150年前の江華島条約は「屈辱」、韓仏通商条約は「友好」
『国史TV』の金柄憲氏が下記の様なタイトルで動画をupしていらっしゃいました。韓国の歴史教科書の歪曲を批判する内容のようで、ここではその内容について語るわけではありません。
注目したいのは「屈辱」という言葉です。
動画タイトルの講和条約とは日朝修好条規、一般的には江華島条約と呼ばれている、長い間鎖国をしていた朝鮮を初めて開港させた条約です。
1875年(明治8),朝鮮の開国を要求して示威中の日本の軍艦雲揚号が,江華島砲台と交戦し〔=江華島事件〕,一時占領した事件。この結果,翌76年,釜山ほか二港の開港などを内容とする江華条約が締結された。〔『大辞林』より〕
日本との条約を皮切りにアメリカやイギリス、フランス等とも修好条約を結びますが、江華島事件同様、都度、一悶着がありました。まずは簡単に時系列を追いたいと思います。
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【背景】 当時の権力者、大院君〔高宗の父〕は『衛正斥邪』(えいせいせきじゃ)の思想で鎖国政策をとっていた。正学(朱子学)を守り、邪学(仏教や天主教など)を排斥するという内容であったが、1860年に宗主国の清がアロー号戦争で英仏に敗れて不平等条約の締結を余儀なくされ、仲裁したロシアに沿海州を奪われたことで、李氏朝鮮はロシアと国境を接する状態となった。これにより陸海からの欧米列強の侵略に直面して、欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持しようとする思想へと変化した。1866年からは『丙寅迫害』(へいいんはくがい)と呼ぶ大規模な天主教弾圧を始める。
1866年~ 『丙寅迫害』(へいいんはくがい):大規模な天主教(キリスト教)弾圧
- 約8000名の殉教者。9名のフランス人宣教師も含まれていた事から、難を逃れたリデル神父が天津に向かい信徒の救出を要請。→ 朝鮮侵攻の口実となる。
1866年7月 【米】シャーマン号事件
- 朝鮮の平壌附近で朝鮮の兵士や民衆が交易を求めたアメリカの船を攻撃した事件。→ 『辛未洋擾』(1871年)の原因
- アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江を遡って朝鮮側の停止命令を無視。平壌附近の羊角島に停泊し、朝鮮に対し通商を求めるも朝鮮側の地方官が通商を拒否。両者の間で激しい衝突が起こり、最後は朝鮮の兵士や民衆がジェネラル・シャーマン号に火を放って攻撃を行い、全船員が死亡する。
1866年10月 【仏】丙寅洋擾 (へいいんようじょう)
- 大院君政権の下で大規模なキリスト教弾をきっかけに起きたフランスとの闘い
- フランス極東艦隊のローズ司令官は当初は艦隊3隻で漢江河口付近の測量のみを行い、海域を把握。10月に7隻の軍艦で漢江の河口近くの江華島事件を1日で占領。しかし、朝鮮を見くびっていてわずかな陸上兵力しか帯同していなかった為に多数の死亡者を出す。これにより朝鮮の開港は諦めるが、『朝鮮王朝儀軌』など貴重な品を奪っていく。→ 後に文化財返還で揉める。
1871年(明治4年) 【米】辛未洋擾(しんみようじょう)
- 米側はシャーマン号事件の賠償と開港を請求。朝鮮が応じなかった為軍艦を派遣した事による衝突。
- アジア艦隊のロジャース司令官は軍艦5隻と1230名の兵力で江華島に海兵隊を上陸させ、江華島の草芝鎮、徳津鎮、広域堡を瞬く間に占領。この闘いの戦死者は米軍3名だったのに対し、朝鮮軍は350名程。しかし朝鮮側が降伏しなかった為、米軍は撤退。
→ 斥和碑:全土に建てられた鎖国政策維持の固い意志を示した石碑。
1882年(明治15年)5月22日 米朝修好通商条約
1883年(明治16年) 英朝条約
1884年(明治17年) 露朝修好通商条約
1885年(明治18年) 巨文島事件(ポート・ハミルトン事件)
- 1885年4月15日から1887年2月27日までのあいだ、イギリス海軍によって占拠された事件。
- 英国に巨文島が占領されるも朝鮮がそれを知ったのは40日後。朝鮮の外交権は清が握っていたため英国は駐英清国大使にしか通知しなかったからである。
1886年(明治19年)5月 韓仏通商条約(朝佛修好通商條約)〔リンク先韓国語〕
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面白いのは、フランスとの通商条約は「韓仏友好の祭り」などとして祝い、日本との江華島条約は「屈辱だ!」と恨んでいる事です。
https://japanese.korea.net/NewsFocus/Culture/view?articleId=134305
韓・仏130年友情の祭り
2016.03.24
韓国とフランスの130年間にわたる友情をより深めるための「韓国内フランスの年」が23日に開幕した。 〔後略〕
日本と朝鮮との間で結ばれた江華島条約は、確かに不平等な条約です。日本も、江戸時代末には西洋列強と数々の不平等条約を余儀なくされました。これは屈辱的な事でした。例えば、「治外法権」は、日本国内の外国人に日本の法律を適用できないという事ですが、当時の日本は近代的な法律や司法制度がなかったためです。
そして、日本は何をしたか?
スフィンクスに登った武士の写真をご覧になった事がありますか? 1864年に江戸幕府が送った遣欧使節団です。彼らは条約の一部改正のために、江戸幕府から派遣されました。(但し、交渉は失敗に終わる。)
日本は、屈辱を推進力に近代化を進めました。だから、歴史的事実としては「不平等条約」と学びますが、現代の日本人が、当時の欧米各国を恨む事はありません。
実際、2018年には、フランスとの国交樹立160周年を記念して、フランス政府から日本の自衛隊が招待され、彼らは旭日旗を掲げてパリをパレードしました。
日本が韓国と日朝修好条規を結んだ時は、韓国側の代表者は関税の意味すら知りませんでした。不平等条約も無知なる故の事。
そもそも、「屈辱」なんてものは感情の問題で、事実は「不平等条約だが、当時の朝鮮の文明度ではしかたがなかった」事です。この事実だけ認識して、歴史に現在の価値観や感情を持ち出す事がおかしいと気づくべき。
韓国では日本以外との交流はマイルドに教え、日本に対してだけは ”悪辣な日本人” を強調して教えます。
つまり、冒頭にご紹介したような動画で江華島条約を再考しなくてはならないという事は、江華島条約をどう教えるかだけの問題ではなく、根底にあるレイシズムが問題であり、歴史教育のバランスの悪さが問題です。
韓国の歴史教育では世界史をそれ程重要視しません。
宗主国だった中国の近現代史くらいはまともに教えれば、如何に東アジアが西欧列強による驚異に晒されていた事は分かると思うのですが、彼らの中では日本だけが一方的な ”悪” なのです。
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