その論文とは1998年に一橋大学の『Hitotsubashi journal of social studies』に掲載された、
- 『The Use of Race and Racial Perceptions among Asians and Blacks: The Case of the Japanese and African Ameridans』(アジア人と黒人における人種の使用と人種認識:日本人とアフリカ系アメリカ人の場合)
です。
狸穴猫/松村りか(@mamiananeko)さんが発見されました。
もちろん、ロックリー氏は「弥助に興味を持って調べて本を書いた」という趣旨の事を語っているので、盗作などというつもりではありませんし、筆者のDevid Wright(デビッド・ライト)氏が弥助のイメージを作った先駆者かどうかもわかりません。
全部で18枚(18ページ)の論文の中に「Yasuke」は最初のページの2カ所に出てくるだけです。しかし、彼が本で描いたりインタビュー動画で語る弥助のイメージがこのページに詰まっており、興味深いです。
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論文は『一橋大学機関リポジトリ』というアーカイブスのこちらのサイトからダウンロードできます。
以下、参考のために、機械翻訳したもの〔Deeplによる翻訳ママ/脚注を除く〕を掲載しておきます。
アジア人と黒人における人種の使用と人種認識:日本人とアフリカ系アメリカ人の場合
デイヴィッド・ライト
Ⅰ
16世紀、ポルトガルやオランダの船で使用人として働いていたアフリカ系黒人の到着が、黒人と日本人の最初の接触として記録されている。16世紀半ばから、かなりの数のアフリカ系黒人がポルトガル船の乗組員、年季奉公人、奴隷として日本にやってきた。当然のことながら、彼らの存在は日本人に大きな関心と好奇心をもたらした。1550年代、ポルトガルの商人ホルヘ・アルバレスは、日本人は「黒人、特にアフリカ人を見るのが好きで、彼らを見るためだけに15リーグも来て、3、4日もてなす」と報告している。1581年、京都のイエズス会司祭の側近にアフリカ人がいたが、町の人々はそのアフリカ人にどうしても会いたがった。その目的を達成するために、イエズス会の邸宅の扉は、好奇心旺盛な群衆によって無情にも壊された。この大騒動を聞きつけた戦国武将の織田信長は、アフリカ人を連れてこさせた。信長は、2年前にモザンビークから来日したアフリカ人の姿に感激し、金と新しい名前(弥助)を与え、信長の軍に入隊させた。明智光秀は、信長が自害を余儀なくされた戦いの後に「弥助」を捕らえたが、彼は日本人ではなかったため、後に釈放された。
徳川時代(1603-1868)、仏教に対する否定的な見方が強まったことが、日本人が黒人の人々に対する見方や関係を見直すきっかけになったとゲーリー・リュープは考えている。ポルトガル人が日本の宮廷に頻繁にアフリカ人奴隷を献上していたことは、日本人の心に黒人に対する否定的な印象を残したのは当然であろう。このような状況を考慮すると、アフリカ系黒人をはじめとする有色人種は、尊敬されることもあれば、耐え忍ばれることもあり、最後には軽蔑されるようになった。明治維新(1868年)の頃には、黒人や西洋以外の有色人種に対する否定的な態度が日本で広まり始めた。
しかし、日本人はヨーロッパ船が日本沿岸に上陸する以前から、「白い」肌を美しいと評価し、「黒い」肌を醜いと軽蔑していたことに留意しなければならない。平安時代(794-1185年)にはすでに、美の基準は黒くてまっすぐな長い髪と真っ白な肌と同一視されていた。一連の随筆である『枕草子』や紫式部の『源氏物語』には、11代目と12代目が描かれている。
は、11世紀から12世紀にかけての美人をこう描写している。
彼女の肌の色は非常に白く、ふっくらとしていて、魅力的な顔をしていた」「彼女の肌の色は非常に白く、ふっくらとしていて、魅力的な顔をしていた」。
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「弥助問題」は単純ではありません。
単に、はるばるアフリカからきたイエズス会の従者を信長が引き取って、サムライ(かどうかも不明ですが)として召し抱えた、程度で済めば良いのですが、今回、日本の歴史の「Black Wash」(ブラックウォッシュ:黒人化)が行われていた事を知り、驚いています。
「坂上田村麻呂黒人説」、「元寇を退治したのは黒人武士集団」... こうなってくると戦国時代どころではありません。
これは20世紀初めにそのような説が書かれて、当時は無視されていたものが、ネット時代になり、尤もらしい動画が作られて新たにデマが拡散されています。
上記以外にも、「縄文人はアフリカ系中国人」などとする説が、黒人風の顔つきの中国人と共に紹介されていたり、幕末の横浜鎖港談判使節団の一人の玉木三弥という人物が弥助の子孫だと紹介されていたり〔←これはトーマス・ロックリー〕、もうめちゃくちゃです。
これは、ネット時代ならではの新しいプロパガンダ手法で、”とにかく多くの人の目に触れさせれば勝ち” という戦略だと思われます。
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参考までに、画像で掲載した論文をGoogle Lensでテキスト化したものを貼っておきます。
Hitotsubashi Journal of Social Studies 30 (1998) 135-152. The Hitotsubashi Academy
THE USE OF RACE AND RACIAL PERCEPTIONS AMONG ASIANS AND BLACKS: THE CASE OF THE JAPANESE AND AFRICAN AMERICANS
DAVID WRIGHT
I
