朝鮮半島の前方後円墳「新徳古墳群」
朝鮮半島、特に嘗て百済や任那(加羅、伽耶)があった南部に存在する前方後円墳が、韓国人にとって不都合なものだという話はもう食傷気味ですが、たまたま「X」のタイムラインで見かけたので、記録としてエントリーしておきます。
記事は『韓国日報』の裵基東(배기동/ペ・ギトン)元国立中央博物館長・漢陽(ハンヤン)大学名誉教授の『「日本式墓」新徳古墳··· 亡命した倭人貴族? 馬韓牽制のための倭人?』というコラムです。話題にしている5世紀末頃の咸平新徳古墳群は1984年に発見され、多くの副葬品が発見されたにも関わらず、”倭色” が濃すぎて閉じてしまい、1991年に再調査しようとしたら盗掘に遭っていたという曰く付きの古墳です。
結局、それから40年以上経っても、こんなコラムが書かれるのは、任那日本府の存在を否定する韓国では、未だに被葬者が倭人(日本人)である事を恐れているのです。
下は2021年の記事。
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/41289.html
ハンギョレ:全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?
2021-10-05 08:24 修正:2021-10-09 13:01
>新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界で倭系だと同意できるような遺物が続々と明らかになると、4~6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し、朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという懸念もあった。
>そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては論争になっている。数が少なく、期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。
コウヤマキは日本産ですが、何か?w
韓国人学者の、「結論ありき」、そして「その結論を揺るがすかもしれない研究はしない」という、”知的に不誠実” な態度を見れば、慰安婦問題など解決しないと言うことがよく分かるでしょう。
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https://m.hankookilbo.com/News/Read/A2024071110360002868
'일본식 무덤' 신덕 고분… 망명한 왜인 귀족? 마한 견제 위한 왜인? [배기동의 고고학 기행]
「日本式墓」新徳古墳··· 亡命した倭人貴族? 馬韓牽制のための倭人?[ペ・ギトンの考古学紀行]
2024.07.15.
韓国に古代日本式の墓があるって? 新徳古墳(全羅南道咸平郡月野面礼徳里)は韓半島湖南地域でのみ発見されるいわゆる「長鼓墳」だ。 片方は四角で、もう片方は円形になった墳丘がくびれた腰で連結され、韓国の伝統楽器「ジャンゴ」のような形をしていることから付けられた名前だ。 このような古墳は古代日本でよく発見される前方後円墳である。 この長い古墳が韓半島で発見された後、墓の主人公について様々な学説が飛び交っている。 韓国の学界では、過去の植民史観の亡霊に触れようかと「熱い問題」のように考え、日本の学者たちも極めて慎重に扱った。 いったいこの墓の主人公は日本、当時の馬韓、そして百済とどのような縁を持った人だったのだろうか?〔中略〕
地域の人々が呼ぶ「長鼓形」という用語や日本の学界で長い間使われてきた「前方後円」という名称は、いずれも腰がくびれた形を描写するものだが、最近の韓国の学界では「前方後円」という用語をそのまま使う学者が多い。西洋では「鍵穴型(Key hole shaped)古墳」とも呼ばれる。 九州と関西地方を中心に超大型王陵である仁徳陵(にんとくりょう)をはじめ、約2500基が発見された。 3世紀から仏教が伝来する6世紀末にかけて流行した古墳である。〔中略〕
