【パラオ】『日本を愛した植民地 南洋パラオの真実』(荒井利子 著)ー 何故パラオの人々は親日なのか
下は清水ともみさんの描いたマンガ「パラオと日本 トクベツな国」全20頁の一部をお借りしたものです。〔漫画は「X」上で公開されており、読む事ができます。〕
これを見て、もっとパラオの事が知りたいと思い、『日本を愛した植民地 南洋パラオの真実』(荒井利子 著、2015/9/16)を読んでみました。そして、「親日国」と言われるパラオの、やや悲しい理由も知りました。
◆日本が南洋群島(ミクロネシア)を占領する経緯
この漫画の通り、大航海時代の16世紀にスペインやポルトガルが南洋群島を訪れて、パラオは1885年にスペイン領東インドとなりますが、国力が衰退したスペインはドイツ・スペイン条約(1899)でミクロネシアをドイツに売却します。
ドイツは主にリン鉱石採掘やコプラ〔※〕を目的とするので、ごく少数のドイツ人しか住んでいませんでした。
※ ココヤシの果実の胚乳を乾燥したもの。灰白色で約65パーセントの脂肪分を含む。圧搾して椰子(やし)油(コプラ油)をとり,マーガリン・石鹼(せっけん)・蠟燭(ろうそく)などの原料とし,かすは肥料・家畜飼料とする。
そして、第一次世界大戦勃発(1914.07)で、日英同盟を結んでいた日本は必然的に連合国側となり、8月23日、山東省に植民地を持っていたドイツに宣戦富国し2ヶ月後に勝利。戦勝国の一員としてドイツが所有していた南洋群島を占領します。
日本軍が来た時には既にドイツ人は退去しており、日本は戦わずして南洋群島を占領できたのでした。責任者となったのは松岡静雄海軍中佐。柳田国男の弟です。
しかし、南洋群島が日本領になるかどうかの正式な決定はパリ講和会議(1919)を待つ必要がありました。当時、フランス、ロシア、イタリアは日本がミクロネシアを譲り受ける事を了解していましたが、ここで横やりを入れてきたのは米国(ウィルソン大統領)です。急激に力を増す日本を警戒したのです。
結局、「委任統治領」と決定がなされました。他国との貿易に制限がかかり、統計資料を国際連盟に報告する義務があるなど、国際連盟の監視下におかれる事となります。
他国との貿易の制限... これはパラオの産物を対外的に輸出する事ができず、その結果日本向けに輸出(移出)するしかなくなりますが、これにはメリットもあり、外国船の入港も制限できて、軍事拠点の建設も容易になりました。
日本は台湾や朝鮮と同様、内地延長主義をとり、”日本化” の政策をとり、インフラを整備し、学校も建てます。
しかし、このときに初めて南洋群島と縁ができたわけではなく、明治初期から貿易を求めて日本人商人が渡っていました。彼らの存在が、その後の日本統治を円滑なものにします。
その中の一人は元土佐藩士の子息の森小弁で、酋長の娘と結婚していたのでドイツ時代も追い出されずに済みます。(但し、離島に移り住んでひっそりと暮らした。) 彼の子孫は3千人を超え、2007年からミクロネシア連邦の大統領を務めるエマニュエル・モリもその一人です。
◆日本人(民間人)とパラオ人は仲良く暮らしていた
この本によると、ドイツ人のパラオ支配は所謂「植民地主義」のものであったそうです。
>ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[9]。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員はほとんどないにもかかわらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。〔Wikipedia『パラオ』〕
一方、日本人はパラオ人と共に額に汗して働きました。
なお、著者によると、日本統治下のパラオにはある種のヒエラルキー(序列)があったようです。
