以前ご紹介した『李承晩TV』の動画内容と重複するのですが、2002年2月22日付『オーマイニュース』の『【創刊2周年発掘スクープ①】 日本軍従軍経験の遺産』〔韓国語記事〕を機械翻訳してご紹介します。
筆者(記者)の意見や論評部分はともかく、当時の軍人の証言などから ”事実” を拾うと興味深いものがあります。
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https://www.ohmynews.com/nws_web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067241
한국군도 '위안부' 운용했다
[창간 2주년 발굴특종 ①] 일본군 종군 경험의 유산
韓国軍も「慰安婦」運用した。
[創刊2周年発掘スクープ①] 日本軍従軍経験の遺産
02.02.22 15:16ㅣ更新 02.02.26 21:51
韓国戦争期間[1951~1954年]3~4個中隊規模運営...年間最低20万人規模の「慰安婦」
一般的に戦争が起こると、女性は男性に比べてもう一つ苦痛を受けることが多い。それは他でもない「性的虐待」であり、彼我兵士を問わず行われるのが普通である。このような女性の被害事例は、古今東西の戦争史のあちこちに記録されている。
一般的に「慰安婦」というと、日本統治下の旧日本軍が朝鮮(韓国)女性を強制的に連行し、中国、南洋群島などで性的な遊び相手として使ったと思われがちだが、韓国戦争当時、韓国軍も兵士の士気鼓舞のために「慰安婦」を運用したという主張が提起され、衝撃を与えている。
当時、ソウル、江陵などの軍隊では中隊単位で「慰安婦部隊」を編成、運用していたが、兵士たちは「慰安代」としてチケットや現金を使用したことが明らかになった。
<オーマイニュース>は、韓国現代史に埋もれた歴史の真実を明らかにするという次元で、専門学者の研究成果とキム・ダン編集委員の取材を基に4回程度の関連企画を掲載する予定だ。<編集部注>
▲〔画像省略〕慰安所の前に並んだ日本軍の兵士たち。 予備役将校の回顧録によると、韓国戦争当時、国軍兵士たちも24人用の野戦幕屋や分隊のテントの前でこのように並んで慰安所を利用した。
韓国戦争当時、国軍が軍慰安所を設け、慰安婦制度を運営したという主張が学界で初めて公式に提起された。6・25戦争当時、国軍が慰安所を設け、兵士たちが利用させたという主張は、これまで何人かの予備役将軍の回顧録や参戦者の証言によっても裏付けられた。
しかし、軍当局が編纂した公式記録(戦史)などを根拠に、韓国軍が慰安所を設置・運営したという主張が提起されたのは今回が初めてだ。また、これをきっかけに当時の慰安婦被害者の証言と真相究明運動が展開される場合、過去90年代に日本軍従軍慰安婦問題が初めて提起された時と同様の波紋も予想される。
金貴玉(キム・ギュオク)博士(慶南大学北朝鮮専門大学院客員教授・社会学)は2月23日、京都立命館大学で開かれる第5回「東アジア平和と人権国際シンポジウム」で、このような内容を盛り込んだ「韓国戦争と女性ː軍慰安婦と軍慰安所を中心に」というタイトルの論文を発表する(関連インタビュー記事掲載予定)。
キム博士の論文は、韓国軍(朝鮮戦争)慰安婦問題という事案の特性上、日本メディアと在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)系メディアの大きな関心を集めるとみられ、今後の動向が注目される。
"士気高揚と戦闘力喪失防止のための必要悪"
現在まで発掘された韓国戦争当時の軍慰安婦制度の実体を示す唯一の公式資料は陸軍本部が1956年に編纂した『後方戦史(人事編)』に載せられた軍慰安隊関連記録だ。
