終戦間際に佐渡から脱走したある朝鮮人の記録
一般的には佐渡金山と呼びますが、戦時中は銅などを採掘していたので、当時の話をする場合は「鉱山」と呼ぶ方が適切かと思われます。
韓国の「日帝強制動員被害者支援財団」(일제강제동원피해자지원재단)のサイトに2019年に作成した佐渡金山に関する報告書があります。
『일본지역 탄광광산 조선인 강제동원 실태 -미쓰비시(三菱) 광업(주) 사도(佐渡)광산을 중심으로-』
日本地域炭鉱鉱山における朝鮮人強制動員の実態 -三菱鉱業(株)佐渡鉱山を中心に-。
URL:https://www.fomo.or.kr/kor/article/ATCL542051617/68
報告書(PDF)は画面下方の「일본지역 탄광광산 조선인 강제동원 실태-미쓰비시 광업(주)사도광산을 중심으로.pdf」と書かれた部分をクリックすると開きますが、このp.111に佐渡を脱出して川崎にいらした朴順伊(パク・スニ)さんという方が提供した写真があります。
機械翻訳ではパク・イスンさんとなっていますが、パク・スニさんの誤りかと思います。
こちらは李宇衍(イ・ウヨン)博士のFBから、同一人物の別の写真。
後述しますが、パク・スニさん提供の集合写真に「昭和16年」というメモがあるので、1941年以前に佐渡にいらしていたようで、所謂「募集工」です。
ここで戦時動員の経緯を整理しておきます。
1938年4月に国家総動員法が成立し、1939年7月には内地で国民徴用令が施行されますが、朝鮮では施行されませんでした。しかし、同時期に、内地で不足する労働力を補う為に「朝鮮人内地移送計画」が立てられ、これに基づいて、
- 募集(1939年9月~)
- 官斡旋(1942年2月~)
- 徴用(1944年9月~朝鮮と内地間の連絡船が途絶える1945年3月迄)
の3種類の形式で朝鮮人を動員しますが、現在の韓国ではこの全期間を「強制動員」(或いは強制徴用)と呼んでいます。
パク・スニさんの証言によると、夫とは少し遅れて他の妻達と一緒に佐渡にいらしたようです。
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/newmain/main010.html
>朴順伊さんは、佐渡の鉱山に徴用された夫から、呼ばれて佐渡に行きました。逃亡をなくすため、妻帯者は、妻を呼び寄せさせたのです。そこで、飯炊きの仕事に就きましたが、敗戦間際には、日本の監視もみるみる手薄になり、みんなが逃亡しました。敗戦の数日前に佐渡を出て、川崎にきて、夫は、独立運動、民族運動に邁進し、順伊さんは、家族を支えるために必死に働きました。
終戦間際迄佐渡に居続けたとすると、最後は「徴用」の資格で働いていたと思われます。徴用扱いになると、各種保障が手厚くなります。呼び寄せられた妻達も飯場で働いた様なので、夫婦共働き。かなりの収入だった事が想像できます。
川崎に落ち着いたパク・スニさんご夫婦はスクラップ屋を営まれたようです。
http://www.halmoni-haraboji.net/exhibit/archives/sheet11/sheet11-doburoku.html
いつ頃の写真かは分かりませんが、1955~60年くらいかと想像します。
* * * *
ところで、パク・スニさん等が来た時の川崎の様子はどのような物だったかというと、昭和20年(1945年)4月15日に大空襲があり、駅から東部の京浜工業地帯まで焼け野原となり、被災者は10万人を超えました。
▲塔のような建物は川崎市役所
(川崎駅近くから京浜工業地帯方面を臨んだ風景だと思われる)
下記は別の在日コリアンの方の証言です。
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/200608kikigaki/hist007.html
九州に徴用された夫について来日
〔前略〕
〈終戦直後の川崎で〉
うちも朝鮮へ帰ろうと思ったけど、切符がなかなか取れなかった。その時はヤミでしか手に入れられなかったから。川崎の駅のキング通りは終戦直後は、みんな焼け野原で店は一軒しかなかった。土地は誰のものでもなくて、みんな勝手に自分の土地にした。うちは韓国に帰るつもりだったから、そういうことはしなかった。向こうのみんなが日本に帰ってきたから、自分たちも帰るのをやめた。今ある川崎駅近くの店は、一軒残っていた呉服屋以外、みんな戦後勝手に振り分けた土地の所有者が代々継いできた店。
駅前が誰の土地でも無かったとは思えませんが... w
興味深いのは、「向こうのみんなが日本に帰ってきたから」という部分で、一度帰鮮した朝鮮人が戻ってきたようです。当時の記録を見ると、釜山まで戻る際に船長が別の場所に船を着け、乗客だけを降ろして逃げてしまったり、釜山に着いたはいいものの、帰る場所が無くて釜山で足止めされた朝鮮人が多かったようです。
『일본 탈출기』(日本脱出記)という本を紹介した『百年歴史』さんのブログによると、釜山から電車に乗ろうとしても、切符は売っておらず、辺りは糞尿にあふれ、カオスだったそうです。
https://m.blog.naver.com/PostView.naver?blogId=kantertube&logNo=223321712663&referrerCode=0&searchKeyword=%EB%B6%80%EC%82%B0
>釜山の中心街のあちこちに武装した日本軍が整列して厳重な警備をし、交番には日本人の巡査がしっかりと構えて座っている。 街を行き来する人の顔の姿から、祖国解放の感激や喜悦のようなものをまったく感じることができない。 たとえ日本軍が治安を担当している状況だとしても、このように無表情、無関心なのだろうか? 怪しまずにはいられなかった。
>釜山駅広場の片隅は全て人の排泄物で覆われ、便所ごとに足を踏み入れる所がない。 小便器や便所の床と周りを問わず、一様に排泄物の山だ。 解放されてわずか6日の間にこんなにも急変したというのか? 排泄物の主人公は誰か? 私たち朝鮮人だ。
>釜山駅には朝鮮人職員数人が右往左往する中で秩序も何もありえない、文字通りめちゃくちゃだった。 切符や検札もない無賃乗車だが、車の時刻表もなしに不規則に列車を運行して数時間で列車が入ると、互いに押し合って押し合って修羅場を開き、老弱者は最初から乗車をあきらめなければならなかった。 もし一人が倒れたりしたら、次々と倒れたり踏んだりして、大型圧死事故が起きるに違いなかった。 (中略)
…なんとか列車に乗り込んだ。 列車の中は人でいっぱいで爆発しそうで、針一本刺す隙もなかった。 騒ぎ立てる中、汗だくになって…(中略)
... ここ大田駅も釜山駅と違いがなかった。 排泄物展示場であり、チケットや検札がないのも同じだった。(以下省略)
また、1947年(昭和22年)6月23日には、川崎の朝鮮人集落で密造酒を作っているのを摘発しようとして、税務署員が殺された事件もありました。川崎区の南税務署の駐車場には慰霊碑が建っています。〔神奈川税務署員殉職事件〕
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