【学園浸透スパイ事件とその時代】 もう一つの日本・朝鮮半島史【北朝鮮による拉致問題】
公開: 2018/06/09 23:21 最終更新: 2018/06/21 11:49(拉致関連の出来事追記中)
このエントリーは北による対南工作である「学園浸透スパイ事件」と北による「日本人拉致事件」に係る出来事を時系列に並べたものである。
- 『徐勝(ソ・スン)「英雄」にされた北朝鮮のスパイ―金日成親子の犯罪を隠した日本の妖怪たち』(張明秀著)を読みながら日付を拾ってメモをしていたものを時系列に並べたもので、基本的には文中の記述。(ページ番号(P.xx)は本書の頁)
- 「学園浸透スパイ団事件」そのものの概略はこちら。
- 敬称略。必要に応じて肩書を記す。
- 現在、『メディアは死んでいた』を参考に、北朝鮮による拉致事件も追記中。(青字で追記)
- 関連するブログ記事は にリンク
- その他の出典については、頁末に。
朝鮮戦争
1950年(昭和25年)6月25日 朝鮮戦争勃発(~53年7月休戦)
- 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、1950年6月25日衝突し、それぞれアメリカ軍を主体とする国連軍と中国人民義勇軍の支援のもとに国際紛争にまで発展した戦争。朝鮮動乱。
1950年9月~1958年10月 〔日本国内〕第1次~第4次北朝鮮スパイ事件
- 激動する朝鮮半島情勢を背景に、在日米軍に関する情報収集や、日本の警察予備隊、保安隊に関する情報収集を目的とする。「本庄浜事件」・「一宮事件」(1964年7月)、「寝屋川事件」(同年10月)
北朝鮮帰国事業にマスコミが果たした役割
1959年(昭和34年) 〔社会党〕朝鮮問題対策特別委員会を設置 帰国事業の推進を図る。日本共産党主導の団体・「日朝協会」は帰国事業が始まる直前に北を訪問した見聞録を発表。北を賛美したものであった。
1959年(昭和34年)12月14日 北朝鮮帰国事業開始…社会党が中心的役割。元々は金日成が外交政策として掲げたスローガンに過ぎなかったが、日本政府も朝鮮人に帰って欲しかったためあっさり実現してしまう。(~1984年)
在日朝鮮人はそもそも38度線より南出身者が多かったので元々北に対する郷愁はない。 そのため、帰国事業を推進する国際赤十字委員会は本当に帰国の意思があるかどうか確認しようとした。しかし北朝鮮政府が反対。北の主張に加担したのは雑誌『世界』(岩波書店)で、59年6月号では 朝鮮労働党機関誌『労働新聞』59年3月17日の社説まで転載して北の立場を支援した。結局は本人への意思確認が必要と言うことになったが、北と総連は「共和国は地上の楽園」キャンペーンを行う。それを支援したのも『世界』(P.211)で、60年6月号では帰国協力会の代表委員だった自民党の岩本信行代議士が、それまでの帰国者1万6千人の北での暮らしぶりを訪ねた報告を掲載する。60年は他のマスコミ各社も北朝鮮の現地取材をしたが、どれも同じように北の豊かさを喧伝するものだった (P.212)
岩本が北は極楽と嘘を言ったのは在日同胞を帰国させることが日本政府の意思だったためで、貧困・犯罪の温床である在日朝鮮人を厄介払いしたかった。(P.213)
1960年(昭和35年)~ 日本に侵入していた北朝鮮スパイの摘発相次ぐ…「浜坂事件」(60年)、「寝屋川事件」(64年)、「東大阪事件」(68年)、「湯川事件」(75年)、「水橋事件」(80年)
1963年(昭和38年)5月 寺越武志さん、能登半島沖に出漁中に行方不明 …24年後に北朝鮮から叔父さんの手紙が届き、武志さんも生存して北朝鮮で生活していることが判明。→
1964年(昭和39年) 〔徐勝〕東京教育大学入学 韓学同(民団系)に加盟…62、3年頃高校生の徐勝に近づきオルグしたのは芥川賞作家の李恢成(りかいせい/イ・フェソン)。彼は学生時代から68年まで総連の活動家であった。(P.44~46)
1965年(昭和40年)6月22日 日韓基本条約 …韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認める。
- 北は日本が南だけと結ぶこの条約は南北分断を固定化するものと反対。日韓基本条約後、韓国政府は在日同胞の留学生を大々的に受け入れるようになる。
韓学同は総連に牛耳られていたので反対したが、総連は急にその反対運動をやめる。(P.48