金博士は、「後方戦史」の記録と予備役将軍たちの回顧録、そして関係者の証言などをもとに、当時の国軍は直接設置した固定式慰安所と移動式慰安所、そして私娼の職業女性たちを利用する3つの方式で、慰安婦制度を運営したと主張する。 まず、『後方戦史(人事編)』の「第3章 1節 3項 特殊慰安活動事項」の記録を見ると、軍慰安隊設置の目的は次の通りである。
表面化した事理のみをもって簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動だと単眼すれば別問題ではあるが、実質的に士気高揚はもちろん、戦争事実に伴う避けられない弊害を未然に防止できるだけでなく、長期間交代のない戦闘によって後方来往がないため、理性への憧れから生じる生理作用による性格の変化などによりうつ病その他の支障をきたすことを予防するために本特殊慰安台を設置することとなった
当時、軍は慰安婦を「特殊慰安婦」という部隊形式で編制して運営していたことが分かる。 『後方戦史』第3章の「特殊慰安活動事項」には、よく「タンタラ」と呼ばれる軍芸隊の活動も含まれる。
したがって「特殊慰安婦」は軍芸隊を指すのではないかという理論もありうる。 しかし『後方戦史』は軍芸隊の活動を「慰問公演(慰問 公演)」と表現する反面、特殊慰安隊の活動は「慰安」と用語を区分して使用している。 結局、ここで「特殊慰安」は女性の性的サービスを意味することが容易に分かる。
興味深い事実は戦史で慰安隊運営が「国家施策に逆行する矛盾した活動」であることを認めた部分だ。 これは日帝時代に設置された公娼が1948年2月、米軍政庁の公娼廃止令発効で閉鎖されたにもかかわらず、国家を守護する軍が自主的に事実上の公娼(軍慰安隊)を運営する矛盾した活動、すなわち犯法行為を行ったことを意味する。
したがって『後方戦史』は軍が韓国戦争当時、慰安婦制度を戦争の長期化にともなう戦闘力損失防止と士気高揚のために避けられない一種の「必要悪」と見なしたことを示している。
結局、韓国軍慰安婦隊はその動員方式や運営期間および規模の面で日本軍従軍慰安婦制度と根本的な違いがあるにもかかわらず、その設置目的や運営方式の面では似ていることを示している。 これはまた、当時の韓国軍首脳部の相当数が日本軍出身だったことを考慮すると、示唆するところが大きい。 日本軍で「慰安婦」制度を経験した軍首脳部が、韓国戦争期間中に「慰安婦」制度を主導的に導入したのは、自然な経験の産物であるからだ。
ところが、『後方戦史』によると、慰安隊を設置した時期は不明である。 ただし、「動乱中の(慰安婦)活動状況を年度別に見ると、大きな差はなく、戦争行為とともに不可分の関係を持ったものと言わざるを得ない」とされており、戦争後に設置されたものであることを推察させる。
金貴玉博士は、関連資料と関係者の証言をもとに、設置時期を1951年と推定する。 反面、『後方戦史』は「休戦によりこのような施設の設置目的が解消されるに至り、公娼廃止の潮流〔※〕に順命し、檀紀4287(西暦1954)年3月にこれを一斉に閉鎖した」とその閉鎖時期を明確にしている。
※米軍の命令により、1947年11月14日 公娼制度廃止
ソウル、江陵、春川、原州、束草など7ヶ所設置運営
一方、『後方戦史』の記録によると、慰安台が設置された場所は△ソウル地区の3小隊△江陵地区の1小隊△その他春川、原州、束草などで計7ヶ所に達する。 しかし、慰安台規模については「後方戦史」内でも前後の記録が異なり、正確なその規模を算定することは難しい。
例えば、『後方戦史』の一部記録(148ページ)には、慰安隊の規模が△ソウル地区第1小隊19人△江陵第2小隊31人△第8小隊8人△江陵第1小隊21人の計79人となっている。
