公開: 2018/12/24 15:49 最終更新: 2018/12/25 0:33
先日、ミスユニバースのアメリカ代表がベトナムやカンボジアの代表の英語力の無さを揶揄して非難を浴びました。SNSが炎上したようです。
英語圏の人達は、英語を話せて当然と思っている人は多いのでしょうが、わざわざ動画で公開することかと驚きました。
こんなこと、日本ではありえません。
現在では日本語を母国語とする国は日本だけですから、外国人が日本語を話せなくても不思議とは思えないし、旅行者が片言でも話したら、たとえそれが簡単な挨拶程度でも感心する日本人は多いのではないでしょうか。
こんなことを考えたのは、本日の読売朝刊になんとも意味不明な寄稿文があったからです。
専修大学教授で評論家の武田徹という方の文です。
寄稿文は、①日本のコンビニなどで働く外国人労働者はそれなりに上手な日本語を話すので、やり取りに不自由はしない。②しかし、彼等の話す「日本語」は「国語」(?)ではないので、日本人はいつまで経ってもよそ者扱いする。「日本語」がいかに上手くとも、外国人には日本を理解できないと日本人は思い込んでいる。③この配慮のないメンタリティーを変えないと、外国人(労働者)と相互理解はできない、という内容です。
論理の組み立てがよく分からないのですが、外国人労働者に対する日本人の閉鎖性を批判しているようです。
そもそも、日本人が今、国が行おうとしている「移民政策」に不安を抱いているのは、そんな理由からではないのですが...。
あまり、この文について論じても意味がないような気がしますが、意味不明な点を何点かピックアップして、一部反論してみます。
まず、日本語を母語としない人と日本人とでは「日本語」学習のプロセスが違うのは当たり前です。
「外国人には分からない日本事情」とは精神性のようなことを言っているのでしょうが、それは『国語』を学んで身につけたものではありません。
仮に、日本人が、「いくら日本語が上手い外国人でも日本のことは理解できない」と信じていたとしても、それは言葉だけの問題ではありません。
近代日本で『国語』を国民統合の象徴とした?
これも意味不明。
もしかしたら、朝鮮半島や台湾での「日本語教育」(あるいは「皇民化教育」)のことを言っているのでしょうか。
③で「生活経験の差による言葉遣いの違いは日本人集団の中にもある」と、筆者はやたらに「言葉」に拘っているのですが、「言葉」ではなく、個人的な「メンタリティ」とか「考え方」、「イデオロギー」とかでしょう。
方言や多少の生活経験の違いがあっても、日本国内で日本人同士で、言葉の上でコミュニケーションに困ったことなどありません。(方言の強い地域の人でも、相手に合わせて、理解できるように話すことはできるし、します。)
そして、「メンタリティ」とか「考え方」は親や教師など周囲の人間関係、触れた書物、教育など、育った環境に影響されたものでしょう。
筆者は本当は分かっているのです。育った環境が違えば相互理解に影響があるのはしかたがない、と。
それを「言葉使い」とか「日本語能力」のせいだと誤魔化しているだけです。
たまたま隣近所に外国人が越してきたとして、あるいは、職場に外国人が来たとして、その人が地域や職場の習慣やマナーを守って周囲に気を使ってくれたら、普通の日本人は歩み寄りますよ。
そうではない外国人が大量に押し寄せてくるのを恐れているだけなのに、それを「言葉」の問題に矮小化したり、日本人の閉鎖性に原因があるかのように言わないで頂きたい。
【2018/12/24追記】ブログ主は、自分が外国語を学んだ経験から、外国語としての日本語をノン・ネイティブにどうやって教えるのか興味を持ち、様々なメソッドを学び、日本語教育能力検定試験も受け、パスしました。そして、日本語を学びたい外国人(英会話教師)に日本語を教えた経験があります。
そうした経験から、この寄稿文を興味深く読み始めたのですが、恐らく、武田氏は③を仰りたかっただけかもしれないと思いました。
日本人は、島国ということもあり(=外国人との接触が少ない)、また、日本語だけで高等教育を受けられる環境にあり、日本語を外国語として考えたことがないかも知れません。そのために、日本語が完璧でない外国人に対して閉鎖的な性質があると指摘されても、それは一つの意見として否定しません。(ブログ主自身は冒頭に書いたように、日本人は外国人の不完全な日本語には寛容な方だと思っていますが。)
しかし、仮に閉鎖的だとしても、それを言語の問題だけで論じるのは違うのではないかと思って、このエントリーを書いた次第です。
最近のコメント