)韓学同を表向き穏健な組織にして、北側の工作員を送り込むため 。
1967年(昭和43年)8月 〔徐勝〕工作船にて第一次入北、間諜教育を受ける …1ヵ月後の9月10日に工作船で帰国。(P.59)
1968年(昭和44年)1月21日 〔北朝鮮〕青瓦台襲撃未遂事件 …北朝鮮特殊部隊により発生した韓国大統領府襲撃未遂事件
1968年(昭和44年)4月 〔徐勝〕留学生としてソウル大学へ
1969年(昭和44年)12月10日 〔北朝鮮〕大韓航空機YS-11ハイジャック事件
1970年(昭和45年)3月31日~4月5日 〔日本・北朝鮮〕よど号ハイジャック事件…犯人等が北朝鮮に亡命
1970年(昭和45年)8月15日 〔韓国〕朴正熙大統領、光復節の演説で初めて北朝鮮政権の存在を認める。同時に北朝鮮の対韓武力行使と戦争挑発行為の即時放棄を前提に、南北間の人為的障害を除去する方策を採る用意があることを表明(8・15宣言)
1970年(昭和45年)8月30日 〔徐勝〕弟俊植を連れて工作船再入北
1971年(昭和46年)4月 大阪経済法科大学設立 …帰化した在日朝鮮人により設立 副学長は学園浸透スパイ事件を工作した指導員の筆頭に挙げられていた。
1971年(昭和46年) 〔韓国〕4月27日行われる選挙に向けて朴大統領の三戦を阻止しようと学生運動高まる。(P.62)
学園浸透スパイ事件
1971年(昭和46年)3月6日 〔徐勝〕再び韓国に渡航。逮捕
1971年(昭和46年)4月20日 学園浸透スパイ事件で逮捕
- 【4月20日付毎日新聞夕刊】韓国陸軍保安司令部は、二十日、北朝鮮の指令を受けて政府転覆を画策していた51人の大規模なスパイ団グループを検挙した、と発表した。(中略)朴(正煕)大統領の三選阻止運動を進めていたとしている。(『わが朝鮮総連の罪と罰』より)
1971年(昭和46年)4月27日 〔韓国〕朴正煕、金大中を破り大統領三選
1971年(昭和46年)5月29日 〔徐勝〕反共法(61年施行)と国家保安法で起訴
1971年(昭和46年)7月19日 〔徐勝〕第一審 …焼けただれた顔で現れたため李恢成がガスバーナーによる拷問と言いふらす。(P.207) しかし、そもそも拷問だと言い始めたのは産経新聞(P.208) 71、2年頃の新聞は激しく徐兄弟の問題を騒ぎ立てた。
1971年(昭和46年)10月 『救う会』発足(代表:東海林務牧師) …指導者の一人に東大教授・和田春樹氏(ロシア革命史)。度々集会で講演。金正日を度々称賛(岩波書店『世界』にて)、山田昭次等。実際の仕切り役は長兄善雄だというが、長兄の存在は徹底的に隠されている。
1971年(昭和46年)10月22日 死刑判決 …俊植は懲役15年、翌年無期懲役、懲役7年に減刑→上告は棄却され刑が確定。
- 71年10月の第一審では対南工作を認めているがその後前言を撤回し、純粋な思想犯を演じ始める。事実関係を否認して無実を主張。著者によると、救援運動がそうさせた。総連はKCIAのでっちあげと主張、日本のマスコミもそれに同調していた。
- 韓国では「転向書」を書けば刑期を満了せずに釈放されるが兄弟は書かないどころか、獄中から世界のマスコミを通じて政府批判を続ける。
- 〔朝日新聞〕徐兄弟逮捕時にソウル特派員だった猪狩という記者は一貫して「この事件は韓国政府のでっち上げ」という前提での記事を書き続ける。この記者は80年に北に招かれて1ヵ月滞在し、北を称賛する記事を何本も書く。
- 〔朝日新聞〕71年9月27日 金日成との会見記を紙面に掲載。その後も度々会見記を掲載。
『救う会』の指導者等の「北朝鮮、韓国、日本」に関する論理は、「北朝鮮を生んだ朝鮮戦争はアメリカの帝国主義に対する民族抵抗」→「戦後も日本を支配している軍国主義者と韓国政府はつるんで南北を分断している」→「だから、日本人としては韓国政府を批判する義務がある」(P.123) ところが、後の93年に「金日成こそがソ連帝国主義の傀儡として朝鮮戦争を起こして民族を分断した」という機密文書をロシアが公開し、その要旨が朝日新聞(6月28日付)に掲載されるが、その解説を和田春樹が書いている。さすがに、事実を渋々認めるような内容であった。(P124)
『地上の楽園』の本当の姿を伝えた赤旗の記者、隠す朝日や岩波
1970年代初め 北朝鮮・総連との癒着が更に強化
- それまでは日本社会党と日本共産党の統一戦線的な団体「日朝協会」とが中心だったが、北が金日成への貢ぎ物を強要したために共産党と総連が仲違いする。これで総連は社会党を取り込む。