しかし、同書の「特殊慰安婦隊実績統計表」(150ページ)には、慰安婦、報酬△ソウル第1小隊19人△ソウル第2小隊27人△ソウル第3小隊13人△江陵第1小隊30人の計89人となっている。
したがって、前後の脈絡から見ると、前者の記録は誤記であり、後者の「実績統計表」が正確なものと推定される。 むろん、この統計も、その他(春川、原州、束草など)地域の慰安婦は含まれていない。 とにかく記録を基に当時の慰安所の所在地と規模を<表>にまとめると次のようになる。
〔画像省略〕<表1>韓国軍慰安台の設置場所と規模
軍に慰安隊を設置した主体が誰なのかは『後方戦史』では見られない。 しかし、軍が慰安隊設置および運営を主導した事実は『後方戦史』の次のような部分や予備役将軍の回顧録から推察することができる。
「最前線部隊の要請により出動慰安を行い、所在地でも出入りする将兵に対して慰安行為を行った。(……) 一方、慰安婦は週に2回軍務官の協力により軍医官の厳しい検診を受け、性病に対しては徹底した対策を講じた」(『後方戦史』)。
これは当時、軍が軍人が慰安所を訪れて利用する固定式慰安所だけでなく、慰安隊が慰安のために部隊を訪れる移動式慰安所も運営していたことを立証する部分だ。 また、軍医が直接、慰安婦を相手に週1回性病検診を実施した点や、将校を相手にする女性と兵士を相手にする女性が別にいた点などは、韓国軍の慰安婦制度が過去の日本軍従軍慰安婦の運営方式をそのまま踏襲したことを意味する。
駐越韓国軍司令官を務めた蔡命新(채명신/チェ・ミョンシン)将軍(予備役陸軍中将)は、自身の回顧録『死線を越えて〔사선을 넘고넘어〕』(1994年)で『後方戦史』の記録とは異なり、小隊規模ではなく中隊規模で慰安隊を運用したと書いている。 これは、蔡命新将軍がソウル地区の3小隊「慰安婦」の人員を1中隊規模で計算した結果である可能性がある。 とにかく蔡将軍によると、当時の慰安婦規模は180~240人と推定される。
「当時、韓国陸軍は士気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安部隊を3、4個運用していた。 そのため、予備部隊に入るだけで、師団の要請によってすべての部隊は慰安部隊を利用することができた。 だから第5連隊も例外ではなく、予備隊に入る前から将兵たちの話題はすべて慰安部隊の件だった」(以下、下線は筆者が強調)
▲ 〔画像省略〕『後方戦史』に掲載されている檀紀4285年(西暦1952年)の「特殊慰安婦実績統計表」。 89人の慰安婦が年間約20万人の軍人を「慰安」したことを示している。
では、韓国戦争期間に軍が設置したこの「特殊慰安婦」の「慰安婦」活動実績はどれくらいだろうか。 それを推し量ることができる唯一の根拠資料は、『後方戦史』(150ページ)に掲載された「特殊慰安婦実績統計表」である。 短期4285年度だから、1952年度の1年間の「元」の実績だ。 他の年の実績もこれと似ていると記録されている。
とにかくこの統計表によると、1952年当時「特殊慰安婦隊」に編成された慰安婦は89人で、彼らから「慰安婦」を受けた軍人は年間20万人を超えると集計された。 ただ、この実績が実績統計表に記載した4カ所(ソウル第1、2、3小隊·江陵第1小隊)に出入りした軍人の統計なのか、慰安隊が現地部隊に「出動慰安」した軍人の統計まで含めたのかは不明だ。
▲ 〔画像省略〕<表2>金貴玉博士が修正した1952年特殊慰安婦実績統計表
「慰安隊」は予備隊兵力の「第5種補給品」
戦線で戦闘を終えて後方に交代した予備部隊の兵力が、慰安婦を利用できたという事実は、他の将軍の回顧録でも一致する。 車圭憲(차규헌/チャ・ギュホン)将軍(予備役陸軍大将)もまた、自身の回顧録「戦闘」(1985年)で予備隊時代に経験した移動式軍慰安所制度をこのように回想している。