まず、役人とその子弟は彼らだけのコミュニティを作り、民間日本人やパラオ人とはあまり関わらなかったそうで、「上流日本人」と「下流日本人(民間日本人)&パラオ人」の間に溝があった事により民間日本人とパラオ人の結束が強まった様です。
”下流日本人” の子供達は一緒に遊び、ドイツ時代にはあり得なかった事ですが、日本人の家にパラオ人が呼ばれる事もあったそうです。
そして、その民間日本人の中でも特に沖縄人が重要な要因でもありました。
これは、沖縄の人には不愉快かもしれませんが、パラオ人は日本人と沖縄人を分けて見ていました。外見や言葉、行動も違うので、日本人と沖縄人は区別ができたとパラオの古老は言います。そして、沖縄人を下流日本人の中でも下の部類、自分たちよりも下層レベルだと認識していたと著者は考察しています。
>権力を行使し、偉そうにしている役人の前で、本土出身の民間 人も沖縄県出身の民間人も、同じ日本人なのに小さくなっている。萎縮する彼ら民間の日本人の姿をパラオ人が見れば、自分たちパ ラオ人と同様に「差別されている仲間」として映ったのではないだろうか。だから、自分たちパラオ人が上中下の三層の中間に位 置し、日本の民間人とも沖縄の民間人とも、より一層仲間意識が強化され、仲良くできたのだろう。
>パラオ人は、沖縄県移民と本土移民の職業の違いや習慣の違いを明確に把握していた。
しかし、これはパラオ人と日本人の感覚の違いによるものだとブログ主は感じました。
著者によると、パラオ人はプライドが高く、沖縄県移民がやるような、魚を売り歩いたり、マングローブの林に分け入り、マングローブで炭を作って売るような仕事はパラオ人でもやらない仕事だと見ていたそうです。
失礼な言い方ですが、日本人に比較すると、パラオ人は元々それ程勤労意欲が旺盛な人達ではありません。食べ物も薪もその辺で簡単に採れるので、自給自足・物々交換の生活で問題なかったからです。日本に統治されるまで貨幣経済も無かったので、小売業というものもありませんでした。
沖縄県移民をパラオ人が下層だとみなした理由は、単に、南の島での生活に慣れている沖縄県移民がめざとく商売になりそうなものを見つけ、それを仕事にしていたからでしょう。
実際、沖縄人はパラオ人が ”下” と見る職業だけで無く、パラオで採れる鰹に目を付け、鰹節工場も作っています。
◆パラオの古老の言う「昔は良かった」の背景にはパラオ人を堕落させたアメリカが
アメリカは本当はミクロネシアを領土にしたかったのですが、パリ講和会議で日本の領土に反対した手前、結局、信託統治領となりました。
日本統治時代のパラオは飲酒が禁じられていました。これは、パリ講和会議で日本の委任統治が決まった時に決められた事で、日本はそれを守っていたからです。
日本の敗戦で日本に代わってパラオを統治したのはアメリカで、飲酒も解禁されました。
アメリカはパラオに「自由」を与えると約束しましたが、それは放任主義でもあったのです。
日本統治時代の南洋群島は自由貿易もできない代わりに、他国の船も出入りできず、その為に、この地の人々がどれ程文化的な生活をしていたのか、全く知りませんでした。
アメリカがパラオを占領する際、残っていた道路などのインフラ整備も日本人に命じて破壊させたそうです。
日本色を排除して原始的な生活に戻る事が彼らの本来の姿だと思ったのでしょう。その結果、パラオ人たちには職がなく、食べるためには再び自給自足の生活に戻るしかありませんでした。
>壊されたものは、建物や道路だけではなかった。滑走路、波止場、船の定期便、交通機関、給水装置、発電施設、電話、タロイモ畑、教育システム、文化、習慣……。もちろん、日本人との友情もこの時点では失われてしまっていた。
アメリカは必要なインフラは復旧させず、パラオの人々の不満が溜まると、金だけ支給しました。その結果、仕事をしない公務員だけが増え、役人は腐敗し、若者はアメリカ文化を享受する一方、日本統治時代を知っている老人達の目には堕落したと映ったのです。
