李承晩の1918年の住民登録カード(Registration Card)
韓国では併合期に韓国人の国籍が日本だったかどうかで未だ喧(かまびす)しいのですが、李承晩は1918年にアメリカで住民登録カード(正しくは「第一次世界大戦徴集カード」との事)の国籍欄に「Japan」と記入しています。
韓国人は「李承晩は『無国籍』を貫いた(キリッ」と言うのですが、アメリカでは日本人(コリア系日本人)と見なされていただけの話でしょう。
李承晩が自分で記入した住民登録カードが見つかったのは2013年です。
韓国人は衝撃を受けたようですが、それは前述の李承晩の定説と相反するからです。
李承晩にとっては日本国籍と書くのは不本意だったかもしれませんが、アメリカの当局は事務的に処理しただけでしょう。
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https://www.headlinejeju.co.kr/news/articleView.html?idxno=191188
ヘッドライン済州(헤드라인제주)
이승만 美체류시절 자필 국적표기 충격..."내 국적은 일본"
李承晩、米国滞在中に自筆の国籍表記に衝撃···「私の国籍は日本」
2013.10.05
初代大統領の李承晩(イ·スンマン)が米国滞在時代に国籍を日本と表記した文書が公開され、関心を集めている。
米国国家記録院と古文書保管サイト「エンシストリードットコム」(Ancestry.com)が公開した資料によると、1918年、李承晩元大統領の徴集書類に国籍が日本になっている。 このカードは李承晩(イ·スンマン)元大統領が直接筆記体で作成したもので、当時44歳だった彼は旧暦の誕生日(3月26日)とともに職業は「韓国学校校長」(Korean School Principal)、住所は「ハワイ」となっている。 今回発見された古文書の中には、1933年に李元大統領のニューヨーク入港記録をはじめ、連邦文書60件が発見された。 写真は李承晩の「第一次世界大戦徴集カード」。〔中略〕
これと関連してニューヨーク韓国日報は、この書類は「第1次世界大戦徴集カード(U.S. World War I Draft Registration Cards)」で、李承晩元大統領の「英語名」(Syngman Rhee)、「生年」(1875年)などと一致する連邦文書60件が発見されたと伝えた。〔後略〕
2018年と言えば、3.1独立運動も臨時政府もできる前です。少し前のエントリーで書いたとおり、1919年には独立の機運〔※〕が高まり、臨時政府が乱立しました。ソウル(漢城)には「漢城臨時政府」ができ、最終的には「上海臨時政府」と合併して李承晩が初代大統領となります。国号は「大韓民国」。李承晩はその後も漢城臨時政府の大統領と称していたそうですが、その1年前なので大韓民国はありません。強いて言えば「大韓帝国」なのですが、仮にそう書きたかったとしても、恐らくアメリカの当局はそれでは受け付けなかったでしょう。
李承晩は1897年、培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄され、1904年に特赦で釈放されるとすぐに渡米します。その時は大韓帝国です。韓国語のWikipediaによると、”1904年8月9日に釈放された李承晩は、その後、ミン・ヨンファン(閔泳煥)に会い、彼の密書を所持して米国大統領に会うために11月に渡米することにした。... 1904年11月4日、済物浦港〔※現 仁川港〕からアメリカに出国した。” とあります。
ということは、海外を転々としている間に国が無くなり、本人の意識では「無国籍」のつもりだったのでしょう。
ちなみに、「李承晩記念館(이승만기념관)」のサイトには「最後まで無国籍者の身分を維持した独立運動家」と題して以下の様な説明があります。
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李承晩は独立運動のために外国に出て、米国に帰るたびにいつも出入国に苦労した。 韓国が日本に強制併合され、李承晩も他の独立運動家のように無国籍者になったからだ。
1932年11月、上海臨時政府の金九主席は李承晩に全権大使としてジュネーブに行くことを懇願した。 李承晩は快楽して米国に行こうとしたが、再入国ビザが出なかった。 米国務省には、李承晩(イ·スンマン)を快く思わない官吏が多かったからだ。
李承晩は以前にもこのようなことでプリンストン大学の師匠だったウッドロウ·ウィルソンを訪ねたことがあった。 国務省の高官らが再入国の許可をしてくれないと言って取り持つことを頼むためだった。 ウィルソンはイ·スンマンに「簡単な方法がある」と言った。 米国市民権を申請せよということだった。 李承晩(イ·スンマン)は、「それは話にならない」と一言の下で断った。
李承晩(イ·スンマン)はウィルソン大統領が勧めても、米国国籍を最後まで得られなかった。
「大韓民国が独立すれば大韓民国の国民になるから」という言葉が彼の理由だった。
当時、徐載弼(ソ·ジェピル)、安昌浩(アン·チャンホ)、金九(キム·グ)、金性洙(キム·ソンス)ら独立運動家たちがみな米国籍、中国籍、ソ連国籍、日本国籍で暮らしていた時、李承晩はいつも無国籍者だった。 特に、共産、社会主義系列の独立運動家が中国籍、ソ連国籍を取得した点と大きく対比される。
李承晩の日記 中 - 1933年8月8日
「領事館に行くと、領事は食事に行っていなかった。 私は待っていた。領事が入ってくると、副領事と一緒に私のパスポートを見て、私が韓国人〔※한국인〕なのに日本のパスポートを拒否し、米国市民でもないのに米国のパスポートを発給された事実に非常に興味を持っているようだった。彼らは私のパスポートが多くの不便をもたらすので、外交ビザを発給してくれると言った…」(後略、英文略)
※原文は英語なので、Koreanと書いていると思われる。
フランチェスカ「大統領の健康」より
「米国務省はうんざりのあまり、私たちに米国市民権を発給してもらうように言った。 しかし、夫の答えは一様だった。 「朝鮮が独立しますので、お待ちください。その度に、私は夫の信念と、誰も犯すことのできない特有の威厳にいつも圧倒されていた。 この堂々とした無国籍者の夫と私がこれによって経験した苦難は、大韓民国建国の時まで続いた」
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李承晩に対してはアメリカは特別な配慮... 対日外交に利用できると思ったのかも知れませんが... アメリカのパスポートが発給されたようです。
ところで、李承晩の日記に気になる箇所があります。
「私がKoreanなのに日本のパスポートを拒否し... 」
つまり、日本に併合された韓国人は、本来は日本のパスポートを取るのが常識だと、少なくともアメリカではそう思われていたと本人も自覚していたのではないでしょうか。
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