墓室は後ろの部分が広く、平面で見れば台形だ。 また、壁体は上に登りながら狭めて積み上げ、天井は大きな石2つを覆って仕上げた。 内部に設置された冠台(棺台·冠を載せていた平床)は長さ252㎝、幅90㎝内外だ。 西側の壁にある入口は石でドア枠を作り、大きな石で入口を塞いでおいたが、外に広がるように通路の壁を積み上げた。 このような構造がまさに栄山江式石室墳である。 日本の北九州地方の掘式石室墓の影響を受け、栄山江一帯で現地化されたものと見ている。〔中略〕
古墳の構造や様式だけでなく、埴輪(埴輪·円筒形土器)と類似した土器、刀、鎧など高級倭系(倭界)遺物が相当数見られ、倭と関連した人物であることは明らかだ。 だが、「なぜここに?」という質問には答えをためらってしまう。 この古墳が5世紀末~6世紀初めに該当する点を土台に「当時、倭の大和政権が変動する過程で百済地域に亡命した貴族」と見ることもある。 また、この時期の熊津百済が当時、確実に制圧できなかった馬韓地域の勢力を牽制するために配置した倭系の人々だという主張もある。 これとは逆に、馬韓系の土着首長が九州地域の倭勢力と連携して造成したという説明もある。
被葬者が「百済系倭人」という主張は、今日の日本地域に百済系文化の痕跡が多くあるという点で一理あるだろう。 交易であれ軍事目的であれ、地域政治集団の意図的な受け入れの下で一定の役割を担当した倭から移住した住民である可能性が高い。 いずれにせよ、両地域が活発に文化交流を行ったことを示している。〔中略〕
※百済が倭の属国だったことは頑なに認めたくない。更に、これ以降を読むと、韓国人の歴史観は、「百済人が日本に高度な文明をもたらし」、「百済系倭人(渡来人)となった」という事が分かる。しかしこれだと、なんで日本人が663年、白村江くんだりまで行って百済と共に唐・新羅軍と戦ったのか説明がつかない。
日帝強占期の1938年に考古学者有光教一(1907~2011)が羅州新村里6号墳と徳山里2号墳が前方後円墳である可能性に言及したことがある。 それ以前に谷井濟誠一(1880~1959)もこの地域の古墳が「倭人の墓」である可能性を提起した。 このような見解が「任那日本府説」を暗示しただろうが、これ以上進展がなかったのは、年代が不明な当時としては、文化の一般的な流れが韓半島から日本列島に向かうという点で、後日提起された金錫亨(キム·ソクヒョン、1915~1996)の日本島内の「三韓分国説」のような逆説的な結果を恐れたかもしれない。
※「三韓分国説」:北朝鮮の歴史学者金錫亨が1960年代に発表した「三韓三国の日本列島内の分国について」という論文で提起した学説の通称。強烈な民族意識に支えられた朝鮮民族中心の歴史観。1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、それまで主に日本国内で無批判に受け入れられていた「任那日本府」を否認するために主張されたもので、三韓三国の分国が日本列島内に存在し、『日本書紀』に登場する三韓三国は朝鮮半島内の本国を指すのではなく、日本列島内のそれぞれ分国を指すものとし、大和朝廷の影響が朝鮮半島に及んだことを否認している。〔Wikipediaより〕
そんな荒唐無稽な説、恐れる訳ないだろw
その後、1980年代に海南方山里の長古峰古墳を皮切りに色々な地点で前方後円墳が確認され、90年代以後に新徳古墳を筆頭に本格的に調査が行われた。 多様な形式を備えた韓国古代の古墳が数百~数千基に達するが、このうち前方後円墳の数は少ない。 また、古墳の中に百済や伽耶系遺物が多く含まれているという事実などから、日本の学者たちの虚しい欲望を全く立証しない。 反面、旧石器時代以降、特に日本ですこの時代以降、日本の島に「渡来人」による韓半島起源の考古学遺跡と遺物は数えきれないほど見える。 もちろん、韓半島の南側地域は日本文化の影響が見られることもある。
文化は互いに影響を与え合い、また新しい姿に進化するのが一般的な現象だ。 にもかかわらず、これまでの発見と調査過程で見たように、過去の不純な歴史歪曲の傷痕が現代の脱植民地時代にも私たちを不快にさせた。 湖南地域の倭系前方後円墳現象とその解釈が、今日の韓半島-日本列島間の古代文化交流に対する見解を正しく確立できるようにすることを期待する気持ちだ。
※不純な歴史歪曲はどっちだ!w
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