沖縄のメディア(沖縄タイムス、琉球新報)や左派は基本的に「反自民」・「反中央」です。
自民党内左派である石破首相が誕生したにもかかわらず、早速、沖縄タイムスの阿部岳記者が以下のようなツイートをしていました。
「平成の琉球処分」?
これについて『チャンネル桜・沖縄の声』で惠隆之介(めぐみ りゅうのすけ)氏が解説されていたので、覚え書きとして記録しておきます。
『琉球処分』という言葉の説明は後回しにして、沖縄メディアや沖縄左派(琉球独立派)は何をもって石破氏を批判しているのか?という事を先に説明しておきます。
当時、沖縄から選出された5名の自民党議員は選挙用に「普天間基地の県外移設」を公約にしていました。これは元々2009年8月の衆院選の前に、民主党の鳩山由紀夫代表が普天間飛行場の移設先について安易に「最低でも県外」と発言した事が始まりです。
後にこれは自身で否定するのですが、沖縄県の世論はこれに乗せられてしまっており、沖縄選出の国会議員はこれを公約にしていました。基地への理解が深まった今でも ”基地は必要” とは言えず、”基地容認” としか言えないのですから、当時の候補者はこんなものでしょう。
しかし、2013年、当時の石破茂幹事長がこの5議員を説得します。〔記事後述〕
これで公約を翻した議員と石破茂氏を批判する言葉が『平成の琉球処分』です。
◆琉球処分とは
ここからは動画での惠隆之介氏の説明を引用します。
琉球処分の対象は琉球王族と中国帰化人だった。明治政府の近代民主化にことごとく反発して、日清戦争でも清国の勝利を祈っていたような連中。琉球処分というのはこういう勢力を駆逐する事が目的だった。
実際、伊波普猷(いはふゆう/沖縄学の父と呼ばれる民俗学者)は、昭和17年(1942年)の著書『古琉球』〔と動画では言っているが、1911年の誤り?あるいは『沖縄考』?〕で、「廃藩置県とは庶民にとっては奴隷制からの解放」と言っているし、明治33年(1900年)〔1901年の誤り?〕、最後の琉球王、尚泰(しょうたい)が死去した時に当時の県知事奈良原繁が県民に喪に服するように言ったが、喪に服したのは首里の一部だけ、郡部や離島では祝いの祭りを開いた。
1902年に過酷な人頭税の廃止、1904年には土地私有制の開始。それまでは土地は全て王家のものであった。
※ブログ主が明治以前の琉球が李氏朝鮮と似ていると思うのはこの辺り。琉球士族とは既得権益層の両班みたいなもの。
そして、明治12年(1879年)、ようやく沖縄の廃藩置県が実現する。
※琉球は「琉球処分」で一旦「琉球藩」の設置→廃藩置県と2段階の廃藩置県が行われた。琉球処分に際しては、シナからの帰化人が琉球から清に脱出(=脱清人)して助けを求めるが、無視される。
そもそも琉球は幕藩体制に組み込まれており、江戸幕府の命令に従っても、シナの法律に統制された事はない。シナとは交易の為に独立国家のふりをして冊封関係(属国)をとっていただけであり、実際は島津の支配下にあった。
* * * *
要するに、琉球処分で ”琉球を無理矢理併合” して以来、2度目の ”中央が無理矢理命令に従わせた暴挙” だと言いたいのでしょう。
これは「琉球独立派」あるいは「シナの一部になりたい」人たちの発想なのです。
以下、関連記事を2つご紹介します。
一つは『赤旗』の2013年の記事、もう一つは『Vew Point』の2015年の玉城有一朗博士へのインタビュー記事で、この方は確か、”琉球国は琉球王朝なんて大層なものではなかった” と、琉球独立派と相容れない見解の持ち主の為、不遇な立場に追いやられた教授です。「平成の琉球処分」にも触れています。こういう言説を唱えると沖縄の学会では ”干される” のです。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-26/2013112601_03_1.html
沖縄選出の5自民議員
辺野古容認へ転換
自民党の沖縄県選出の衆参国会議員5人は25日、同党本部で石破茂幹事長と会談し、米軍普天間基地(同県宜野湾市)を同県名護市辺野古への移設を認める考えに転じることを伝えました。重大な公約違反であり、名護市辺野古への新基地建設に反対する圧倒的多数の世論への背信行為です。
同党沖縄県連は、昨年12月の衆院選と今年7月の参院選で、同基地の「県外移設」を打ち出していました。
国場幸之助、宮崎政久、比嘉奈津美、西銘恒三郎の各衆院議員はそれぞれ、昨年12月に「県外移設」を公約に掲げ、島尻安伊子参院議員も2010年の参院選で「県外移設」を掲げていました。
石破氏は会談後、5氏とともに記者会見し、「辺野古を含むあらゆる可能性を排除しないということで一致した」と説明。記者から「5人が辺野古移設を容認したということか」と問われ、「そのような理解で結構だ」と明言しました。
