【夫婦別氏?】明治9年3月17日 太政官指令「婦女他家ニ婚嫁後苗字用ヒ方内務省伺」
法務省のサイトに「我が国における氏の制度の変遷」という説明があります。非常に簡略化した書き方で、「X」上で議論になったので、調べた事を書き留めておこうと思います。
*** 以下転記 (下線、赤字は筆者)***
徳川時代
一般に,農民・町民には苗字=氏の使用は許されず。
これは「公称できなかった」という意味で、庶民が苗字を持っていなかったわけでは無い事に注意。
明治3年9月19日太政官布告 (1870年)
平民に氏の使用が許される。 太政官布告第608号「平民苗字許可令」:平民苗字ヲ許ス
明治4年10月12日太政官布告 (1871年)
一切の公文書に「姓尸」(カバネ)を表記せず、「苗字実名」のみを使用することが定められた。
太政官布告第534号「姓尸不称令 〔リンク先は画像〕」... 「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字實名ノミ相用候事」
ex. 菅原朝臣重信→大隈重信
cf. Wikipedia『カバネ』ー 廃止・苗字実名表記へ統一
明治8年2月13日太政官布告 (1875年)
氏の使用が義務化される。 太政官布告「苗字必称義務令」:平民ニ必ス苗字ヲ唱ヘシム
※ 兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる。
明治9年3月17日太政官指令 (1876年)
妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。
※ 明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる。
明治31年民法(旧法)成立 (1898年)
夫婦は,家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる(夫婦同氏制)。
※ 旧民法は「家」の制度を導入し,夫婦の氏について直接規定を置くのではなく,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同氏になるという考え方を採用した。
昭和22年改正民法成立 (1947年)
夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称することとされる(夫婦同氏制)。
※ 改正民法は,旧民法以来の夫婦同氏制の原則を維持しつつ,男女平等の理念に沿って,夫婦は,その合意により,夫又は妻のいずれかの氏を称することができるとした。
*** 転記おわり ***
【江戸時代の庶民(町人・農民)の苗字】
家系図の森: 江戸時代の人は苗字が無かったってホント?
>先に結論を言ってしまえば江戸時代の庶民は、“苗字はあったが公称できなかった”というのが実態です。「公称」とは世間一般に公に表せない(名乗れない)、公文書などに書くことができない、といった意味です。
>江戸時代に苗字を“公称”していたのはだいたい武士や公家、学者、医者、神主などに限られます...
国立公文書館ニュース: 9月19日「苗字の日」 苗字を名乗らなかった時代の話
>明治維新後、新政府は四民平等の社会を実現するため、平民に苗字を公称することを許可しました。1870(明治3)年9月19日に公布された太政官布告第608号「平民苗字許可令」です。現在、9月19日が「苗字の日」とされているのは、この日に由来します。
小平市立図書館: コラム 近世の百姓に苗字はあったのか?
>近世という時代では、苗字は武士の特権とされ、原則として、百姓(庶民)が公的な場や武士の面前で苗字を用いることは禁じられていた。しかし、このことは、当時の百姓が苗字を持っていなかったことを意味するわけではなかった。そこで、近世の百姓が苗字を名乗っていた実例を、小平市域に残された資料から、いくつか紹介してみたい。
貞享三年(1686)に鋳造され、小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進した梵鐘の表面には寄進者名が刻まれており、苗字が付されている事などを紹介するコラム。
* * * *
議論になったのは、「明治9年3月17日 太政官指令」です。
一部の方が言うには、夫婦別姓推進論者がこの太政官指令を以てして、”明治期には夫婦別姓であった” という事を広め、利用しているのだそうです。
1.Wikipediaの『氏』ー 「近代」の項に経緯が書いてありますが、そこにこのような記述があります。
のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや事務上の要請もあったことなどから、1875年に、全ての国民について苗字の公称が義務づけられることになる(平民苗字必称義務令)。その際、妻は生家の苗字を称すべきか、夫のそれを称すべきかが問題となったが、1876年の太政官指令では前者とする通達がなされた[9]。これに対しては、庶民の生活実態に合わないなどの理由(社会生活上、嫁ぎ先の苗字を使うことがあった)で、地方から疑問や批判も出た[10]。
注釈9: 法令全書明治九年1453頁
注釈10: 坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館、2006年、148頁
2.注釈9の参照先には以下の様な記述があります。
第十五 八年十一月九日(内務省伺)
華士族平民二論ナク凡テ婦女家二婚嫁後ハ終身實家ノ苗字稱スへキヤ又ハ婦女總テ夫ノ身分ニ從フ筈ノモノ故婚嫁後ハ婿養子同一二看徹シ夫家ノ苗字ヲ終身稱サセ候哉
(指令)三月十七日
伺之趣婦女人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユへキ事
但夫ノ家ヲ相續シタル上ハ夫家ノ氏ヲ稱スへキ事
1と2を併せて読むと、明治の初めは「氏姓」〔※〕を持つ身分の人は「菅原朝臣重信」のように称していましたが、「姓尸不称令」(明治3年)以降、「大隈重信」のような苗字を名乗るようになったそうです。
※「氏」は「家の系統を表す名称」、「姓」は「古代の豪族が氏(うじ)の下につけた称号」の習わしで、『江戸東京博物館』のコラムにはこのような説明がありました。
大岡越前守忠相の官職名「越前守」などにみられる「○○守」という名称はどのようにつけられたのか?
>大岡越前守忠相、吉良上野介義央、などに見られる「○○守」「○○介」のことを「受領名」「官職名」などといいます。もともとは7世紀半ば以降の律令制において成立した国司の職名でしたが、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続きました。
大隈重信の「菅原朝臣重信」や大久保利通の「藤原朝臣利通」なども、形骸化された栄誉の表示のように思います。
以下は、尾脇秀和『女の氏名誕生』からの引用です。
氏名の誕生
新政府の「復古」政策は、「大久保一蔵」のような《名前》ではなく、「藤原朝臣利通」のような《姓名》を正式な人名として復活させようとした。しかし現実を無視したこんな「復古」は当然無用な大混乱を引き起こした。結局明治四年一〇月一二日、政府は《姓名》の公用を廃止〔※姓尸不称令(せいしふしょうれい)し、「大久保利通」のような「苗字+実名(じつみょう)=名乗」という、...
議論の紛糾
しかし大久保の思惑通りにはならなかった。明治九年二月五日の審議では、逆に「婦女、人二嫁シタル者、夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可」とする反対意見が述べられたのである。
反対意見は「妻は夫の身分に従うから夫の姓を名乗るべきという理屈は、姓氏と身分の話とを混同している」と大久保の主張を前提から全否定し、女性に付ける「氏」には、 古代の「姓」の法則を当て嵌めるべきだと主張したのである。
近代氏名の「氏」は苗字であって、苗字は古代の「姓」(氏)ではない。だが本来の姓(前掲図表4-1の②氏)は既に公用が廃止されていた。復古派としては古い姓の役割を、新たな氏名の「氏」(苗字)に負わせたい意図があったと考えられる。
一方大久保らにとって、そういう形だけの「復古」はどうでもいい。「家」を基礎と... 〔Omegamanさんのポストより〕
明治8年に国民全員が苗字を持つに際して「妻の苗字」をどうするかという問題が提起され、11月9日に内務省にお伺いを立てたところ(「婦女他家ニ婚嫁後苗字用ヒ方内務省伺」)、2の様に、「婦女(は、)人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユへキ事」、即ち「実家の氏を用いよ」という指令があったが、庶民の生活実態に合わないなどの理由で批判もあり、定着しなかった、という事が真相と思われます。
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以下に、漢文学者の石井望 長崎純心大学人文学部准教授の『八重山日報』コラム(2025年1月5日付け)をご本人の「X」ポストから引用させていただきます。
画像の左上は1887年1月24日の官報より「宮廷録事」をコラージュしたもの。
山縣友子(山県有朋の妻)や松方満佐子(松方正義の妻)も公式に家名(名字/苗字)を名乗っています。






























































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