- 当時の共産党と朝鮮労働党の関係は、個人崇拝を巡る対立やラングーン爆弾テロを巡る論争があり、83年以降断絶状態が続いていた。(「メディアは死んでいた」)
1971年(昭和46年) 朝日新聞・宮田記者、北朝鮮の招待で2ヵ月滞在
- 滞在して見聞きしたこととして朝日新聞夕刊に12回に渡って『チュチェの国 北朝鮮』を連載し、北朝鮮を礼賛。
- 日本共産党の機関誌『赤旗』の特派員として72年から平壌に駐在した萩原遼氏は、日本で耳にした話と実態とのギャップに衝撃を受ける。
1972年(昭和47年)2月、10月、80年5月、83年4月と日本の国会は徐兄弟救援の訴えと要望書を韓国政府に提出。76年1月31日には衆議院予算委員会理事会で全員一致で「死刑執行の中止」を求める決定。これに尽力したのは社会党の安宅常彦議員。(P.182)
1972年(昭和47年)10月6日 金日成・安江良介(1972~88『世界』編集長)との会見
1972年(昭和47年)11月 『韓国からの通信』が岩波書店『世界』に連載開始 …筆者はT・K生なる匿名の人物。
1972年(昭和47年)は激動の年であった。
韓国民主化運動という名のスパイ行為
1973年(昭和48年)8月8日 金大中事件 …東京でKCIAに拉致
1973年(昭和48年) 辛光洙(シンガンス)秘密工作船で北朝鮮から日本上陸 …坂本という日本名で日本人になりすます。(元々在日コリアンで「立山富蔵」と名乗っていた)→原敕晁(はらただあき)さん拉致事件。
1973年(昭和48年)4月8日 〔北朝鮮〕4・8教示 …金日成「総連の全ての事業は祖国統一の実現に従属するものである」(P.92)
1974年(昭和49年)6月 在日朝鮮人の2児拉致、母親は殺害 …日本国籍ではないため2児については拉致認定はされていない。
1974年(昭和49年)8月15日 〔韓国〕朴正煕暗殺未遂事件 …夫人暗殺。犯人は在日韓国人二世の文世光(むん・せがん)。(P.82)
1974年(昭和49年)8月17日 〔ソウル地検〕犯人の自供内容を発表 …文は大阪生野西支部(総連)にオルグされ、69年に民団系の青年組織・韓青(在日韓国青年同盟)の幹部活動家だった(72年に辞表を提出)
- 韓青は総連が民団内部に作ったフラクション(※)であった。しかし、韓青の指導者のひとりであり「朴政権打倒」を掲げる在日韓国人組織・韓民党(韓国民主化統一国民会議)は総連との関係を否定する。(P.83)
※フラクション: 小部分の意味だが、革新政党が他の大衆団体の内部に設ける党員組織。フラク。1974年(昭和49年)10月 〔北朝鮮〕金正日、クーデターで父の弟・金英桂を蹴落として北の全権を掌握 →77年1月、総連に宛てた指示書
【当時の日本のマスメディアの半島報道】(『メディアは死んでいた』(阿部雅美著)より引用)韓国に対しては、自由主義、民主主義という価値基準に照らして軍事独裁、圧制と批判し、その打倒を掲げた民主化運動へのシンパシーに満ちていた。(中略)一方で、同じ価値規準に照らせば、言論の自由も結社の字湯もない北朝鮮に関しては、その独裁体制を問題にすることはなかった。完全にダブルスタンダードだった。75年にベトナム戦争でサイゴン(ブログ主註:現ホーチミン)が陥落して米国が負けると、この傾向に拍車が掛かった。⇒日本国内、特に言論界や知識人層による「親北、反南」という世論形成;
北による日本の政界工作と雑誌『世界』/日本人拉致活動
1976年(昭和51年)11月11日 〔北朝鮮〕金正日、総連に宛てた指示書 …内容は、日本にいる韓国マスコミ特派員の買収、保守系の大物政治家を1、2名工作、小田実(作家・政治運動家)のような人物を2,3名獲得すること。(P.184)
1977年(昭和52年) 『見果てぬ夢』(李恢成著) …対南工作事件を題材にした小説。北野工作員が韓国に潜入する描写は驚くほど徐勝の裁判での証言に一致する。(P.55)=徐勝の工作活動を把握していたという著者の推論の根拠
1977年(昭和52年)頃より北朝鮮による日本人拉致容疑事案が頻発する。
1977年(昭和52年)9月19日 能登半島で久米裕さんをだまして拉致…(宇出津事件)
1977年(昭和52年)10月21日 鳥取県米子市で松本恵子さん拉致
1977年(昭和52年)11月15日 新潟市で横田めぐみさん拉致
