【韓国】日帝が破壊した慶熙宮? 【「キムチわさび」動画】
慶熙宮のWikipediaを読むと以下の様な事が書かれています。
慶熙宮(けいききゅう、朝: 경희궁、キョンヒグン)は、現在の大韓民国ソウル特別市にある李氏朝鮮時代の宮殿。光海君8年(1616年)に建立された。..李氏朝鮮後期には第2の宮殿とされ、非常時に王が移る場所とされた。大韓民国の史跡第271号に指定。
19世紀後半に興宣大院君の景福宮再建の過程において慶熙宮の主な殿閣を撤去し資材として充てたのに次いで、日本統治時代を経てほぼ完全に破壊され更地に変貌した。残存していたいくつかの建物も市内各地に移設されていった。跡地に日本人学校の京城中学校が建てられた。解放後にソウル高等学校となった。1980年、ソウル高等学校の瑞草区への移転以後、ソウル市立美術館として使用されたが、再び建物を取り壊し慶熙宮を復元した。ソウル高等学校の別称と慶熙大学校の名称はここに由来する。
いつもの様に日帝が破壊したと言ってますが、既に日本統治時代以前に廃墟になっていたのは、韓国語版Wikipediaに貼られた1884年に撮影された写真からも分かります。〔李氏朝鮮時代に米国公使だったジョージ・クレイトン・フォークが撮影したもの〕
「キムチわさび」さんの動画、「慶熙宮防空壕の秘密/경희궁의 비밀」は、そんな旧慶熙宮の敷地に造った防空壕がメインテーマですが、慶熙宮が原型を留めていないことを ”日帝” のせいにされています。
ブログ主は、このエピソードを知って、沖縄の首里城を思い出しました。明治維新後、主(あるじ)のいなくなった城は荒廃し、市民は木材も勝手に使っていた。誰も関心が無く、首里市は取り壊そうとしていたのを救ったのは、その文化財的価値を知った内地人です。そのくせ、沖縄サミットを機に再建された建物を県の管理の不備で燃やしてしまったら〔※現在火災原因を巡って係争中〕、「沖縄県民の心の拠り所が... 」などと悲しがる... 。これは県民が悪いのでなく、戦前には既に崩れかけていた姿を知らないからです。
慶熙宮が荒廃していたことは、併合当時の記述... 例えば『鉄道院線沿道遊覧地案内』(明治43年/1910年)に以下の様な記述がある事からも分かります。
>本朝元宗〔※高麗王〕の舊邸(旧邸)、門は興化を存し、殿は崇政〔※政(まつりごと)を行う建物)を殘すのみ、古の宮苑、蔓草萋々老松落々...
※萋々: セイセイ/植物が生い茂っている様
他にも、1901年の『考古界 1(1)』という本には「敦義門の近くに慶熙宮の廃墟有り」と書かれています。
こんな状態だったので、併合後に廃屋を撤去して、敷地内に学校を建てたり、戦時中に防空壕を建設したのでしょう。それを ”残虐行為” などと呼んでいるようです。
ソウル市は2013年頃に完全復元を計画しましたが、コストの問題で断念したとか。
https://www.mk.co.kr/news/culture/5427612
일제가 망친 경희궁 내년부터 복원한다
毎日経済:日本が台無しにした慶熙宮、来年から復元へ
2013-01-27
... 慶熙宮は、昌徳宮を凶宮として忌避した光海君が、宣祖の五男である定遠君の屋敷を奪って建てた。王気が宿っているという話を聞いてのことである。しかし皮肉なことに、光海君本人はこの宮殿に入ることも叶わず、反正により王位から退き、王位は定遠君の息子である仁祖へと継承された。西闕とも呼ばれ、粛宗、景宗、英祖、純祖など多くの王が滞在し、正祖、憲宗などの即位式も行われた景禧宮は、しかし日本植民地時代に宮殿の面影を完全に失う。
朝鮮王室と韓国の伝統を抹殺するために、日本は慶熙宮内の建物を取り壊したり、他の場所に移した後、日本人学校と各種官舎を建てる蛮行を犯した。 中心部には巨大な防空壕まで掘った。
日帝によって徹底的に踏みにじられた慶熙宮が、昔の姿のまま建て直される。 慶熙宮は朝鮮時代の5大宮殿の中で唯一未復元の状態である。 旧慶熙宮の敷地の半分以上は、城谷美術館など民間の建物や住宅が建っており、復元方式に大きな関心が予想される。...
« 【韓国】光復節と建国(2)臨時政府の考えていた建国ロードマップ | トップページ | 【韓国】負の遺産?「慶熙宮 防空壕」 »
« 【韓国】光復節と建国(2)臨時政府の考えていた建国ロードマップ | トップページ | 【韓国】負の遺産?「慶熙宮 防空壕」 »



















































test

コメント