元駐日韓国外交官(一等書記官)が語る日本統治時代の朝鮮の貨幣改革
日本駐在時代にうどんの魅力を知り、外交官の職を辞してうどん屋になった申尚穆(シン・サンモク)氏がFacebookで朝鮮の貨幣改革について語っているのを韓国人の方に教えて頂きました。
申氏には『韓国の外交官が語る 世界が見習うべき日本史 今こそ大事な江戸時代の真の姿』という著書もあります。 〔→この本に関するブログエントリー〕
かなり長いのですが、当時の朝鮮の経済がどのようなものであったか、詳しく説明されているので機械翻訳でご紹介します。
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※機械翻訳による誤字は極力修正しましたが、多少日本語として不自然でも意味が分かれば機械翻訳ママ。緑字はブログ主の補足。
신상목〔※申尚穆〕
2017年5月6日
日本近代化の原点または基点になる時期を挙げるとすれば、ほとんどの人が1868年の明治維新を挙げるだろう。
では、韓国近代化の原点または起点となる時期はいつだろうか?
1894年、甲午改革? 1897年大韓帝国宣言?
私は個人的に韓半島近代化の原点を1904~1912年までの時期と見る。 親日派とか殺す奴だと非難されるだろうが、韓半島に居住する人民の暮らしの様式に根本的な影響を及ぼし、その影響が今日まで続く分岐点としての変化と改革はその時期に集中的に行われた。 行政、経済、民生分野で法令が制定され、制度が導入された。 そのような法令と制度には、在来の観念と既得権を断絶し、西欧をモデルとする西欧化の原理が内包されている。 併合以後はそのような変化と改革の着根、滞貨〔※定着とか、その後はその路線に乗っただけ、くらいの意味でしょう〕の時期だ。
国家の独立という観点から見れば、痛恨の時期だ。 外交権も奪われ、軍隊も解散し、すべての国のことは日本の指示と監視の下で行われる受動的、他立的近代化だった。 しかし、自主的近代化でなくても、変化は変化であり、改革は改革だ。
1904年の日露戦争をきっかけに韓半島での優越的地位を認められた日本が一番最初にしたのは... 貨幣改革だった。
日本自らも明治維新を前後して最も頭を悩ませた改革だ。 貨幣の流通と保存にはあまりにも複雑な利害関係の絡みが反映されている。 これまで使われていた粗雑な通貨を整理し、発券力を独占する中央集権的貨幣改革は難題の中の難題だった。 日本はおよそ4年ほどかけてこの作業を進める。 その渦中に金本位制をするか、銀本位制をするか、それとも折衷型金本位制にするかさえ決められず漂流する時期もあり、造幣局施設の火災で新貨幣を用意できず計画が無期限保留される紆余曲折もあった。 貨幣改革は既得権との戦いでもある。 旧貨幣所有者が新貨幣に対してどのようなクレームを認められるかということは、それ自体で政治的駆け引きの意味もある。 しかし、貨幣改革は近代化の第一歩である。 それができなければ何もできない。 それを土台に貨幣流通が安定化すれば、初めてそれに伴って徴税制度を整備して税収を確保し、その財源を体系的に国家行政に使う国庫制度が運用されることができる。
日本が朝鮮に入って帳簿を開いてみると、(その前から見当はついていたが)これは国ではなかった。 どのように税金を徴収し、どのように使うのか、国庫の体系的な管理に対する概念が全くない国だった。 王室の內帑金〔※ないどきん:君主が手もとに所持する金〕は国のお金、王のお金の区別なくポケットマネー、サムジドン〔※小遣い銭〕で運用されていたし、実は国家の税収というものもあまりなくて官職を売ってお金を集め、官吏たちはお金を払って買った官職で自分が自ら民にお金を奪って片付けていた。 この話はこのまま続けると頭にくるからここで止めることにする...
