朝鮮/大韓帝国期の女性の名前考
前回のエントリーで朝鮮の女性は名前が無い(明らかでない)... 少なくとも族譜(男系中心の家系図)のような記録上には名前が記録されないというのを見ました。
これに対しては「名前はあったが記録されていないだけ」という反論が可能です。
しかし、実際には「幼名」... これは悪鬼のようなものに目を付けられない為にわざと汚い名前や酷い名前を付け、早婚の朝鮮では結婚すると「宅号」(テッコ:出身地名+”宅”)で呼ばれた為、まともな名前を付ける必要が無かったようです。
cf. Wikipedia:朝鮮人の人名#伝統的愛称
子どもの死亡率が高かった庶民の間では、死の使いに気付かれることなく長生きすることを願って、子供にはしばしば幼名(아명、兒名 )が与えられた[23]。これらの愛称はしばしば侮蔑的な名前や汚い名前が付けられたが、美しい名前や宝物のような名前をつけると真っ先にあの世に連れ去られてしまうので、無事に大人になることを願って悪霊も避けるような名前をつけたものであり、今日では子供にはあまり使われない[24]。
結婚すると、女性は大抵は幼名を失い、出身の町を示す「テッコ」(택호、宅号)によって呼ばれた[23]。
この、幼名にあまり良くない名前を付けるという習慣は日本にもあり、牛若丸のような「~丸」がそうです。
朝鮮女性が生涯を通じて「呼び名」はあったとは言えますが、まともな名前は無かった... 必要なかったと言えます。
現代の様な出生届もない時代なので、呼び名さえあれば十分だったのでしょう。
故 崔吉城教授(1940年生)の母(1898年生)も生前は宅号で呼ばれており、死去後、戸籍を取り寄せたら名前がなかったと本に書いていました。
崔教授は、「本来○○であるはずの母の名前が戸籍に記載されていない」という書き方はしていないので、母親が名前を呼ばれることはなかったのでしょう。
併合前の韓国統監府時代の1909年に「民籍法」を発布し、戸籍の整備に取りかかります。これが朝鮮(大韓帝国)で初めての近代戸籍「隆熙戸籍」で、この民籍法によって女性の名前を戸籍に記載することや奴婢も姓名を持つことが奨励されるのですが、実物を見ると、「妻」の欄にフルネームではなく単に「黄氏」と書いてあるものもあります。
1931年生まれで『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか』の著者名は朴婉緒(パク・ワンソ)なので、 この年代の方は小学校に入学する必要上、名前を持つ必要が出てきたのかもしれません。
誤解していただきたくはないのですが、1900年前後生まれの女性に名前が無いことを馬鹿にしているのでは無く、それで不便は無かったと言いたいだけです。そして、普通の(公式な)名前を持つ必要に迫られたのは民籍法が制定された以降で、その理由の一つとしては、女子も学校に通う様になったからでは無いか?... 即ち、日本統治によるものではないかと推論しています。
ちなみに、日本では戸籍代わりの「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)というものがあり、例えば、東京都清瀬市に残る安永3年(1774)4月の宗門人別改帳には女性の名前も記載されています。しかし、男性が伊之助とか新五郎とか漢字で書かれているのに比べ、女性はまつ、たつ、さき、とめ...などの平仮名二文字が多いようです。
ブログ主や同級生の祖母はだいたい明治末~大正生まれなのですが、思い出しても、トメとかイノとかスズみたいな、言ってみれば安易な名前です。子供の将来に願いを込めて漢字を選ぶなどという習慣ができたのはそれ以降でしょう。
朝鮮で「創氏改名」(1940年)を行った時、どうせ改名するなら良い名前を付けようと、姓名判断が大流行したので、日本国内でも遅くともこの頃の話だと思います。
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