「(1952年)3月中旬の気候は春を羨むように肌寒かった。(···)残敵を完全に掃討した後、予備隊になって部隊整備を実施している時、師団の恤兵部〔※〕から将兵を慰問するために女子慰安隊が部隊の宿営地付近に到着したという通知があった。 中隊人事係の報告によると、彼らは24人用の野戦天幕に合板と友誼で仕切りをした野戦寝室に収容されたとし、他の中隊兵士たちは列を作ってまで多く利用したと言った。」
※恤兵:慰安品の事
▲ 〔画像省略〕キム・ヒオ〔김희오〕将軍(予備役少将)の回顧録『人間の香り〔인간의 향기〕』。 34年間の軍生活で韓国戦争当時初めて見た公開的軍慰安所運営事例について「永遠に気まずい記憶」として記録している。
一方、キム・ヒオ将軍(予備役陸軍少将)もまた「移動式」ではあるが、これとは少し異なる角度で慰安婦制度を記憶している。
金将軍は軍で直接慰安所を設置·運営したというよりは、連隊幹部が当時売春宿だった「鍾3」(鍾路3街)から大金を払って慰安婦に連れてきたと記憶している。 金将軍は自叙伝『人間の香り』(2000年)で、その部分をこのように回顧している
「中部戦線の)首都高地戦闘も忘れられ、逃亡兵の発生も落ち着いてきた。いよいよFTX(野戦訓練)に本格的に突入するため、消火器や装備の点検、補給品の整備などが行われていたある日の朝だった。連隊1課から中隊別第5種補給品(軍の補給品は1~4種しかなかった)の受け取り指示があり、行ってみると、私たちの中隊にも週8時間制限で6人の慰安婦が割り当てられていた。(......)しかし、私は白昼に多くの人が行き交う中、列を作って分隊のテントを利用することとか、道徳的にも良心上も微妙で、あまり気が進まなかった。まず小隊に2人が割り当てられ、そのうちの1人が先に小隊長テントに配属されてきた。私は出身環境など数言の会話を交わしただけで、あまり手伝うことができなかったので、今まで集めていたビスケットを一袋詰めて、先輩下士官に引き渡した。」
▲ 〔画像省略〕キム·ヒオ将軍
両将軍の証言によると、軍部隊にいわゆる「第5種補給品」という名前で慰安婦が割り当てられ、24人用の野戦天幕が慰安所として仮設(チャ・ギュホン将軍)されたり、分隊幕舎を慰安所として代用(キム・ヒオ将軍)した。
慰安隊が「第5種普及品」扱いを受けたのは、日本軍従軍慰安婦が「天皇の下賜品」や「軍需品」として扱われた点と一脈相通じる。 また、兵士たちが列を作ってまで多く利用したことや、小隊長のテントに先に割り当てられた後に兵士たちに割り当てられた点なども、日本軍従軍慰安婦の被害者たちが証言する慰安所の風景と似ている。
運営方式は証言によって少し異なる。 チェ・ミョンシン将軍によると、戦線での慰安部隊の出入りは「チケット制」で運用するようにした。 ところが、誰にでもチケットが与えられるわけではなかった。 戦場で勇敢に戦い、功績を立てた順に配った。 また、手柄の程度によってチケットの数が変わったという。 これは軍人が軍票や現金を渡して利用した日本軍慰安所とは違いがある。
むしろこれは北海道やサハリン地域に強制連行した朝鮮人労働者と日本人労働者を相手に会社で用意した慰安施設で仕事をした「産業慰安婦」制度と似た形だ。 日本が犯した代表的な戦争犯罪である従軍慰安婦問題に隠れて産業慰安婦問題はよく明らかにされなかった。
しかし、日本の軍需企業は労働者に一種の「成果給」として慰安所を利用できるチケットを提供するなど、労働者を統制するのに慰安所制度を利用したことが明らかになっている。 結局、このような事実を総合すれば、韓国戦争期間の軍慰安婦制度は「日本軍従軍慰安婦制度の残滓」という結論に達することになる。
「恥ずかしい日本軍慰安婦制度の残滓」
そのためか、回顧録に軍の「慰安婦」制度を記録した将軍たちは、一様に慰安所運営の妥当性に対する疑問とともに、戦争の痛み、そして絶対貧困の惨状を指摘する。
