大韓民国が法統を引き継いだのは上海臨時政府では無かった
韓国の保守系ネットメディア『ペン&マイク』の元主筆の鄭奎載(정규재/チョン・ギュジェ)氏がFacebookに8月17日付で投稿されていた事をメモしておきます。
鄭氏によると、李承晩国会議長が1948年の国会開会式で述べた祝辞は以下の様なものであったそうです。
「〔... 〕この民国は己未年3月1日、韓国の13道の代表がソウルに集まって国民大会を開き、大韓独立民主国であることを世界に公布し、臨時政府を建設して民主主義の基礎を立てたのです。 〔... 〕今日ここで開かれる国会は、つまり国民大会の継承であり、この国会で建設される、つまり己未年にソウルで樹立される民国臨時政府の継承だから〔... 〕。」
現在の大韓民国憲法前文は以下の様に始まります。
「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し... 」
◆元々は「漢城臨時政府」を意味していた
現行憲法前文でいう臨時政府とは上海に設立された臨時政府なのですが、前述の李承晩の演説にある「韓国の13道の代表がソウルに集まって建設した臨時政府」は別の物、つまり、1948年に成立した大韓民国が法統を受け継いだのは漢城(元ソウル)にあった臨時政府=「漢城臨時政府」だということを意味します。
実は、臨時政府というものは乱立しました。
Wikipedia「大韓民国臨時政府」には以下の様な説明があります。
>三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていた。
当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、朝鮮半島では天道教系の大韓民間政府や朝鮮民国臨時政府、ほとんど実体を持たない平安道の新韓民国、京城の臨時政府、シベリアに大韓国民議会など独立派の組織が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく[11]。1937年8月、南京において、韓国国民党(金九)・韓国独立党(洪震)・朝鮮革命党(池青天)などの韓国独立運動団体が合流して、臨時政府の基盤となる韓国光復運動団体聯合会が設立された。[2]
李承晩が言った「漢城臨時政府」とは「京城(現ソウル)の臨時政府」の事。鄭奎載氏はこれを指摘したのです。
李承晩はアメリカでロビー活動をしている時にはこの漢城臨時政府の大統領を名乗っていました。
◆1987年の憲法改正で上海臨時政府にすり替え
大韓民国憲法前文の韓国語版Wikipediaによると、1948年制定の大韓民国憲法前文は「3.1運動で大韓民国を建国し」となっていました。それが、1987年の改正で「3.1運動で建国された大韓民国臨時政府」と修正されていたのです。どちらも国際社会に認められる正式な政府では無いとは言え、李承晩の意図とは違うものになっていました。
鄭奎載氏はFBでこう仰っています。
私はいわゆる法統論争を馬鹿にしている。 安っぽい両班たちの系図論争、一種の「重箱の隅論争」と変わらないと思う。大韓民国以前の韓民族の法統的な淵源は、強いて言えば大韓帝国であり、朝鮮である。 これ以上、何の根と法統が必要なのか。 国民国家は、自らが成立させた政治共同体に対する集団の意志にすぎない。 血筋とは言えない。
35年の植民地と3年の軍政期を経て、大韓民国を成立させたこと自体が大きな歴史革命だ。 植民地の経験は、ひどく立ち遅れていた朝鮮が秩序整然と近代化に便乗する訓育過程であり 近代的秩序と社会構造が生成され移植される苦しい過程だったのだ。
そのような過程があったからこそ、大韓民国は近代化、産業化の驚くべき成果を成し遂げた。 もしそうでなければ、何が大韓民国を現在のような進歩的発展国家にするというのか。
日帝との本格的な軍事的葛藤と血を流す闘争を経なかったことが残念で残念な部分なのか。 私は、韓国戦争3年を前近代と決別する熾烈な内部革命の過程だったと考える。
鄭氏のこのような認識は ”日帝支配を正当化” する、所謂 ”ニューライト” の理論だと左派から批判されます。もちろん、保守を自認する韓国人からも。
北朝鮮が、嘘でも ”抗日パルチザンの英雄が建国した正統な国家” を自認しているので、大多数の 韓国人は自分達も ”正統性” が欲しい のです。現在の大韓民国が成立する過程に ”日帝による近代化” があってはならないのです。
最後に、ブログ主がこのように整理する手助けをしてくれた論文と該当箇所をご紹介します。
* * * *
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/25681
『韓国臨時政府憲法文書における国家構想』( 國分典子 著/名古屋大学/2018-04-16)
Ⅲ.臨時政府の統合と臨時政府憲法文書における統治形態の変化
以上が、これまでのこの分野の研究である程度明らかになっている各地の臨時政府である。これらのうち上海の大韓民国臨時政府が呼びかけて、最終的には、統合臨時政府が成立し、臨時議政院によって 1919 年 9 月 11 日に全58 条からなる「大韓民国臨時憲法」(第 1 次改憲と呼ばれる 27))が制定された。
但し、「統合」といっても各地の臨時政府の足並みはあまり揃っていなかったようである。ロシアにあった大韓国民議会は 4 月 29 日に大韓民国臨時政府を「臨時承認」したものの、政府・議会をどこにおくかで統合交渉は困難に直面した。最終的には、国民議会から議員の 5 分の 4 が上海の臨時議政院に編入するという条件で国民議会は解散した 28)。一方、上海の大韓民国臨時政府が出した臨時憲章宣布文で、「臨時政府国務総理」とされていた李承晩は、上海臨時政府の呼びかけに答えず、漢城政府の大統領を自任していた。前述のように、「漢城政府」は 4 月 23 日に「ソウルで韓国 13 道の代表 25 人の名義により、国民大会の形式を借りて発表した臨時政府」であったが、組織的な実体があいまいな「ビラ政府」に過ぎなかったらしい。しかし、漢城政府の文書がアメリカの李承晩に渡り、かれがみずから漢城政府大統領を自任して外交・宣伝活動に乗り出し、漢城政府の「法統」を主張するようになった結果、李承晩との交渉過程で、大韓民国臨時政府は大統領制への変更を受け入れることになったのであった 29)。
* * * *
アメリカで大統領制を見ていた李承晩は韓国でもそれに拘り、議員内閣制で決まっていた新政府を鶴の一声でひっくり返すのですが、臨時政府の時代から拘っていたのですね。
« 【佐渡金山】産経新聞『正論』:「佐渡の金山」遺産登録の舞台裏【西岡力教授】 | トップページ | 【東海?】京都国際学園の校歌について(情報整理)【トンデモ歴史観?】 »
« 【佐渡金山】産経新聞『正論』:「佐渡の金山」遺産登録の舞台裏【西岡力教授】 | トップページ | 【東海?】京都国際学園の校歌について(情報整理)【トンデモ歴史観?】 »
コメント