1978年(昭和53年) 〔岩波書店〕『世界』5月号 『徐兄弟獄中からの手紙』 …社会党土井たか子がこの記事を国会で取り上げ、日本政府の韓国への強硬な態度を迫る。
- 土井たか子は衆議院外務委員会で、78年5月10日、26日、6月14日、80年2月14日、5月15日、82年4月21日、84年4月25日と、園田、大来、桜内、安部の歴代外務大臣に執拗なまで徐兄弟の問題を質問。78年5月10日には雑誌『世界』5月号の『徐兄弟・獄中からの手紙』を振りかざして救出を迫る。(P.183)
1978年(昭和53年)6月 都内で働いていた田口八重子さん拉致、神戸市内の田中実さん拉致
1978年(昭和53年)7月7日 福井で地村保志さんと浜本富貴恵さん拉致
1978年(昭和53年)7月31日 新潟で蓮池薫さんと奧土祐木子さん拉致
1978年(昭和53年)8月12日 鹿児島で市川修一さんと増元るみ子さん拉致
1978年(昭和53年)8月12日 佐渡島で曽我ひとみさん、ミヨシさん拉致
1978年(昭和53年)8月15日 富山でアベック拉致未遂
1979年(昭和54年)10月 〔韓国〕朴正煕大統領暗殺事件
1980年(昭和55年)1月7日 〔産経新聞〕「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」の記事で拉致事件をスクープ(阿部雅美記者)
- 初めて「外国情報機関の関与」を指摘。しかし、「20年前 13歳少女拉致」 北朝鮮亡命工作員証言》の記事が産経新聞一面に掲載されたのは、それから17年後の97年2月3日。
1980年(昭和55年)3月 国会で公明党議員がアベック失踪を質問…警察庁は関連性否定1980年(昭和55年) 〔岩波書店〕『世界』4月号 …朝日宮田記者による徐兄弟の母のインタビュー記事を掲載。
1980年(昭和55年)5月11日 徐兄弟救出の運動の一環として開かれたパネルディスカッション …和田春樹らとともにパネラーとして前田康博毎日新聞記者参加。(P.206)
「地上の楽園」の嘘
1980年(昭和55年)5月18日~27日 〔韓国〕光州事件 …5月17日の全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕を契機に、民主化を求めて光州市を中心として起きた民衆の蜂起。多数の死傷者を出した。
- 総連は南に送り込んでいた学生スパイを通じて事前に動きを察知しており、予め日本の左翼系映画人をソウルに派遣しており、事件後、日本で講演をし、南のネガティブキャンペーンに利用した。(『わが朝鮮総連の罪と罰』P.171~)
1980年(昭和55年)5月 欧州に留学中の石岡亨さん、松本薫さん拉致1980年(昭和55年)6月17日 原敕晁(はらただあき)さん拉致事件(辛光洙事件) …宮崎市の海岸に誘い出され、北朝鮮の工作員辛光洙らに拉致されたとされる。/北朝鮮の発表では1986年に病死とされている。
- 辛光洙容疑者: 1985年にソウル特別市内で韓国当局に逮捕→死刑判決→無期懲役に減刑→1989年7月 日本の議員により釈放嘆願→1999年12月31日、金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放、北朝鮮に送還。
1981年(昭和56年)2月25日 〔韓国〕全斗煥 大統領に就任
1981年(昭和56年) 〔社会党〕「在日韓国人政治犯を支援する国会議員懇談会」発足 …会長稲葉誠一、副会長野坂浩賢)名簿には土井たか子、山花貞夫等の名も。
1982年(昭和57年) 〔北朝鮮〕帰国事業で63年に北朝鮮に帰国した朴安復(ぱく・あんぼく)氏消息不明に …帰国、平壌中央放送局でアナウンサー局長を務めていた。→「人間狩り(マグジャビ)→妹の春仙さんに総連から「85年8月21日にスパイ容疑で銃殺された」との知らせ→『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!』(1994/06)→93年7月2日 『徐君兄弟を守る学友の会』から北を批判するのをやめるよう電話 『救う会』による帰国者救済の妨害(P.108)
1983年(昭和58年)7月 欧州に留学中の有本恵子さん拉致
1983年(昭和58年)10月9日 〔韓国・北朝鮮〕ラングーン爆弾事件 …全斗煥大統領暗殺未遂