In the 16th century the arrivals of black Africans who served as servants aboard Portuguese and Dutch ships were recorded as the first contact between blacks and Japanese. From the mid-sixteenth century a significant number of black Africans came to Japan on Portuguese ships, as crewmen, indentured servants or slaves. Not surprisingly their presence generated a great deal of interest and curiosity on the part of the Japanese. In the 1550s, the Portuguese merchant Jorge Alvarez reported that the Japanese "like seeing black people, especially Africans, and they will come 15 leagues just to see them and entertain them for three or four days. In 1581, a Jesuit priest in the city of Kyoto had among his entourage an African whom the townspeople desperately wanted to see. In order to achieve their aim the door of the Jesuit residence was unceremoniously broken down by the overzealous throng of curiosity seekers. Upon hearing of this great commotion, the warlord Oda Nobunaga, had the African brought to him. Nobunaga was so impressed with the appearance of the African, who had come to Japan two years earlier from Mozambique, that he gave the Mozambican money and a new name (Yasuke) and enlisted him into Nobunaga's army. Akechi Mitsuhide captured 'Yasuke' after a battle in which Nobunaga was forced to commit suicide but was later released because he was not Japanese.
During the Tokugawa period (1603-1868), Gary Leupp believes the increasingly negative view toward Buddhism gave cause for the Japanese to reevaluate their views toward and relationships with darker peoples. The frequent presentation of African slaves by the Portu- guese to the Japanese Court would have understandably left negative impressions about Blacks in the minds of the Japanese. Considering these circumstances, black Africans and other darker peoples went from being at times revered, to endured and finally despised. By the time of the Meiji Restoration (1868) negative attitudes toward blacks and darker non-Western peoples began to proliferate in Japan.
It must be noted, however, that the Japanese valued "white" skin as beautiful and deprecated "black" skin as ugly before European ships touched Japanese shores. As early as the Heian period (794-1185) standards of beauty were equated with long, black, straight hair and very white skin. The Pillow Book, a series of essays, and The Tale of Genji by Lady
Murasaki, described eleventh and twelfth century beauties in this manner, "Her color of skin
was very white and she was plump with an attractive face" and "Her color was very white and
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Michael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640
(Berkeley: University of California Press, 1965), p.66; Gary P. Leupp, "Images of Black People in Late Mediaeval
and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7:1 (April 1995), pp.1-13.
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