▲ 〔画像省略〕韓国戦争当時、連隊長として服務したチェ·ミョンシン将軍(駐越韓国軍司令官)は「軍慰安婦制度は将兵の士気高揚と性病予防のために導入した『軍部の恥部』だが、当時社会に蔓延した私娼を軍に吸収し人権を保護した側面もある」と主張した。
チェ·ミョンシン将軍は自身が回顧録に記録した韓国戦争当時に体験した軍慰安婦制度について「明らかにしたくない軍部の恥部だが動けない事実を記録したもの」と話した。 その一方で、蔡将軍は当時の暗鬱な現実と時代状況を例に挙げ、不可避性を力説した。
「当時は戦争が長期化するにつれ、多くの若い女性たちが生計のために米軍部隊で体を売って戦線近くにまで押し寄せる時代だった。 当然、私娼には性病が蔓延し、私娼を放置する場合、性病による戦闘力損失も憂慮された。 このため、軍で将兵たちの士気高揚と戦闘力損失予防のために慰安隊を編成し、軍医官の性病検診を経て将兵たちが利用するようにしたのだ。 しかし、ある意味では(売春婦を軍の慰安婦に吸収することで)当時の社会の必要悪として人権の死角地帯に放置された多くの売春婦女性の人権を保護した側面もある」
しかし当時、連隊長だったチェ将軍は軍慰安婦制度を企画した軍首脳部の主体が誰なのかについては「よく分からない」と答えた。 また、蔡将軍は慰安婦の規模についても「名称上は部隊(特殊慰安婦隊)だが、部隊編制表によって編成されたものではないため、慰安婦や社倉の事情(需要供給)によって慰安婦の規模がその都度異なり、正確な人員を算出することが難しかっただろう」と指摘した。
「小隊長、チケットをもう一枚もらえませんか?"」
.... 私たちの第5連隊では「慰安部隊」を利用するためにいくつかの規則を作った。慰安部隊の出入りはチケット制で運用するようにした。しかし、誰でもチケットがもらえるわけではありません。戦場で勇敢に戦って功績を立てた順に配る。もちろん勲章を受けた人は当然優先権があり、羨望の的だ。
"5連隊は無条件に階級に関係なく、勲章をたくさんもらった人から順番に慰安婦を相手にすることができる。"
私がこのようなルールを作ると、部隊内ではひとしきり言い争った。
"今、君たちはみんな私の弟だ。わかったか?”
"ちょっと待ってくれ、もうすぐ私が君たちに登頂時期を発表するから.... お楽しみに。”
すべての口と耳が慰安所に集中していた。勇敢な朴・パンド中佐も規定通り2枚のチケットをもらい、最初に慰安所に行くことになった。
私は当時、連隊長だったので、この話は後日、大隊長を通じて聞いた。 ところが、朴中佐は独身で、慰安婦、相手することを頑なに拒否したという。 そしてチケットも他の戦友に与えようとすることを規則だからだめだとし、分隊員が無理やりに担いだ慰安部隊のテントの中に入れたという。
すべての分隊員はテントの中を覗き込みながら歴史的事態(?)を見守ったが、無邪気なパク・パンド独身は、女性がズボンを脱がそうとすると「嫌だ」と逃げたり、無理矢理脱がそうとすると断固として避けたりと、外で見守る分隊員に笑いを誘うばかりだった。
しかし、あまりにも狭いところなので結局は女に捕まったが、相手が独身男性だということを知った女がいたずらで彼の物を触りながら「あの子、こんなものを持ってきたの?」とからかうと、ついに彼は銃(?)一発も撃てずに顔だけ赤くなって逃げたということだった。
分隊員たちは、自分の分隊長に恥辱の夏を残したくないと、その夜、徹底的な講義と実例を示し、最終的に朴판道軍曹を説得する。翌日の再挑戦の結果、パク・パンド軍曹は最終的に成功する。
ところが問題は次からだ。一度慰安部隊を経験した朴中尉が完全に味をしめたのだ。
「あの...、小隊長さん。あの...、チケットをもう一枚もらえませんか?"