加藤勝信官房副長官は記者会見で、「(辺野古移設に向け)一歩前進だ」との認識を示しました。
沖縄県連の翁長政俊会長は那覇市内で記者団に、「大変重い決断だ。県連で行われる(普天間移設の)再協議に大きな影響を与える」と表明。仲井真弘多知事は同市内で記者団に、埋立申請に対する判断に影響するかどうかについて「よく分からない」と語るにとどまりました。
公約を撤回した島尻安伊子、西銘恒三郎両氏にただしてきましたが、回答さえしませんでした。選挙公約を投げ捨てるなど、議会制民主主義そのものを成り立たなくする行為です。有権者への約束をたがえることになれば即刻、議員辞職し、次の選挙で信を問い直すのが筋のはずです。県民の願いを切り捨てる自民党に改めて追及の輪を広げ、包囲していかなければなりません。
***
https://vpoint.jp/opnion/interview/36579.html
一般財団法人・沖縄公共政策研究所主任研究員、学術博士 玉城有一朗氏に聞く(上)
2015/2/02(月)
昨年の沖縄県知事選と衆院選では、基地問題が争点になり、「オール沖縄」と称して基地建設に反対する候補者が当選した。「オール沖縄」はもともと、米軍新型輸送機オスプレイ配備反対に使用されたものだが、いつの間にか、「日本人は沖縄人を差別している」といった「構造的差別」論に転嫁され、言葉が独り歩きしている。最近、「構造的差別」論の根拠となっている1879年の明治政府による沖縄の廃藩置県「琉球処分」の学問的再考が注目されている。歴史学者で政治学者の玉城有一朗氏に聞いた。(那覇支局=竹林春夫)
イデオロギーからの解放を 歴史家に問われる課題
――沖縄では日本本土との関係を見るとき、1609年の薩摩侵攻とともに、1879年に沖縄で行われた廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が引き合いに出される。「琉球処分」の定義は何か。
琉球処分とは琉球国琉球藩に対する廃藩置県であり、明治維新改革の一環。この場合、「処分」とは「国の法律に則(のっと)って措置する」という意味の法律用語で、史料のなかには「御所分」と記した例もある。現代日本語で使われているような感情的な意味やイメージだと考えるのは、早計な解釈だ。
琉球士族の身分特権、清朝中国への朝貢・進貢(貿易)に代表される「旧慣」を改革し、琉球国にも「本土並みに」明治維新を行おうとする太政官(維新政府)の意志表示だと読む方が適切だ。
版籍奉還(明治2年)にあたり、徳川将軍が薩摩島津氏の附庸国とした琉球国を如何に扱うかにつき、維新政府内部で、議論が起こった。琉球国は鹿児島藩の管轄として日本国の領土に入り、明治5年に「琉球国琉球藩」となった。
明治天皇は琉球国中山王尚泰を冊封(さくほう)した。これは、琉球国が日本の国体(律令国家)に組み込まれ、国制上、日本国民になったということだ。
同年11月、年貢を運輸していた宮古・八重山の漁民が台湾に漂着、台湾の少数民族に殺害された。台湾は「化外(けがい)の地」だとして、清朝中国は本事件に関与せず、「漂着遭難した琉球漁民は日本国民だ」とする大久保利通の主張に何らの反論もせず、黙認した。大久保は万国公法(近代国際法)を意識していた。外交交渉で琉球国は日本国だと確認した事例だ。
その翌年、維新政府は琉球国に進貢使廃止を通達したが、これに反対した士族が中国に密航(脱清人)。清朝の軍隊を借りて明治政府の官憲を追い払おうとした。琉球藩は廃藩置県に抵抗した唯一の藩となったため、沖縄県の設置に際し、九州から警察、軍隊が来た。
――琉球処分に対する沖縄県民の評価はどうか。
沖縄県内の新聞論壇を見るかぎり、「琉球処分」という言葉が独り歩きしている。史実に対する評価や認識のレベルを超えた使われ方をしているようだ。今では「琉球処分」とは「歴史家の定義を超えて、沖縄の人に対する抑圧への象徴的な言葉」であると、学問の言葉ではなく、政治の言葉に読み替えようとする、沖縄思想史の研究者もいるほどだ。
いま、イデオロギーの渦から「琉球処分」の史実を救い出す責任が、歴史家に問われている。
親日士族であった言論人・太田朝敷(ちょうふ)は「沖縄の廃藩置県は本土より8~9年遅れた。政府と士族の交渉に3~4年も費やしたため、とうとう政府は武力で沖縄県設置を断行されることになった」と、暗に脱清人をはじめとする士族の抵抗を批判する評価を行った。
一方、「沖縄人は北海道のアイヌと同様、他の地方人と種族が違う、即ち大和民族とは全く別種の民族であるという観念」を持つ「他府県の諸君」に対し、「低劣の頭の持ち主は今なお差別観念を脱し切れていない」と鋭く提起した(『通俗政談』1913年)。その翌年、「沖縄学の父」と言われる伊波普猷(ふゆう)は「琉球処分は一種の奴隷解放なり」と題する論文を公表し、琉球処分によって、有史以来はじめて、沖縄県民に自由がもたらされたと肯定的な評価を与えている。