1984年(昭和59年)2月 『凍土の共和国』(亜紀書房)出版 …元朝鮮総連幹部が明らかにした北朝鮮の真の姿→産経や読売は帰還事業の協力を辞めるが、朝日新聞は最後まで協力を続ける。
社会党と北朝鮮との密接な関係
1984年(昭和59年)12月20日 社会党中央執行委員会では韓国政府を承認する決定
- それに先立つ14日に外交委員会と朝鮮問題対策特別委員会との合同会議。ここで、北一辺倒の姿勢から韓国との交流へ議論するも、山花貞夫氏(当時外交委員会事務局長)は「日米韓の軍事的結びつきの強化になるような交流には反対と発言している。(韓国は全斗煥大統領時代)
1985年(昭和60年)2月 〔韓国〕辛光洙工作員をを逮捕…原さん拉致が明らかに
1985年(昭和60年)5月23日 社会党・田辺誠が7名の代表団と共に北朝鮮を訪問 …金日成との会談。
- 2月の韓国大統領選挙について話題にし、金日成は韓国の「自主化」が大事と述べている。(月刊社会党に報告記事) 自主化とはアメリカと手を切ることを意味する。
1986年(昭和61年)9月15日 〔北朝鮮・総連〕金正日から「マルスム」(お言葉=指示) …「総連が組織として自立するように」指示
- これにより総連の企業活動が活発になる。(『わが朝鮮総連の罪と罰』P.184~)→パチンコ、焼肉屋、「地上げ屋」
1987年(昭和62年)1月 寺越さんの叔父から家族へ手紙が届く …「北朝鮮で暮らしている」
1987年(昭和62年)7月 〔社会党〕田辺誠を団長とする「日朝友好親善の船」 …約300人の訪朝団で、毎年組織している(P.197)
1987年(昭和62年)9月24~28日 〔社会党〕土井たか子、北朝鮮を訪問 …金日成と会談。
- この少し前に週刊文春で8月24日・31日号の2週に渡って土井たか子とパチンコ業界・総連との癒着に関する記事が掲載される。
1987年(昭和62年)11月 竹下登第74代内閣総理大臣就任 (~1989年6月3日に内閣総辞職)
1987年(昭和62年)11月29日 〔韓国・北朝鮮〕大韓航空機爆破事件 …大韓航空の旅客機が、偽造パスポートを使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件。
- 犯人の一人「蜂谷真由美」こと金賢姫(キム・ヒョンヒ)は後(89年1月15日)に日本から拉致された「李 恩恵(リ・ウネ)」(田口八重子さんと見られる)に日本語を習ったと告白。原敕晁さんと結婚したといわれている。
- 女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された 容疑を否認し続けた。北は「南朝鮮政府の自作自演」と主張したが、それに同調したのは社会党で、機関誌『社会新報』でも大々的に宣伝。土井たか子も「この事件は北にはメリットがない」と主張(P.188)
- 著者によると、日本共産党から見放された総連が社会党に必死にしがみついているのが朝鮮総連の資料に現れているという(P.187)
- 『韓国からの通信』がこの事件に触れ、「密室で仕組まれた発表をどうして信じられよう」、「(この事件は)韓日米が協力したようにも見える」と陰謀論を唱えている。
1988年(昭和63年)3月 『韓国からの通信』 突然終了
- 『韓国からの通信』は韓国国内でもメディアに注目されており、著者だけでなく、韓国でもK・T生探しが行われていた。韓国の新聞『中央日報』の東京特派員・崔喆周(ちぇ・ちょるじゅ)記者が調査を始め、実際に安江社長にインタビューを行い、韓国の雑誌『月刊中央』に崔氏が書いた記事によるとKCIAも調査に乗り出していた。
1988年(昭和63年)2月 弟、俊植の釈放を訴える嘆願書 (P.70)
1988年(昭和63年) 俊植の釈放
「梶山答弁」…初めて政府が北朝鮮の拉致関与に言及、しかし、メディアは黙殺
1988年(昭和63年)年3月26日 梶山答弁 …(梶山静六国家公安委員長)昭和53年以来の一連の行方不明事犯を「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と、政府が初めて北朝鮮の名前を出す。(答弁を引き出したのは共産党橋本敦参議院議員)
- 橋下議員の秘書、兵本達吉は1月15日の金賢姫の会見で「『李恩恵』という日本から拉致された日本人女性から(日本人化)教育を受けた」という一言から拉致事件に興味を持ち、アベック連続蒸発事件を知り、新潟、福井、鹿児島へ出向いて調査。その後、共産党は北朝鮮との関係を突然修復、兵本氏は党を除名されながらも、拉致被害者支援の活動を続ける。
