【首里城】首里城を取り壊しから守ったのはナイチャー(内地人)
本日の虎門ニュースで、ゲストの久野潤氏が「琉球歴史文化の日」に言及されました。
- 01:35:12 11月1日は琉球歴史文化の日 条例制定で式典
琉球歴史文化の日条例(令和3年沖縄県条例第13号)
沖縄の先人たちは、長い歴史の中で、祖先への敬い、自然への畏敬の念、他者の痛みに寄り添うチムグクルを育むとともに、古来、アジア諸国との交易を通じて多様な文化を受け入れ、組踊を始めとする芸能や漆器などの工芸、琉球料理や泡盛などの食文化、空手や染物など、多岐にわたり洗練された独自の多様な伝統文化を創り上げてきた。そして、これらの文化を支えに、幾多の世変わりの中にあっても、その都度困難を克服してきた。
令和元年の首里城焼失は、県民のみならず国内外のウチナーンチュに、先人たちが歩んできた歴史と築き上げてきた文化が心のよりどころとして深く根付いていることを改めて気付かせることとなった。
こうした認識のもと、琉球歴史文化の日を定め、先人たちが創り上げてきた沖縄の歴史と文化への理解を深め、故郷への誇りや愛着を感じられる地域社会の形成に取り組むとともに、新たな歴史と文化を自らの手で創造することを図るため、この条例を制定する。
公式サイトより
今のままでは「故郷への誇り」は持てないということなのでしょうか?
これは、翁長雄志前沖縄県知事の前の仲井真知事が確保した「沖縄振興予算」が今年で終わるので、首里城を“ネタ”に、更なる10年間の延長を目論んでいるのです。
篠原 章氏(批評ドットコム主宰/経済学博士)のコラム『首里城は今も燃えている 〜「焼け太り」狙う沖縄県のモラル/国民の血税どこまで費やすのか?』2021年05月07日 より引用します。
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首里城火災の原因の一端が防災意識の欠如と防災体制の不備にあることは明らかだが、沖縄県は管理責任を不問にしたまま(※)「次の段階」に進もうとしている。次の段階とは「首里城火災をテコとした沖縄振興予算の延長」である。(中略)
当初は、本土より遅れたインフラや生活基盤の整備を目的とした計画として県経済や県民生活を大きく改善したが、復帰後半世紀も経ってその経済的基盤は他県に遜色のない水準であるにもかかわらず、沖縄県はさらなる延長(期間10年)を強く求めているのだ。
だが、政府は今のところ色よい返事を控えている。この50年間で13兆円もの国費が沖縄振興に投入されてきたが、その効果の検証が十分行われていないからだ。しかも、これとは別に防衛省が沖縄関係予算を組み、米軍や自衛隊の基地に土地を提供している地主への地代支払いや基地所在自治体のインフラ整備に充ててきた。
総額は復帰後7兆円をくだらない。沖縄振興予算との合計は約20兆円にも達する。20兆円もの特別な補助金を受け取りながら、「まだまだ足りない」と主張する沖縄県の経済実態を、政府は冷静に見極めようとしているのである。
“焼け太り”する沖縄
こうした政府の姿勢に危機感を感じた沖縄県は、とんでもない行動に出た。再発防止策よりも先に『首里城復興基本計画』を大急ぎでとりまとめ(本年3月公表)、この計画を「沖縄振興を継続する根拠」に位置づけようとしているのだ。
同計画には次のように謳われている。(以下略)
※現在、地元住民による、沖縄県の管理責任を問う住民訴訟が起こされています。
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首里城が焼失した時、沖縄メディアは「ウチナンチュの心の拠り所」などという感傷的な言葉でその喪失感を伝えました。
もちろん、沖縄サミットに合わせて再建された、あれだけ立派な“お城”が燃えたのですから、そのショックや悲しみは理解できますが、首里市が取り壊しを決めた首里城の価値を認めて、それを食い止めたのは本土の人です。
以下、AERA『首里城焼失に復元事業の権威が落胆 「沖縄伝統木材の調達が困難か」』(2019/11/01)より引用します。
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1912(明治45)年、首里城内に小学校(当時尋常高等小学校)が建てられると、荒廃した正殿が倒壊すると危険との判断から取り壊しが検討された。この動きを止めたのが、東京帝国大学教授の伊東忠太(1867~1954年)たち(※)だ。1923年に沖縄で文化調査を行っていた伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。この電報が届き、取り壊しは寸前で回避された。
当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。
その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。
※香川県出身の鎌倉芳太郎も忘れてはならない人物です。
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荒廃した首里城
沖縄神社の拝殿となった首里城
石灯籠が立てられている。
では、その沖縄神社は、その後どうなったのでしょうか?
首里城は戦火により焼失し、その跡地には米軍によって大学が建てられていました。沖縄神社は元の場所から1kmほど離れたところに小さな祠で祀られていました。
その後大学が移転し、その跡地が沖縄サミットを機に公園として整備されたのですが、沖縄神社は戻されませんでした。
「心の拠り所」なら、歴史にも関心を持つべきでしょう。
【沖縄の声】首里城焼失、県民茫然自失/米軍訓練に過剰反応/組踊を保護復活させた米海軍将校[R1/11/1]
出演:
惠隆之介(沖縄支局担当キャスター)
金城テル(沖縄支局担当キャスター)
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