先日の首里城火災をきっかけに、以前観た動画を観直してみました。
沖縄の歴史学者である玉城有一朗博士の講演動画で、テーマは「琉球処分」です。
そのことを書く前に、ある動画(沖縄の声)のコメント欄を読んで気付いたことがあるので、書き留めておきます。
下は、以前のエントリーに掲載した、平成の首里城再建後に米国公文書館で発見された沖縄戦での焼失前の首里城の写真ですが、これとこれ以外のモノクロの写真を見たときに、ブログ主の印象は「古い学校か何かみたいだな」でした。あるいは「神社みたい」と。
仮に建物全体が朱色でも、中国風というよりは神社のような雰囲気だと思わないでしょうか?
その理由は「唐破風」(からはふ)という玄関の屋根(下図)で、そり曲がった曲線状の破風だということに気付きました。これは桃山時代(16世紀後半、豊臣秀吉の時代)の建築の特徴で、「唐(から)風の破風」という意味ですが、まごうこと無く、日本建築なのです。
下の画像は鎌倉の建長寺(鎌倉五山の第一の寺)の境内にある「唐門」の画像です。
それが、再建された首里城がミニ紫禁城のような中国風味なのは、破風の下や柱の派手な装飾と前に立つ龍柱のせいかもしれません。
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【一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム仲村覚 】坂東忠信講演会 特別講師・玉城有一朗 歴史学者/2015/01/18
以前も当ブログで何度か「琉球処分」(琉球の廃藩置県)については書いていますが、この講義では徐々に沖縄歴史界で支配的な学者や言論により、本来は歴史上の出来事である「琉球処分」が、政治的な意味合いをもって使われるようになった経緯が分かります。正味30分程の講義ですが、固有名詞などが聞き取りにくいのと、広く目に留まるように文字にしておくのがこのエントリーの目的です。
以下、玉城有一朗先生の講義内容(発言内容)を要約し、適宜ブログ主が補足説明を括弧内などに追加します。
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琉球処分とは何か。結論から言うと 琉球国、琉球藩に対する廃藩置県の貫徹である。それは、当時の行政文書を調べれば分かるが、沖縄の歴史学会ではそういうことが認められていない。私が2001年に論文を書いたが、圧力がかかって公表ができなかった。
そもそも「琉球処分」、あるいは「廃藩置県」と当時の人達は言っていたが、この歴史の評価が始まったのは1913年(大正3年)で、時期としては第一次世界大戦(1914年~)の頃、日本は不況のさなかにあり、沖縄の経済をどのように振興させていくのかという意識が県当局にあった。
太田朝敷(おおたちょうふ)という、当時は「開化党」に属していた言論人が琉球新報紙上で1913年に述べた評価は、「琉球処分は実質的に征服と言うことになってしまった。本土に比べると、7年乃至8年は遅れる形で沖縄県が設置されるまでの政治改革があった。琉球藩が廃止され沖縄県が始まるのに3~4年かかってしまったことは沖縄県にとって重荷になってしまった。」という趣旨の論説を発表している。
本土では、1869年(明治2年)7月、版籍奉還で日本の土地(版図)と人民(戸籍)が天皇陛下に奉還された。
その時、琉球国は鹿児島県の管轄地として一旦日本国に入っている。その時、奄美やトカラ(列島)は大隅国(おおすみのくに)に再統合されている。
それから2年後、1871年(明治4年)7月に廃藩置県(全国の藩を廃して府県が置かれ、中央集権化が完全に達成された。同年末には北海道のほか3府72県が置かれた。)が行われ、この段階で逆らった藩があったとしたら、明治政府は軍隊を送ってでも県を設置させると鎮台(ちんだい=軍隊)を編成。沖縄の直近では熊本の鎮台があった。
本土ではさしたる混乱も無く県が置かれ、琉球についてはどうするか議論されていたが、1871年11月に宮古、八重山の漁師達が台湾に漂着して54名が現住民に虐殺されるという事件(台湾事件、宮古島島民遭難事件、あるいは牡丹社事件)が起きている。
大久保利通が全権として北京に行き、清朝の官僚と交渉。これ以前の1871年9月13日(明治4年7月29日)に日清修好条規という対等な条約をに結んでいたので、国家間の交渉ができた。(台湾事件は台湾側では牡丹社事件と呼ばれ、清は「台湾は教化が及んでいない『化外の地』である」と責任を回避したので、日本政府は1874年4月に西郷従道(さいごうつぐみち)を指揮官として台湾に派兵=征台の役=し、台湾南部を占領。日本との開戦を避けたい清政府は賠償金を支払う。)
丁度明治政府が沖縄の取り扱いをどうするかという議論をしている頃であり、大久保利通は宮古・八重山の漁民は日本国民であると主張し、新政府はこれに言葉を返せなかったと外交記録が残っている。
