。クーデターの首謀者の一人である畑中少佐は、国体護持のため共に決起しようと迫る。しかし、森師団長「御聖断があった今日(こんにち)、軽挙妄動は断じて不可なり」と拒否。
午前1時過ぎ 宮城内に一発の銃声が響く。森師団長が殺害された。
午前2時、殺された師団長の名が記された命令が下される。近衛師団は天皇を護るための行為だと信じ、命令に従い宮城を占拠し門を封鎖した。
更に、偽の命令書を根拠に日本放送協会を60名ほどで占拠することを命じられる。
午前2時過ぎ、坂下門を封鎖していた近衛兵が車で門を出ようとしている人物を捉える。録音を終えた下村宏(しもむらひろし)情報局総裁と録音スタッフであった。下村らは五坪ほどの部屋に監禁され、玉音版の隠し場所を答えるよう迫られるが答えない。
玉音放送まであと9時間。徹底的に家捜しするが見つからない。捜索は御文庫(おぶんこ=天皇の住まい)近くまで及んだ。
この時任務についていた近衛兵は2,000名あまり。ある部隊が皇宮警察の武器を取り上げ監禁せよという命令を受ける。しかし、皇宮警察の様子を見て、反乱軍は自分たちのことではないか?と疑問を感じた者もいて、やがて近衛兵の間に師団命令への不信感が広がっていく。命令内容に不信感を抱いたある者は、クーデター派の古賀参謀の「師団長は嫌々ながら賛成した」という言葉に、師団長がそのような命令を下す人物であろうかと疑問を感じたと言う。
午前5時過ぎ、皇宮警察と向き合っている最中に東部軍司令官田中静壱(たなかしずいち)大将が訪れる。東部軍司令官は、師団長が殺害され、偽の命令書が出ていたことを把握、クーデターの収拾にとりかかったのであった。ここで近衛師団の兵士達も事態を理解する。
15日午前11時過ぎ、日本放送協会を占拠していた兵士にも事実が知らされる。放送協会では、一時間後に迫った放送のため、準備を進めらた。近衛兵はなすすべもなく見守るしかなかった。
15日正午、玉音放送が流れる。
偽の命令書とは言え、天皇の本意に背いたのは自分たちであったと、近衛師団の栄誉と伝統が揺らいだ瞬間であった。
宮城を占拠していた青年将校は玉音放送の前に自決。宮城の外でもトラックで乗り付けて集団自決する者もいた。
近衛師団の中に、これで生きて家に帰れると安堵した者もいる。また、もし進駐して来るアメリカ軍が陛下に不敬なことがあったら報復する決意で地下に潜伏した者も少なくなかった。故郷の山にこもり仲間からの決起の知らせを待ったある兵士は、音沙汰がないまま時が過ぎていき、いっそ死のうかとも考えた。11日後、近衛師団に戻ったが罪を問われることはなかった。
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