【韓国】光復節と建国(2)臨時政府の考えていた建国ロードマップ
前回のエントリーの続きです。1919年に樹立された臨時政府ですら、現在の状況は「建国」とは言えないと認識しており、光復を意味する「復国」を成し遂げて後に「建国」するという構想があったという事を示しており、興味深いコラムです。
以下は、朴鍾仁(パク・ジョンイン)記者のコラムを元にしていますが、時系列を重視して、再編成しています。
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https://www.chosun.com/national/weekend/2025/09/13/Z3QHQDGGYBE4ZM55RU5Q7K5QLM/
"이제 건국이 시작됐다"… 1945년 9월 3일 임정 주석 김구
「今こそ建国が始まった」…1945年9月3日、臨時政府主席 金九
2025.09.13.
金九〔※김구/キム・グ〕の自叙伝である『白凡逸志』にはこう記されている。「1945年8月中旬、西安で『倭敵が降伏するぞ!』という知らせを聞いた。「これは私にとって喜ばしい知らせというより、天が崩れ落ちるような出来事だった。我々が今回の戦争で何も成し遂げていないため、将来の国際社会における発言権が弱まるだろう」(金九、初版本『白凡逸志』、p351、白凡逸志出版事務所、1947年)
※金九ですら、臨時政府や独立軍は「解放」には何の寄与もしていない事は認識していました。
解放後の1945年9月3日、臨時政府主席の金九が発表した「国内外の同胞に告ぐ」と題した布告文には、「私たちが直面した現段階は建国の時期に入ろうとする段階」と書かれている。 臨時政府が重慶で発表したこの布告文は、直ちに朝鮮で再び印刷され、ビラで流布された。
この文書... 東京湾海上のミズーリ号で日本が降伏文書に署名した日の翌日であるが、そこにはこう書いてある。
「万一、数多くの我が先烈〔※革命のために命を捧げた烈士〕の高貴な熱血の大家と中·米·ソ·英など同盟軍の英雄的戦功がなかったら、どうして祖国の解放があり得るだろうか。 私たちが直面している現段階は、建国の時期に入ろうとする過渡的な段階だ。 建国の初期が始まる段階だ。 「親愛なる同胞姉妹兄弟よ、我が祖国の独立と我が民族の民主団結を完成させ、国際間の安全と人類の平和を増進するために、本政府の当面の政策を実行することに共同で努力しよう。」
1941年、臨時政府の「大韓民国建国綱領」
1941年12月8日付の臨時政府公報72号。 11月28日、臨時政府の国務委員会で議決した「大韓民国建国綱領」が載っている。 国土と人民を奪還する「復国」と、それ以後の、中央議会、政府、首都を決める「建国」ロードマップが提示されている。
臨政は『国号を定め、臨時政府と臨時議政院を設立し、臨時約法を公布し、敵に包囲された国土と人民を完全に奪還する段階』がこの『国権回復』すなわち復国段階だと規定した。この段階を完成して初めて「建国段階」が開始されると臨政は宣言した。(1941年12月8日『臨時政府公報』72号)
綱領には「建国」の概念も明確である。「敵の一切の統治機構を国内で完全に殲滅し、国家の首都を定め、中央政府と中央議会の正式な活動によって主権を行使し、選挙と立法と任官と軍事と外交と経済などに関する国家の政令が自由に執行され、三均制度〔※〕の綱領と政策を国内に施行し始める過程を建国の第一期とする。」
※ 三均制度〔삼균제도〕とは、趙素昂〔조소앙〕が体系化した民族主義的政治思想であり、「完全均等」を基盤として個人と個人、民族と民族、国家と国家間の均等を追求するもの。
1946年 臨時政府が再宣言した「建国」
※「解放」後、国外にいた活動家が続々と戻り、国内にいた活動家との軋轢が生じます。
植民地時代を通じて国内で活動していた運動家たちは、彼らとは無関係に建国を準備していた。呂運亨〔※여운형/1947年7月19日暗殺〕が作った左翼系「建国準備委員会」は8月28日、こう宣言した。「戦後問題の国際的解決に伴い、朝鮮は帝国主義日本の桎梏〔※手かせ足かせ=束縛〕から脱却することとなった。新国家建設のための重大な課題が我々の前に置かれている。」
9月6日、呂運亨と朴憲永〔※박헌영/独立運動家で共産主義者〕は「朝鮮人民共和国(人共)」の設立を宣言した。
10月16日、李承晩が帰国した。11月23日、臨時政府要人が帰国した。1945年12月中旬、ソウル国一館で開かれた臨時政府要人歓迎宴には臨時政府要人全員が参加した。酒が回ると申翼熙〔※신익희/シン・イッキ〕がこう吐き捨てた。「国内にいた者は多かれ少なかれ皆親日派だ。」 張徳秀〔※장덕수/チャン・ドクス:東亜日報の初代主筆。1947年暗殺〕が言った。「では私は間違いなく粛清対象だな?」 申翼熙が答えた。「どこが雪山(=チャン・ドクス)だけなのか!」
1948年8月、首都、議会、政府
それでは、臨時政府と金九が建国の第1期とした、中央政府と中央議会が正式に活動し、首都が決まった時期はいつか? 1948年5月10日、総選挙によって国会議員198人が選出された。 南朝鮮の単独総選挙に反対していた金九と臨時政府勢力は参加しなかった。3週間後の5月31日、中央庁の国会議事堂で制憲議会が開院した。 「中央議会」だ。 彼らが憲法を作り、憲法によって「中央政府」が樹立され、慣習によってソウルが自然に大韓民国の「首都」になった。
※ 総選挙後の5月31日に制憲国会が開会、議長に李承晩、副議長に申翼熙が選出された。大韓民国憲法は7月17日に交付され、同日から発効された。続いて7月20日に国会議員による正副大統領選挙が行なわれ、大統領に李承晩、副大統領に李始榮が当選した。大統領選で金九は大差で敗れる。
1948年8月15日に政府樹立を宣言。「臨時政府建国綱領」の論理によれば、この1948年8月15日が大韓民国が建国された日である。臨時政府そして金九本人は国権回復と解放、建国を別個の段階として規定した。この日が建国第一期が終わり第二期が始まった日である。
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「光復」とは「失われた物を元に復する」事です。
前回ご紹介したように、中華民国では、たかだか占領軍に過ぎない中華民国政府が台湾の管理権を日本から譲渡された事を「光復」と呼びました。
では、南朝鮮だけで建国してしまった... 敢えて「してしまった」と書きますが、... これは「光復」なのかという疑問も生じますが、李承晩大統領が建国(1948年8月15日)を光復と表現した以上、大韓民国の建国が光復なのでしょう。朴鍾仁記者の様な右派の一部もこの立場です。
しかし、「光復」という曖昧な概念の定義が定まらないままの議論は永遠に平行線のままです。
これは、韓国人が歴史をあるがままに記述せず、立場による認識で歴史を ”ナラティブ” (物語)で書き換え続けてきた代償を右派も払っているのだと思います。
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