知事選挙(2014年 翁長雄志氏が現職の仲井眞弘多氏を破って当選)の前後にある先生が厚い本を出した。その中で、この文書が曲げて解釈されている。「琉球人は琉球国の国民であり、日本の国民でも中国(清)の国民でもない」と。その点については機会を見つけて正すべき事は正さないとといけないと思っている。
琉球処分という言葉が段々と変化している。
戦前に於いては沖縄県は日本国の一部であるという評価をする人が大半であった。
伊波普猷(いはふゆう)という沖縄学の大家が「琉球処分は一種の奴隷解放なり」と書いている。要するに、琉球処分に先立つ薩摩300年の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、即ち圧政を取り除いて、沖縄の人々を自由に至る道を開いたということ。本土とは同時に廃藩置県はされなかったが、日本の一部であるという認識が戦前は共有されていた。
戦後、1969年(昭和44年)前後に「琉球処分論」が沖縄の歴史学会で起きた。
丁度この頃、ベトナム戦争(1960~75年)もあり、世界の動乱と沖縄を関連させて評価しようという動きがあった。そこで「民族統一」が議論に上ってきた。太閤検地の理論化を行った安良城盛昭(あらきもりあき)という歴史家が、「上からの他律的な民族統一である」という視点に立ち、「当時の東アジア情勢の中で、日本国が近代主権国家として欧米と対等に互していくためには国境線の確定に取り組んでいたのではないか」とし、再度琉球処分を評価し直すべきという問題提起をした。
しかし、それに対して正面から応えることは、私が手を付けるまでは無かった。
安良城先生の意見に反論を唱えた先生がいたが、この方の説が現在は日本の歴史教科書では紹介されている。それは、「琉球処分というのは台湾事件をきっかけとして、1872年の琉球藩設置に始まり、1881年の(清との)「琉球分島」交渉決裂までの10年間の政治過程をもって「琉球処分」を定義する、と言う説。つまり、「台湾事件がきっかけで琉球国が武力で日本に併合された」という、「琉球国は元々日本では無かった」という前提に立つ説である。
この評価が出てきたのが1969年から72年、沖縄の本土復帰前後。
それから時間が経ち、4~5年前(動画は2015年なので2010年頃となり、この辺りの時系列は不明瞭だが、冒頭の説明によると2001年)、私が安良城盛昭の「上からの他律的な民族統一ではないかということを検証しろ」という問いに応えるべきではないかと論文を書いたところ、発表を止められてしまった。
それから5年位して西里喜行(にしざときこう)という、沖縄の書店にも置かれているような近代の通史を書かれた先生だが、西里先生に因れば、「琉球処分とはまだ日中間で未解決の琉球帰属問題の中で最も決定的な時期を以て琉球処分という」と、少し定義をずらして、学問の言葉ではなく、どちらかというと政治上の言葉に置き換えられていくのがだいたい2005年頃から。
それまた4年後に、比屋根照夫(ひやねてるお)先生という政治思想史の専門家より、「琉球処分というのは歴史家の定義を越えて、沖縄の人々の中に定着していった『抑圧』を指す象徴的な言葉である。つまり、『抑圧』そのものが琉球処分である」と、学問ではなく、政治の言葉として定義してしまった。
この状況を危ないと私は思っている。
学問の装いをしながら一定の政治目的の実現の為に歴史の資料が曲げて解釈されたり拡大解釈される、あるいは都合のいいように書き換えられて、都合の悪いことは隠されたり薄められたりしている。そういう流れに正統性を与えてしまっている。
あと、新聞紙上等を見ていると、琉球処分というのが国際法に違反しているという理論がある。(『沖縄対策本部■新たな沖縄の歴史戦「琉球処分違法論」と無防備な日本政府』(2014/7/20)参照)
結論としては、琉球処分については国際法を適用する理由がない。
琉球処分は国際法によって規制、是正されるような事件ではない。
何故かというと、明治維新から明治12年の日本あるいは中国に国際法が適用されていたと考えていた国はない。その当時の国際法とはヨーロッパ中心で、(ヨーロッパから見たら)ヨーロッパが文明国であり日本や中国はヨーロッパに啓蒙されていくべき対象であった。
ヨーロッパと東アジアは対等でなかった。もし、日本と中国(清)間で戦争が起きたら、ヨーロッパ人が乗り込んできて分割、植民地化されるような時代だった。
その当時の中国を見たら分かる。アヘン戦争後(1839年~1842年)の南京条約で清の各地は分割されてイギリス・ドイツ・ロシア・フランス各国によって分割されて植民地にされていく。そういう時期に日本が琉球処分や台湾出兵の時に粘らなければ、沖縄も欧米諸国の植民地になっていた可能性がないとは言えない。
それだけ緊迫した情勢が明治維新期の日本の国際環境としてあった。欧米は日本やあるいは琉球を対等な存在とは見ていないので、琉球処分が国際法に違反する事件であったという評価は当たらない。
また、現在の国際法で琉球処分が違法と考えている方がいたらそれも間違いである。
何故かというと現在の規定を遡及して過去の事件に当てはめるのは法律の解釈としては成り立たない。従って、現在の国際法は琉球処分を批判する根拠にはなり得ない。
