【李舜臣】顕忠祠
今回の話題は、以前「X」で韓国人の方から、「顕忠祠(忠武公=李舜臣を祭る廟)は朝鮮時代に壊されたのを日本統治時代に再建したもの」と教えて頂き、その経緯を調べて分かった事を覚え書きとするためです。
まず、韓国で李舜臣が英雄になった経緯をおさらいすると、以下の流れになります。
- 17世紀前後に書かれた柳成龍の『徴秘録』が日本に伝わり文禄・慶長の役の朝鮮側の事情を知る。→『絵本太閤記』に李舜臣が強大な敵として描かれる。 〔→ ブログエントリー〕
※「絵本」とは挿絵のある本の事 - 朝鮮総督府が編纂した『朝鮮人名辞書』では李舜臣に2頁も割く大盤振る舞い。
- 日本統治時代に朝鮮人の間で「李舜臣将軍はネルソンにも匹敵する」という話をしていた。 〔→ ブログエントリー〕
- 1955年3月31日付け『朝鮮日報』に忠武公記念事業会が『忠武公(=李舜臣)の日』を制定しようというコラムを書き、その中に「東郷平八郎が『李舜臣はネルソン提督以上、私は李舜臣将軍の足元にも及ばない』と言った」という話を書き、これが韓国では定説となる。〔→ 同上〕
* * * *
それでは、顕忠祠は何故壊され、どの様に再建されたのでしょうか?
李朝最後の王となった高宗の時代の1871年、実験を握っていた父親の大院君が「書院撤廢令(서원철폐령)」を出し、全国の書院や祠宇〔廟・神社のようなもの〕の内、重要な47ヶ所だけ残して撤廃するよう命じました。
詳しくは『[朝鮮総督府]調査資料 第45輯』〔出版:朝鮮総督府〕(42コマ目~)に書かれていますが、簡単に言えば、書院や祠宇を建てる事がある種の利権化/特権化していたからです。
この時、顕忠祠も壊されました。
これが再建される経緯は『最近に於ける朝鮮治安状況 : 昭和八年・十三年』〔朝鮮総督府警務局 編〕(57コマ目)に書かれています。
この部分は「治安状況」という見出しが付けられており、朝鮮総督府が朝鮮人知識人の思想に目を光らせていたことも覗えます。
昭和六年末より京城民族主義者 尹致吴、南宮黃、白寬洙、俞鎮泰、鄭寅晋等が中心となり、過ぎし壬辰の役(文綠、慶長の役)日本軍と交戦し偉功あると傅へらるる、李舜臣を追墓崇することは朝鮮人に残されたる責務なりとし、李忠武公遺蹟保存会を組織し、二萬五千餘円の献金を数箇月間に集め、顯忠祠共他の堂々たる殿宇を建立し、昭和八年に入り湯鮮體育會を作り、或は諺文〔※=ハングル〕普及及保存会を組織せるが如きは彼等思想の一端を物語るものにして...
冒頭に挙げた経緯の3を見ても分かる様に、日本人統治時代に芽生えたナショナリズムによるものでしょう。
※今回のエントリーから新たに「李舜臣」単独のカテゴリを作りました。過去の李舜臣関連のエントリーは追々カテゴリを変更します。
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