- 朝日放送プロデューサーの石高健次が韓国情報機関から「13歳の少女拉致」の情報を入手。96年に雑誌「現代コリア」に情報を掲載した。それが兵本さんに伝わって具体的に消息になり、97年の産経記事「20年前、13歳少女拉致」(阿部雅美記者)に繋がる。
1988年(昭和63年)7月 〔韓国〕7・7宣言 …盧泰愚大統領が北朝鮮と融和を図る
1988年(昭和63年)9月 石岡亨さんから実家に手紙 …「松本さん、有本さんと平壌にいる」
1988年(昭和63年)9月 〔韓国〕ソウル五輪開幕 …北朝鮮は不参加
1989年(平成元年)7月 韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を嘆願するという趣旨の要望書が、当時の日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出される。当時の日本国内での政治犯釈放要求運動の対象はもっぱら、「学園浸透スパイ団事件の首謀者」とされた徐勝・徐俊植兄弟の救援であったが、この中に辛光洙(シンガンス)も含まれていた。
- 金正日が北朝鮮による日本人拉致実行を認めた2002年9月以降、同年10月19日に当時官房副長官であった安倍晋三が土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と評するなど、署名した国会議員は保守政治家や日本共産党から激しく批判された。
1989年(平成元年)7月23日 第15回参院選 …社会党は大躍進し、「おたかさん(土井たか子)ブーム」と呼ばれる。
徐勝特赦
1990年(平成2年)2月28日 徐勝特赦 …(P.66)同年5月17日に日本帰国 8月27日に渡米(P.224)。その間、歓迎集会が東京(7月1日)、京都〔7月8日〕に開かれる。ネルソンマンデラと会見するなどして韓国政府批判を続ける。
==== 「学園浸透スパイ事件」はここまで ====
1990年代の日本の政界
1990年(平成2年)9月 〔自民党・社会党〕金丸・田辺訪朝団
- 89年の3月30日の衆議院予算委員会で村山富市議員が総理大臣・竹下登に質疑し、日本政府として初めて「自覚と反省」をこめた北朝鮮への戦後責任を認める答弁を引き出す。これが金丸訪朝の引き金になったと言う。(自社の完全なデキレース) 当日、田辺ら社会党議員団が北朝鮮を訪問し報告。三党共同宣言(自・社・さきがけ)
1991年(平成3年)1月 日朝国交正常化交渉開始
1991年(平成3年)4月 毎日新聞取材団が金日成主席と会談…拉致問題には触れず
1991年(平成3年)5月 警察当局が「李恩恵」を田口八重子さんと断定
1992年(平成4年)3月 朝日新聞取材団が金日成主席と会談…「李恩恵」問題を巡って
1992年(平成4年)11月 日朝国交正常化交渉中断…拉致問題には触れず
1993年(平成5年)2月 〔社会党〕山花貞夫委員長、韓国訪問の意向を示す …朝鮮問題対策特別委員会→社会党日朝委員会に改称。
1993年(平成5年)4月21日 〔北朝鮮・総連〕日朝委員会初会合 …総連からの参加者。金日成が示した「金民族の団結の10大原則」を配布。
1993年(平成5年)4月 〔社会党・北朝鮮・韓国〕「アジアの平和と女性の役割」が主催するシンポジウム …社会党と【慰安婦問題】 →
- 土井たか子を始めとする社会党の女性議員の呼びかけで開かれたもので、“従軍慰安婦”の補償が主な議題。
- 北朝鮮から最高人民会議(国会に相当)副議長らが訪日した。5月には討論会参加者の土井たか子社会党元委員長らが金正日氏に「感謝の書簡」を送付。【慰安婦問題】を利用した世界的な反日活動に日本政界が支援。
- 韓国からも出席者が参加。→このシンポジウムは南(韓国)の切り崩しに社会党が加担したものと見ることができる。
1993年(平成5年)5月 〔北朝鮮〕準中距離弾道ミサイル「ノドン」を日本海に発射
1993年(平成5年)11月7日 帰国者遺族証言集会 …「人間狩り」(マグジャビ)の犠牲となった在日同胞の集会。
1993年(平成5年)8月9日 細川内閣発足 …(~1994年4月28日)山花貞夫を始め社会党幹部入閣、土井たか子元委員長は衆議院議長に就任。