台湾事件は最終的に清が賠償金を支払った。
このことは、宮古・八重山、つまり琉球の人々は日本国民であることを認めたことになる。1874年(明治7年)のことである。
その当時、ベトナムに目を転じると、フランスが今のメコンデルタ一帯を植民地とする。清とベトナムとの冊封体制の一角が崩れたのが台湾出兵と前後するこの時期である。
※Wikipedia『ベトナムの歴史』「フランス領インドシナ」の項より引用
1887年 - 1945年。詳細はフランス領インドシナを参照
ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(英語版)・1884年の甲申条約(英語版)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
その後、1875年に清への進貢船(琉球から進貢使が国書・貢物を乗せて中国に赴いた船/1874年が最後の進貢船)が停止されたことを受けて、清が抗議行動を行う。
これに呼応したのが所謂「脱清人」(明治初期の琉球処分に反対して清国に亡命し、琉球救援を要請した琉球王国における一部の人々)や、「白党、黒党」の「黒党」と呼ばれる親清国派である。
こうした士族の動きを抑えきれなかった琉球王府に対して明治政府がとったのは熊本の鎮台を琉球に派遣して沖縄県を設置することである。
脱清人や黒党の動きがなければ円満に沖縄県の設置ができたかもしれないが、彼等が外国政府の力で明治政府に対抗しようとした。そのためにやむなく明治政府は派兵した。(実際は無血開城)この辺りの評価を行う歴史家は学者は少ない。東アジアの国際情勢や中国等の歴史を考えながら評価をしていきたいと思っている。
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このエントリーを書くために玉城有一朗博士のプロフィールを調べようと検索してみても、琉球史に関する著書や論文が見当たりません。
講演の内容で想像がつきますが、沖縄にとって不都合な歴史観を発表しようとすると“干される”ということが分かります。
ここでは、Viewpointの『「抑圧」の象徴として政治利用 「琉球処分」の再考』(2015/2/02)という記事(会員向け-有料会員でなくても登録すれば読める記事)に書かれていた当時のプロフィールのみ以下に引用させて頂きます。
たまき・ゆういちろう 「沖縄の歴史を取り戻そう」――常にこう訴える玉城有一朗氏は、昭和52年沖縄県那覇市生まれの歴史学者であり政治学者。琉球大学法文学部政治学科を卒業後、同大学大学院に進み、日本政治を中心とする歴史学および国際政治学を専攻。平成22年に博士号を取得、翌年には県内地方銀行に就職した。平成25年に現在の研究所に勤務、沖縄の歴史を研究、特に「琉球処分」の政治的な解釈に疑問をもち研究に取り組む。「琉球処分の間違った解釈が今日の沖縄の人の心に引き継がれている」との見地から「琉球処分」の正しい解釈を広めようと努めている。
さて、玉城有一朗博士によると、よく言われる「琉球王国」ですが、以前は「琉球国」と呼ばれていたようです。これは江戸時代に「○○国」と呼んでいたのと同じレベルなのを、さも独立国として存在していたかのようなキャンペーンの一貫のようです。と思ったら、首里城の再建や首里城公園の整備に携わった高良倉吉教授が『琉球王国』という本を著していました。
考えてみれば、首里城再建プロジェクトに関われたということは、そういう“立ち位置”の方だということは理解できます。
首里城の外観を中国風に寄せたのも頷けます。
このエントリーでは明治維新の「琉球処分」を取りあげましたが、これは1609年以降、薩摩の支配下置かれていたことを意味します。
『そうだったのか「沖縄!」』(仲村覚氏、他著)の石井望・長崎純心大学准教授が書かれた章に詳しく文献も提示されて説明されていますが、1617年に明石道友が福建に渡航し、明国は薩摩による琉球併合を承認したことは記録(『皇民實録』)残っており、次の王朝の清国もこのことを知っていました。
上の画像は今回の火災で焼失した建物を示した画像ですが、北殿はシナの官吏を接待するための建物で中国風、南殿は日本式で、薩摩藩の役人が詰めていた建物でした。(リンク先は首里城公園のサイト)
江戸幕府の禁教令も八重山まで届いていました。1624年には石垣島に宣教師が来て有力者の石田永将(いしだえいしょう)が改宗、一門に広めたことで処刑されています。(八重山キリシタン事件)
下は以前のエントリー『【尖閣諸島】中国政府がぐうの音も出なかった資料とは-明時代、中国人は尖閣への航路さえ知らなかった』に掲示した図ですが、台湾より北は薩摩が制海権を握っていたのです。
「琉球王国」というのはシナとの貿易をするためのカモフラージュであったのです。
他の玉城有一朗博士の動画などをメモする予定ですが、一旦ここまでで公開します。
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