このような状況まで報告されたので、私は爆笑を禁じ得なかった。
「へえ、あの野郎。そうだ、大隊長が勝手に2、3枚取ってくれよ....。ハハハハ...."
そのときから私はなぜか気になった。素朴な奴が戦闘しか知らないのに、ある日突然、人生のある新しい側面を知ったなら....。
<チェ・ミョンシン回顧録「死線を越えて」>(267~269ページから引用)
陸軍本部の公式記録である「後方戦史」の「特殊慰安婦実績統計表」(1952年)によると、当時の慰安婦を利用した将兵は少なく見積もっても年間20万人を超える。 また「慰安婦隊を利用できる予備隊になる前から将兵たちの話題は全て慰安婦隊の件だった」というチェ将軍の証言から見るように、当時韓国戦争に参戦したすべての軍人は軍が設置·運用した「特殊慰安婦隊」の存在を知っていた。
まさにその「公然の秘密」が50年ぶりに一歩遅れて浮上したのは、この明らかにしたくない軍部の恥部が日本軍慰安婦制度の残滓であるためかもしれない。
もちろん、韓国軍慰安婦隊は動員方式や期間、そして規模などで日本軍従軍慰安婦制度と本質的な違いがある。 しかし、かなりの部分が日本軍従軍慰安婦制度と類似した方式で運用されたことも事実である(下記<表3>参照)。
〔画像省略〕<表3> 日本軍·韓国軍慰安婦制度の類似点と相違点
まず、士気高揚と戦闘力損失予防を掲げた設置目的からが似ている。 また、兵士が軍隊のテントの前で並んで利用し、軍医が性病検診をする利用·管理風景も似ている。 また、日本軍の軍票〔※〕の代わりにチケットのような代価が支払われた取引形式で運用されたりもした。
※軍票は現金と同じなので、兵士達は身銭を切って慰安婦を買い、韓国軍は隊長などの判断で所謂インセンティブとしてチケットが支給されたので、上の説明は間違い。
日本軍慰安婦が設置された当時は公娼は合法。解放後の南朝鮮では公証制度は廃止されていた。
また、日本軍慰安所は民間人の運営であり、韓国軍は軍が運営した。
これは目撃者の証言からも裏付けられる。 韓国戦争当時、この珍しい制度を初めて体験したキム・ヒオ将軍は初めて慰安隊を目撃した瞬間に直感的に「これは過去の日本軍内従軍経験のある一部幹部が部下の士気高揚のための発想から始まったものなんだな」という気がしたという。 それで金将軍は、34年間の軍生活で初めて見た公開的な軍慰安所運営事例について、その当為性を離れ永遠に気まずい記憶として刻印されていると記憶している。
この「気まずい記憶」はまさに8·15解放と48年政府樹立以後、初期国家および軍部形成に深い影響を与えた親日派清算問題と接しているのだ。 例えば、合同参謀議長は、1代目のイ・ヒョングン議長から14代目のノ・ジェヒョン議長まで、陸軍参謀総長は、1代目のイ・ウンジュン総長から21代目のイ・セホ総長に至るまで、日本軍の経歴者が独占していたという点を考えると、韓国戦争当時の慰安婦問題は未清算された親日派問題と直結していることが直感できる。
キム·グィオク博士は「韓国戦争軍慰安婦問題は日本軍慰安婦制度の不幸な子供と言える」とし「この問題も(日本軍慰安婦問題のように)被害女性と社会団体そして学界が連帯して解決しなければならない私たちの過去清算問題の一つ」であることを強調した。

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