- 1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた自由民主党は初めて下野。 非自民・非共産8党派の連立政権であるこの内閣の発足により、社会党は与党第1党ではあったが、1990年のおたかさん(土井たか子)ブームも去り、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。
1993年(平成5年)9月 〔社会党〕山花貞夫委員長訪韓
1994年(平成6年) 〔社会党〕村山富市委員長(93年9月就任)、羽田連立与党から離脱
1994年(平成6年)5月~ 〔朝日〕朝鮮学校の生徒へのいじめに関するキャンペーン開始
1994年(平成6年)6月30日 村山政権(自社さ政権)発足 …(~1995年8月8日) 自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定
1994年(平成6年)7月8日 〔北朝鮮〕金日成死去
1994年(平成6年)8月21日 日本教員主体思想研究会 第18回全国集会(新潟) …主体思想を理想としている団体。スローガンは日朝友好連帯運動の前進を目指して。(P.198)
1995年(平成7年)3月 連立3与党訪朝団 …渡辺美智雄団長→6月、北朝鮮に米支援開始
横田めぐみさん拉致報道
1997年(平成9年)2月3日 〔産経新聞〕横田めぐみさん拉致を実名で報道 …国会でも取り上げられる。
1997年(平成9年)2月7日 西村真悟衆議院議員の質問主意書に対し政府が「6件9名」」の拉致被害者を認める答弁書
1997年(平成9年)3月 「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)発足
1997年(平成9年)5月 警察庁がめぐみさんを含む7件10人を拉致認定する国会答弁
1997年(平成9年)11月 与党代表団(森喜朗団長)が訪朝/北朝鮮が「行方不明者」として拉致問題調査の意向を表明
1998年(平成10年)2月 〔韓国〕金大中大統領が就任 →北朝鮮に対し「太陽政策」
1998年(平成10年)4月 有識者による「救う会」発足
1998年(平成10年)6月 〔北朝鮮〕北朝鮮赤十字が拉致疑惑を全面否定
1998年(平成10年)8月 日本共産党が兵本達吉を除名
1998年(平成10年)8月 〔北朝鮮〕中距離弾道ミサイル・テポドン発射 日本列島を越える
1999年(平成11年)12月 北朝鮮が再び行方不明者の調査を表明
2001年(平成13年)5月1日 金正日の長男・金正男が成田で拘束 →3日報道、4日に強制送還
2001年(平成13年)12月 北朝鮮側が調査の中止を表明
2002年(平成14年)3月 「よど号グループ」元妻が有本さん拉致を証言
相次ぐ朝銀破綻と公的資金投入(1990年代末~)
この項仕掛かり
2001年(平成13年)11月22日 『朝銀信用組合の破綻に対する公的資金投入に関する質問主意書』(提出者:西村眞悟) →12月14日答弁書(内閣総理大臣 小泉純一郎)⇒最終的に合計1兆3600億円もの公的資金投入
日朝首脳会談
2002年(平成14年)9月17日 日朝首脳会談 …金正日総書記が拉致を認める。5人生存、8人死亡と説明。
2002年(平成14年)9月25日 有本さん拉致事件で、よど号の安部(現姓・魚本)公博容疑者に逮捕状
2002年(平成14年)9月~10月 政府が北朝鮮に調査団派遣 …松木さんの「遺骨」を持ち帰る。→11月 松木さんとされた遺骨は別人と判明2002年(平成14年)10月15日 蓮池、地村両夫妻、曽我ひとみさんの5人帰国 …この時の申し合わせは「一時帰国」。政府は返さなかったが、一部マスコミは北朝鮮に返すべきと批判
2002年(平成14年)11月 松木さんとされた遺骨は別人と判明
“一時帰国”のはずであった帰国者を北に帰すべきと主張した一部マスコミ
2003年(平成15年)1月1日 朝日新聞社説「『千と千尋』の精神で 年の初めに考える」
“拉致の被害者たちに寄せる同情や北朝鮮への怒りがあふれたのは自然として、そうした感情をあおるばかりの報道が毎日繰り返される”
“(拉致問題という)同胞の悲劇に対してこれほど豊かに同情を寄せることができるのに、虐げられる北朝鮮民衆への思いは乏しい”
“厳しい国際環境はしっかりと見据える。同時に、複眼的な冷静さと柔軟さを忘れない。危機の年にあたり、私たちが心すべきことはそれである。”
