【両班】『韓国両班騒動記: ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇』(1)朝鮮の「族譜」と日本の「戸籍」
最近読んだ本で面白かった『韓国両班騒動記: ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇』(尹学準 著、2000/4/15、亜紀書房)から朝鮮(韓国)の『族譜』(一族の系図)に女性は記載されないという話をご紹介します。著者やこの本については後述します。
「わが家の族譜」という章から。
日本のフェミニストのリーダー格の女性から、朝鮮の夫婦別姓をうらやましがられて、「いや、実は朝鮮の女には名前さえ無い」とは言えなかったという事がかかれています。
ここに登場する申師任堂とは申氏の師任堂という号を持つ女性で、良妻賢母として尊敬され、5万ウォン札の肖像画になっている女性です。
この章で著者が言いたいのは、朝鮮は「男系中心の社会」という事。
著者の手元に『族譜』(家系図)が届いた時に娘達が憤慨するというエピソードがあります。
これによると、著者の項には「子 学準、字 建相、壬申2月6日、配安東金氏」と、名前、字(あざな)、生年月日と続いた後に、安東金氏から配偶者を得たとあるのみで、著者の妻の名前はありません。
別の箇所で著者が書いていますが、戸籍の生年月日は1年くらい後の日付になっているそうで、著者は「どうせ、日本の奴らの戸籍なんてどうでも良いと思ったのだろう」と、出生届をちゃんと出さなかったの理由を想像しています。
良い悪いの問題では無く、日本は家族を中心とした戸籍、朝鮮では男系中心の族譜が大事 という事なのでしょう。
なお、日本統治時代に「創氏改名」(1940年)の「創氏」で、ファミリーネームを持たせ、日本の様な戸籍制度を導入しましたが、結局無くしてしまったという事は、朝鮮社会には合わなかったのだと思います。
従って、韓国の「夫婦別姓」は文化に根ざしたものであり、表面的な部分だけ見て韓国の方が進んでいるとか、人権意識が高いなどと考えるのは誤りです。
この本では族譜の売買についても説明されています。
まず、族譜の編纂事業が最も盛んだったのは17世紀の後半、粛宗朝(1674年9月22日 - 1720年7月13日)の頃の戦が無くなった安定した時代で、日本統治下の1930年代も族譜編纂ブームがあったそうです。
17世紀頃は族譜がない家門は自動的に常民に落とされ、常民は兵役の義務を負うなど不利益があるので、なんとか班列に加わろうと、官職を買ったり族譜を偽造しましたが、最も一般的な方法が、名家の族譜が編纂される時(およそ30~40年ごとに改纂)にその譜籍に加えて貰う事だそうです。両班に取っては稼ぎ時でもあるわけです。
「両班を売る」、「族譜を売る」というのはこういう事だそうです。
* * * *
著者の尹学準氏(1933年3月6日- 2003年1月12日)は両班〔※〕... ご当人は「インチキヤンパン」と仰ってますが... の出で、日本に密航して以来、長い間故郷に背を向けていましたが、望郷の思いも込めて『オンドル夜話』という朝鮮の両班を面白おかしく書いた本を出しました。これが知人に口コミで広がりコピーを回し読みされたりするようになり、是非韓国語でも... という話になった所、本に書かれた一門から抗議が来て大変だったそうです。
※【広辞苑】両班: (朝鮮語yangban)高麗・朝鮮王朝時代で、文官(東班)と武官(西班)との総称。のちに主として特権的な文官の身分と、それを輩出した支配層を指す。族譜に基づく同族意識が強く、儒教倫理の実践を重んじ、独特の生活様式と気風を生んだ。両班特権は1894年廃止。ヤンパン。
その騒動記も含めて新たに書いたのがこの『韓国両班騒動記』で、著者は記憶にある両班の風習を、知人に尋ねたり、調べたりしながら書いた形跡が認められます。それだけに、廃れゆく両班の風習を記録にとどめた貴重な本だと思います。
尤も、ブログ主、つまり日本人には実感が湧かない部分も多いのですが、それは現代韓国人にとっても同じ様で、韓国語版(양반 동네 소동기)のレビューには「難しい」を連発している読者もいました。両班の風習とは即ち儒教の風習なので、韓国社会にそれが根付いていると語るレビューもありました。
この本によると、両班は、まぁ、名家であるのは確かでしょうが、それは相対的なものであり、また、両班としての対面を保ち続けるのは大変な事の様です。
また、この本で両班はその一族で村(班村)を作り、従って村全体が同じ姓、そして姓がまちまちの常民は集まって民村を作っていたという事を知りました。今でも両班意識の強い地域があるというのも頷けます。
下記は現時点でのWikipediaの略歴です。ここには書かれていませんが、朝鮮総連にもいらした時期があったようで、第一副議長だった金炳植(キム・ビョンシク)の出自が実は両班では無い事を暴露した人が金炳植からいびられて組織にいられなくなり、北へ行ったという話も書いてありました。本来、プロレタリア階級の方が偉いはずの朝鮮総連でも如何に「両班指向」が強いかという面白いエピソードです。
1933年3月6日、朝鮮慶尚北道に生まれる。1953年4月28日、日本への密航を試みるが[2]、巡視艇により発見され唐津[要曖昧さ回避]の警備救難署に留置される。しかし、警備救難署の留置所から脱走し[3]、岡山、京都などを転々とする。その後、1955年に明治大学第二部法学部に入学するが、プロレタリア文学を研究したいと思い、法政大学第二部文学部の3年次に編入学する。大学では小田切秀雄に師事し、1958年に法政大学を卒業する。卒業後、雑誌『鶏林』の編集に携わり、朝鮮商工新聞社に入社する。3年ほどで新聞社を辞めさせられ、法政大学、都立大学、早稲田大学などで非常勤講師として務め、文学書の翻訳などに携わり、『朝鮮文学』『季刊三千里』『朝鮮研究』などの諸雑誌に関わる。1976年に東京入国管理局に自首をし、収監され、保釈金により釈放される。その後、罰金3万円を支払い、特別在留資格が許可される。2000年に法政大学国際文化学部の教授に就任する。2003年1月12日に死去、69歳。
次回のエントリーに続きます。
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