戦後の議論は、いずれも琉球国は日本国とは別の「国家」であるという、現代世界を意識した前提のもとで進められてきた。このように最近の琉球処分論は、理論枠組みをめぐる論争に終始しており、一般の日本国民には「琉球処分」とは何かが伝わっていない。
――沖縄では廃藩置県後もサムレーと呼ばれる士族の経済的特権が温存され、士族が農民を支配する制度が続いた。当時の政治、社会的状況はどうだったか。
琉球処分ののち、明治36年まで、琉球王府の土地・租税・行政制度が継続された(旧慣存続)。日露戦争後の全国的な地方自治制度の整備と並行して、沖縄県の「旧慣」改革と産業基盤の形成を図る「沖縄振興計画」が策定・施行されるが、第1次世界大戦、昭和恐慌、大東亜戦争と続く激動や戦時統制経済の編成が現実味を帯びるに従い、沖縄県に対する救済措置が減額、あるいは事実上履行不能な状態に陥っていった。
日露戦争以降、近代沖縄県の「戦後経営」は国際情勢に左右され、改革と経済発展のチャンスを逸し続けたまま、沖縄戦に突入せざるを得なくなった。
――1854年に琉球が米国と結んだ琉米修好条約を根拠に、「琉球処分」は当時の慣習国際法から見れば不正と考える一部学者もいる。
結論をいうと、琉球処分は慣習国際法の適用外の事件。彼らが「国際法上、不正」という場合、琉球処分当時の明治政府、琉球王府、清朝をそれぞれ主権国家と見なし、現代国際法を杓子(しゃくし)定規に当てはめているだけだ。これは、法の不遡及(ふきゅう)に違反しており、法解釈の議論としては無効。
琉米修好条約は不平等条約だ。対等な主権国家どうしが締結した条約ではない。ペリー艦隊が武力を誇示し、琉球占領の可能性もちらつかせたため、琉球王府は「総理官」と称する架空の外交機関を作り、ここを窓口に条約締結の形式を整え、事を収めた。
その際、押印された印章は琉球国の正式な国璽ではない。総理官のために特別につくられたと思われるが、その印璽の実物は散逸しており、確認できない。
琉球王府のこうした対応は、徳川幕府の「ぶらかし(交渉引き伸ばし)」に象徴される鎖国政策の堅持に通じている。琉球国がアメリカ合衆国との対等・友好の国際関係を求めたわけではなく、アメリカ合衆国が自らに有利な利益供与を琉球国に求めた、というのが真相だ。
――昨年の衆院選では、一昨年に5人の自民党国会議員が石破茂幹事長(当時)の前で辺野古移設容認を受け入れたことについて、革新陣営が「平成の琉球処分」という表現をした。
この表現には政治的意図がにじんでいる。沖縄は明治時代から現在まで米軍基地などで言われなき差別を受け、政府から理不尽な仕打ちを受けているという印象を与えるものだ。
さらに、1972年の沖縄県の祖国復帰について、「県民の頭越しで決められ、実行に移された」という理解から「第二の琉球処分」と言われることもあるが、ここにも「沖縄の人に対する抑圧」を強調する意図が秘められている。
ところで、琉球処分を「奴隷解放」とし「同化政策」にも賛同していた伊波普猷が、第1次大戦後に沖縄の「ソテツ地獄」を境に、「沖縄だけが置き去りにされ」、「改革し、収奪する」政策だと、自身の歴史観を転換させていった。
この転換された伊波の歴史観も念頭に置きつつ、現代沖縄の社会構造を解明する枠組みの一つとして、ノルウェーの社会学者ヨハン・ガルトゥングによる「構造的暴力」の概念を県内学会に紹介したのが大田昌秀元知事だった。近年、沖縄の革新勢力が「構造的差別」という言葉を使いだしているが、彼らの発想のベースは「構造的暴力」の概念が共通している。
「平成の琉球処分」が言論界・マスコミで喧伝(けんでん)されることによって、「沖縄の人に対する抑圧」が刺激され、大衆団結の雰囲気が醸成されるなか、自民党国会議員をはじめとする沖縄保守の現状認識はもちろん「苦渋の決断」の実相を語る機会と言葉が一挙にかき消されたかのような状況に陥ったようだ。
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たまき・ゆういちろう 「沖縄の歴史を取り戻そう」――常にこう訴える玉城有一朗氏は、昭和52年沖縄県那覇市生まれの歴史学者であり政治学者。琉球大学法文学部政治学科を卒業後、同大学大学院に進み、日本政治を中心とする歴史学および国際政治学を専攻。平成22年に博士号を取得、翌年には県内地方銀行に就職した。平成25年に現在の研究所に勤務、沖縄の歴史を研究、特に「琉球処分」の政治的な解釈に疑問をもち研究に取り組む。「琉球処分の間違った解釈が今日の沖縄の人の心に引き継がれている」との見地から「琉球処分」の正しい解釈を広めようと努めている。
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