(月間HANADAセレクション『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報・虚報全史』P.25の引用文)
2003年(平成15年)1月8日 久米裕さん拉致事件で金世鎬(キム・セホ)容疑者に逮捕状
2003年(平成15年)1月 拉致被害者支援法に基づき、政府が15人を被害者と認定
2回目の日朝首脳会談-北に残っていた一部家族の帰国
2004年(平成16年)5月22日 2回目の日朝首脳会談 …蓮池、地村両夫妻の子供計5人が帰国
2004年(平成16年)7月 曽我ひとみさんの夫・ジェンキンスさんと娘2人が帰国
2004年(平成16年)11月9~14日 日朝実務協議
- 北朝鮮側がめぐさんの「遺骨」などを提出→12月8日、DNA鑑定で「遺骨」は別人と判明。
2005年(平成17年)4月 田中実さんを拉致被害者と追加認定
2006年(平成18年)2月23日 蓮池、地村夫妻拉致事件で、チェ・スンチョル容疑者等に逮捕状
2006年(平成18年)11月2日 曽我さん母娘拉致事件でキム・ミョンスク容疑者に逮捕状
2006年(平成18年)11月 松本京子さんを拉致被害者と追加認定
2007年(平成19年)3月 ベトナム・ハノイで日朝国交正常化作業部会 …北朝鮮「拉致問題は解決済み」
2007年(平成19年)6月13日 石岡、松木さん拉致事件で、よど号メンバー妻の森順子、若林(旧姓・黒田)佐喜子両容疑者に逮捕状
2008年(平成20年)6月11~12日 日朝実務協議 …北朝鮮が拉致問題の再調査を表明→9月4日 再調査の先送りを日本側に通告
2011年(平成23年)12月 〔北朝鮮〕金正日死去 →金正恩が権力継承(12年4月11日 朝鮮労働党第1書記に就任)
2014年3月10~14日 横田さん夫妻がめぐみさんの娘・キム・ウンギョンさんとモンゴルで初面会
2014年(平成26年)5月26~28日 〔日本・北朝鮮〕ストックホルム合意 …全ての拉致被害者の調査を盛り込んだ合意。北朝鮮は特別調査委員会を設置。
(2016年1月2日 米大学生・オットー・ワームビアさん、平壌空港で北朝鮮当局に拘束)
2016年(平成28年)2月12日 〔北朝鮮〕特別調査委員会解体 …北朝鮮の相次ぐ核実験や弾道ミサイル発射などを受け、日本が独自制裁を強化したことに対する対抗措置として。
(2017年(平成29年)2月13日 金正恩総書記の異母兄・金正男氏殺害事件)
2017年(平成29年)5月12日 「特定失踪者」の家族が「有志の会」結成
(2017年6月 米大学生・オットー・ワームビアさん、アメリカ帰国。19日に死亡)
2017年(平成29年)9月19日 トランプ米大統領が国連総会の演説で拉致問題に言及
2018年(平成30年)4月17~18日 日米首脳会談 …トランプ大統領が米朝首脳会談での拉致問題提起を明言
2018年(平成30年)4月27日 〔北朝鮮・韓国〕板門店で南北首脳会談
2018年(平成30年)5月9日 〔北朝鮮〕米国人3人を釈放
その他出典/関連サイト
【その他の出典】
- 『わが朝鮮総連の罪と罰』 韓光煕著(2002/4)
- 『日本社会党興亡史』 上住 充弘著(1992/9/27)
- Wikipedia『韓国の歴史年表』
- 警察白書 「警備警察50年」
- iRONNA 「報道しない自由」が北朝鮮をつけ上がらせた→
- 「メディアは死んでいた」(阿部雅美著/産経新聞出版)→
- 更にや百科事典などから当時の時代背景が分かるような客観的事実や事件、用語の解説などをメモしておいたものを記す。
- 読売新聞2018/5/31付『基礎からわかる拉致問題』
【関連サイト】;
- 外務省: 北朝鮮による日本人拉致問題 (パンフレット〔PDF〕等の掲示、警察庁(リンク切れ)や法務省などの関連サイトへのリンクあり)
- 警察庁>警備局: 北朝鮮による拉致容疑事案について (サイト内の検索窓で「拉致」で検索すると様々な情報あり)
- 救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)HP
- 特定失踪者問題調査会
- 郵便振替口座 00160-9-583587 特定失踪者問題調査会
銀行振込 みずほ銀行 飯田橋支店 普通預金 2520933
名義 特定失踪者問題調査会
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