>老人達はみんな口を揃えてアメリカ時代の不満を私〔※著者〕に訴えた。...「アメリカになって食生活も変わりました。日本時代はお米も食べましたけど、主食はイモでした。アメリカになってからは主食がお米になりました。もうタロイモは作りません。どこの家へ行ってもお米のない家はありません。カリフォルニアのお米です。それと、魚を捕って食べることもほとんどなくなりました。みんなアメリカからきた肉を食べています。だからお金が必要なんです」
>「昔のパラオ人はみんなスマートでした。タロイモの文化がありましたから。筋骨隆々たるすばらしい体格をしていました。今じゃ、アメリカの安い肉食べて、みんな太っています。あれじゃ、椰子の木に登れない。もう登る人もいなくなりましたけど。... 」
他にも、昔はいなかった、”未婚の母” も現れたと訴えています。
日本統治時代に大工などを養成する「南洋庁木工徒弟養成所」が作られましたが、その写真を見た時、ブログ主も現在のパラオ人とは違う事に気づきました。皆、スリムなのです。
前述の様に、ミクロネシア連邦では森小弁の子孫が有力者になっているのですが、著者は、森の一族やそのコネがないと出世できないと言います。
この辺の「昔は良かった」は台湾とも少し似ているような気がします。
「日本人は何かと小五月蠅かったが、その後に来た国民党と台湾社会は... 」という対比です。
パラオの古老達は、アメリカの与えた「自由」は決して良い事ばかりでは無かったと気づいたのです。
下:昭和天皇在位60年を提灯行列で祝うパラオの人々
◆日本統治時代の教育
最後にこの本で知った、日本統治時代のパラオの教育制度について書いておきます。
繰り返しますが、パラオを含めたミクロネシアは日本の委任統治領であり、当時のパラオ人は日本国民ではありません。しかし、軍事的に重要な位置にある南洋群島を領土にしたかった日本はパラオ人の「皇国臣民」化を図ります。これに関しては、現在のパラオ人が文句を言っていないので、現代人がとやかく言う事では無いと思います。
民間人の移住が増え、日本人児童が増えると、国語常用/非常用で学校を分け、島民の児童は島民学校(後の公学校/本科3年と補習科2年)に通いました。公学校の本科だけではひらがな/カタカナ程度で、それ程高度な教育という訳ではありません。日本への留学制度もありましたが、あまり向学心は高くなかったようです。
独特なのは補習科と並行した「練習生」制度で、日本人家庭に行き、2時間半程家事手伝いをしながら日本語を学ぶと言うものです。
練習生にはおやつと給金が出ました。月1円50銭を受け取ると、その内1円は先生が郵便局で通帳を作って積み立て。5年の練習生期間が終わると通帳を貰ったそうです。卒業した人はお金があったから「日本統治時代は良かった」となるのだとインタビューを受けたパラオ人が言っていました。
1926年にコロール市に大工仕事を学ぶ南洋庁木工徒弟養成所が作られます。これは補習科を優秀な成績で修了した生徒だけで、かなりの狭き門でしたが、授業料は無料、学用品や用具も支給または貸与。寄宿舎や食料も無料でした。徐々に教育内容も充実し、建築に必要な数学や設計、車の整備や電気技術も加わったそうです。
台湾や朝鮮などと比べると低レベルな教育とは言え、アメリカはこのような教育制度も壊してしまったのです。
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大東亜戦争でパラオが激戦区になった事で日本を恨むパラオ人は皆無ではないそうですが、不思議にも、パラオ人は「日本統治時代」と「戦争」を分けて考えているそうです。
幸いにも、パラオでは日本統治時代を「良い時代」と考えるお年寄りがそれを語り継いでくれましたが、今後も「親日国」でいてくれるかどうかは、日本政府の関わりに掛かっていると思います。
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