【竹島】韓国側に「独島を朝鮮領土に組み込んだ」という証拠はない (2)「大韓帝国勅令第41号」(1900年10月25日)
前回のエントリーの続きです。
韓国の『東北亜歴史ネット』には以下の様な説明があります。
ここで「石島」は現在の「独島」だと述べています。
* * * *
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=isdk_001j_0020_0010
1. 1900年、大韓帝国勅令第41号、独島を韓国領土として世界に公表
1900年、大韓帝国は「大韓帝国官報1716号」を発行し、「勅令第41号」を世界に公表した。勅令41号は「鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守と改正する件」であり、その第2条に「郡庁位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵島全体と竹島と石島を管轄する事」と定めた。ここでいう竹島とは、鬱陵島から東に2kmの距離にある島を指し、石島が現在の独島である。独島は朝鮮の歴史の中で主に于山島と呼ばれていたが、1882年に朝鮮王高宗と鬱陵島の検察使である李奎遠の会話の中から、高宗が「鬱陵島と竹島、松島(=独島)を総称して鬱陵島とする」と言ったことをきっかけに、名称に変化が生じた。その後、松島は日本名であるため、その名前を捨てたと推定され、鬱陵島の住民が独島をトルソム(石の島)と呼んでいたため、全羅道などの方言からトルソム→ドクソム→ドクト(独島)と名称が変化し、現在の独島という名称に定着した。文献では、1904年に日本の軍艦『新高』が「韓国人はこれを独島と書く」と記録したのが最初である。韓国側の文献では、1906年に鬱陵島の郡守沈興澤が報告書の中に独島という名称を初めて使った。これは、独島という名称がそれ以前から定着していたことを証明している。石島とはトルソムを漢字表記した名称である。
※鬱陵島を「郡」に格上げするという内容。
>第1条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等とすること
>第2条 郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること
日本の学者は、石島とは独島ではなく鬱陵島の北にある観音島だと言っているが、観音島には島項、カクセソムなどの名称があったため、わざわざ石島と命名する必要はなかった。また観音崎と呼ばれ、島ではないと認識されていた。島項という名称も「島のうなじ」という意味であるため、完全な島として見なしてはいなかった。すなわち、石島とは独島のことであり、1900年に大韓帝国は独島を鬱島郡の管轄区域に正式に編入したのである。1905年に日本が独島を島根県に不法編入した時より5年も早い時点であった。
(引用終わり)
* * * *
韓国側は、独島は元は于山島と呼ばれていたが、その名を捨てたと(←推測。根拠なし)し、方言で石島(トルソム)と呼ばれていた島が独島であり(←明確な根拠なし)、1900年に「郡庁位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵島全体と竹島と石島を管轄する事」と定めた事が独島領有の根拠と述べています。
1.于山島
しばしば韓国側が提示する「于山島の描かれた地図」ですが、その位置は明らかではありません。『領土・主権展示館 Q&A』が説明する様に、鬱陵島の事(2つの島から成ると考えていた?)か、存在しない島です。(「竹嶼(ちくしょ)」を思わせる図もあり。)
2.1904年に日本の軍艦『新高』が「韓国人はこれを独島と書く」と記録
これは『軍艦新高行動日誌』の事で、1904年の「軍艦新高行動日誌(5)」の9月25日に記録に出てきます。〔コマ番号:66/73、『アジア歴史資料センター』の「軍艦新高行動日誌」検索結果全体はこちら。〕
ここには「リアンコルド岩〔※〕を韓人は独島と書き、我が国の漁夫はリヤンコ島と呼ぶ」と書かれています。
※1849年にフランスの捕鯨船Liancourt(リアンクール)号が現在の竹島を"発見"したので、Liancourt Rocksと呼ばれる。日本語では「リャンコ島」などと呼ばれた。