※サムジドン〔쌈지돈〕:煙草を入れる革袋〔쌈지〕+金〔돈〕で、煙草銭=小遣い銭
国庫移転にさらに大きな問題は貨幣流通事情そのものだった。 「白銅貨」という悪銭が大量流通し、貨幣交換経済そのものが揺れていたのだ。
「開港以後、慢性的な財政赤字に苦しめられた閔氏政権がこれを打開しようとする収益事業の一つとして白銅貨を鋳造し流通させた。 1894年の甲午改革当時、租税金納化の措置として新式貨幣發行章程による銀本位制が、1901年には貨幣条例による金本位制が実施され、この貨幣は補助貨幣として使われた。 しかし政府の財政窮乏で本位貨幣がほとんど鋳造されないうえに、これを後押しする金融機関・徴税機構などが発達できず貨幣制度は非常に不安定だった。 特に政府が収益だけのために白銅貨を乱発したために途方もない量の不法·不良白銅貨が流通し、価値下落はもちろん深刻なインフレを起こす原因になった。
鋳造方式には、政府に鋳造額の3分の1から2分の1を出すことにし、公然と鋳造特権を得て鋳造する「特鑄(鋳)」、王室から上納銭を受け取り、「啓」の文字が書かれた特許状を与え、鋳造を黙認する「默鋳」、内外の人が原料と機械を購入し、典圜局〔※てんかんきょく、전환국=造幣局〕で使用する白銅貨の板型を密かに入手して偽造貨幣を作る社主(私鋳)などがあった。 この他にも清国・日本・ドイツ・英国人など外国人が偽造した貨幣を国内に密輸入して使用し、ソウルと平壌の場合、偽造貨幣量が全通貨量の各々20~30%、80%を占めるほど偽造貨幣問題は深刻だった。
そのため、白銅貨の価値が急速に下落し、民は白銅貨の所有を憚り、王室と官庁でさえ上納金を主に日本貨幣として受け入れ、韓国の貨幣制度は事実上日本の貨幣制度に従属していった。 このように白銅貨は国内貨幣の流通秩序を乱し物価上昇とそれにともなう民衆生活の窮乏をもたらしたが、政府は白銅貨の発行が王室と国家の財政収入に大きな役割を占めたため、1904年に転換国が廃止されるまで簡単に貨幣制度を改革しなかったのだ。」 (出典:doopedia)
政府は言葉だけで銀本位制だとか金本位制だとか騒ぎ、何の支払準備資産もないため、本源貨幣は作ることもできず、補助貨幣だけを相次いで流通させる。 それも政府が発行する能力がないため、業者に上納金を受け取って、自分で流通しろと言っておきながら、低質貨幣が幅を利かせているのに何の対応もできない。 それなのに税金を白銅貨で払えば、良質のものだけを受け取り、低質貨幣は自分たちも受け取らない。 これは政府ではない。 このような政府に統治の正当性を認めなければならない理由が私には分からない。
1905年、財政顧問として赴任した目賀田種太郎〔※めがた たねたろう〕は貨幣から整理しなければ何もできないという結論を下し、「貨幣整理事業」を電撃的に行う。
従来の白銅貨と葉銭を整理して第一銀行が発行する新しい貨幣に交換して使うようにしたが、白銅貨を甲·乙·丙の3種に分けて甲種は本来の値である2銭5里で、乙種は1銭に交換し、丙種は交換なしに廃棄したのだ。
007作戦を彷彿とさせる電撃的な施行だった。 突然の貨幣改革に既存貨幣所持者たちは当惑し、大きな損害を被る人もいた。
市中に流通している白銅貨の大多数が、銅貨の流量が非常に低い低質鋳貨、悪貨だった。
それを政府が額面価値が反映された新貨幣にそのまま交換することはできない。 そのような費用をどこで賄うのか?
すでに朝鮮社会自らが内在していた膿んだ問題に日本人がメスを入れたのだ。
それで貨幣整理事業は日本人が刀を使ったという理由で民族資本が崩壊し朝鮮経済を日本に隷属させ、日帝の経済侵奪の道を開くための日本の手練手管であり策略だと韓国では歴史的に整理された。
国債補償運動が展開された1907年時点で、日本の統監府は当時、既得権勢力にあまり人気がなかった。
それもそのはず、デノミネーション(通貨呼称単位の変更)で財産が失われる痛みを経験した人は、持っていない人たちであっても、そんなに多くの損害を被っただろうか。
それで合邦を前後して日本が支持勢力を得るのに苦労した。
既得権を背負おうとしたなら、そのような果敢な措置を取るより、優しくなだめて食べただろう。
一つ付け加える点は、おそらく、目賀田が日本国内に対してもそのような措置を取るように言っていたらできなかっただろう。
その程度の電撃的な貨幣整理は革命の結果として可能なことだからだ。
既得権が自分の財産がなくなることを、何の問題もなく目を開けて見ているだけではなかっただろう。
しかし、このような仮定が意味がないのが、日本の江戸時代の貨幣経済は朝鮮ほど脆弱ではなかった。
幕府が財政補充を目的にやっつけ貨幣〔※날림 화폐:粗製乱造の貨幣の意味か?〕を発行しながら自ら堕落の道を歩んだが、それを相殺しても残るほどの民間経済があり、徴税権を独自に行使する各藩によっては中央よりさらに強固な財政を維持していた。
日本はその土台の上に貨幣の近代化をしたため、漸進的な履行が可能であり、朝鮮は選択もない状況で貨幣の近代化をしなければならなかったため、(それさえも日本人の手で)誰かの手に血を塗らなければ改革が不可能な状況だった。
貨幣整理事業で日本を罵るなら、それは自由だ。 しかし、その事業は誰がやってもやるべき事業だ。 そのような程度に貨幣経済を荒廃化させた朝鮮政府に対する適当な批判が伴わなければならず、何より近代化の基点としての意味程度は認めるべきだと思う。(その副作用で土着の商業資本、金融資本が崩壊し、その場を日本商人と資本が代替したと主張するが、その主張の根拠が皇城新聞の嘆き記事だ。 数字でできた統計一つない。 その時、朝鮮の土地に何のすごい商業資本があって金融資本があったのか? そのような民族経済抹殺効果より貨幣流通の安定化という近代経済体制の出発点という意味付けが必要だと思う。)
ちなみに、某学会HPに次のような統監府の改革についての解説が載っているのを見た。
「日本政府は当時、韓国の財政事務の極度の混乱状態、すなわち予算、会計制度の有名無実化、宮中·府中の混同により国有財産の不明、税制の不公正、貨幣制の乱れ、物価不安などを勘案し、日本政府は財政顧問を任命して会計法施行、国庫金取り扱い、租税徴収規定の発布、貨幣整理,資金借り入れ中央銀行の確立など各方面からの改革を通じて収奪政策を強行した。
1906年の関税官官制発表をはじめ、1907年7月の同官制の改正で京城、平壌、大邱、금주〔※金州?〕および元山などに財政監督局を設置し、各地に財務署を設置して監査局の監督の下に内国税務および地方財務を執行する機関とし、また末端面を徴税の補助機関とした。
そして同年に臨時帝室有及び国有財産調査局及び帝室財産整理局を設置し、翌年これを臨時財産整理局に改正し、1909年半ば頃には帝室有及び国有財産の代替的な帰属を明確にすることができたことは「近代志向的」改革で注目される。」
各方面の改革を通じて収奪政策を強行した、という最初の文章の述語と近代志向的な改革で注目される、という最後の文字の述語の不一致が韓国社会の歴史認識の矛盾を象徴しているようだ。
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これらは併合前の大韓帝国時代に起こった事です。この部分を日本人が日本史で習うとしたら、「韓国統監府は1904年に第1次日韓協約を締結すると財政顧問に目賀田種太郎を起用し、貨幣改革を行った。」云々で終わる話ですが、申氏がこれだけ言葉を尽くして説明しないと分からない程、韓国の国史授業では『貨幣改革』一つで恨みつらみを書き殴り、韓国人は当時の朝鮮(大韓帝国)の実情が分かっていないのだと思います。
ある意味、韓国人は歪んだ教育の被害者です。今回ご紹介した申尚穆氏の投稿に300以上の「イイネ」をしたフォロワーのように、真実の歴史を知りたいと思っている韓国人もいるのも事実なのですが、”鉄道の敷設は効率よく収奪する為” みたいな歪曲、特に目的や動機の捏造は、日本がやった事業全てに関して行われていると思ってください。
最近、『国史TV』の金柄憲(キム・ビョンホン)氏が講座形式の、「江華島条約は屈辱的な条約だったのか?」みたいなタイトルの動画をupされていました。江華島条約とは、日本で言えば黒船の来航で準備ができていないまま結んだ日米修好通商条約のようなものですが、韓国人の歴史観では、”日本の侵略” の始まりです。日本人は日米修好通商条約や安政五カ国条約が不平等条約だと学んでも、歴史上の事実として受け入れるだけで、アメリカやフランス、オランダ、etc. を今でも恨んでいる人がいたら頭がおかしいレベルですが、こういう動画を作ると言う事は、韓国人にとっては許しがたい屈辱であり、日本憎悪の原因の一つなわけです。
で、この歪曲が一つ一つ訂正されて行くのか... というと、ブログ主は懐疑的です。(韓国人は「日本より道徳的に優れている」という自負心がアイデンティティであり、これが崩れたらメンタルが崩壊するので、ブログ主個人的には、心理的に歴史認識の修正にブレーキをかける人が多いと思っている。)
私たち日本人は、韓国人はそういうものだと思わないとなりません。
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