ここでは『島根県』の「実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜 第16回」を引用して説明します。
(韓国側は『勅令41号』でいう石島は独島の事だと主張するが、)だがそのためには、独島の呼称がいつから始まり、独島での漁労活動がいつから行われたのか、実証しておく必要があった。歴史的根拠を示すことが出来なければ、憶説に過ぎないからである。
現に1903年刊の葛生修亮の『韓海通漁指針』では、後に竹島となる無人島について「韓人及び本邦漁人は之をヤンコ島と呼」称したとしており、独島の前身は石島ではなく、ヤンコ島であった。そのヤンコ島(竹島)が独島と呼ばれるのは、1904年頃。1904年9月25日付の軍艦新高の日誌には、「韓人之を独島と書し、本邦漁夫等略してリアンコ島と称せり」と記されている。これは1904年からリアンコ島でのアシカ猟が本格化し、日本人に雇われた欝陵島民がリアンコ島に渡ったからである。従って1904年から始まった独島の呼称が1900年の勅令に影響を与え、独島が石島と表記されることはあり得ない。「独島の月」には歴史的根拠がなく、韓国側の石島=独島説は荒唐無稽な憶説に過ぎないのである。
3.請議書(1900年10月22日)
ここでは鬱陵郡の範囲が「縦80里、横50里」と書かれています。(1里=約400m)
この範囲に竹島(韓国が言う独島)はありません。また、最終的には東西60里、南北40里となります。
再び島根県のサイトより説明をお借りします。
(「韓国側の石島=独島説は荒唐無稽な憶説に過ぎないのである。」として、) それは「勅令第41号」が発布される三日前、内部大臣の李乾夏が提出した請議書が証左となる。欝島郡となる欝陵島は「縦八十里ばかり、横五十里と為す」と明記され、欝陵島の特産は「馬鈴薯、大麦、大豆、小麦」とされているからだ。当時、欝陵島の主産業は農業で、漁業は欝陵島周辺での採●(アラメ採り)程度であった。それは欝陵島の郡昇格に繋がる1900年6月の視察官禹用鼎の視察録が証明している。禹用鼎は『欝島記』の中で、「所種は則ち大小麦、黄豆、甘藷」、「水利は則ち採●を主と為す」とするように、欝陵島では農業が営まれ、漁業は採●が行われていただけである。欝陵島の島民が独島に渡るのは、勅令が発せられた4年後、リャンコ島でアシカ猟が始まってからである。
さらに禹用鼎が視察した範囲は、「周廻一百四五十里」の欝陵島一島に限られ、竹島(独島)には渡っていない。それは1883年に欝陵島踏査をした李奎遠が、欝陵島を「周廻一百四五十里」としたように、すでに欝陵島に対する領土的範囲が確立していたからである。そのため李奎遠が欝陵島の属島としたのは竹島(チクトウ)と島項(後に鼠項島、鼠項島の発音は石島のソクトウに近い)の二島で、いずれも欝陵島から2キロ以内の小島である。
韓国の慶尚北道議会は、「勅令第41号」に依拠して10月を「独島の月」とした。だが「勅令第41号」の石島は独島(竹島)ではなかった。欝島郡自体、「周廻一百四五十里」の欝陵島一島に限られていたからだ。韓国側では勅令を根拠に、竹島の島根県編入を侵略と決め付けているが、歴史的根拠がないまま竹島を不法占拠しているのは、韓国側なのである。
(下條正男)
つまり、韓国側が古地図の「于山島」を独島だと主張したり、『勅令41号』の「石島」を独島だと主張しても、後者は ”方言が変化したのだろう” という推測でしかなく、呼称の変化を裏付ける資料は無いのです。
« 【竹島】韓国側に「独島を朝鮮領土に組み込んだ」という証拠はない (1)概略 | トップページ | 【竹島】韓国側に「独島を朝鮮領土に組み込んだ」という証拠はない (3)島根県視察団と所謂「沈興澤報告書」 »
« 【竹島】韓国側に「独島を朝鮮領土に組み込んだ」という証拠はない (1)概略 | トップページ | 【竹島】韓国側に「独島を朝鮮領土に組み込んだ」という証拠はない (3)島根県視察団と所謂「沈興澤報告書」 »






















































test

コメント