【朴鍾仁記者コラム】巷間流布される閔妃と大院君の写真は偽物(1)閔妃の写真を検証する
以前、単なる強盗犯の処刑写真が抗日運動家として殉国烈士追悼塔に刻まれている事を検証した『朝鮮日報』の朴鍾仁(パク・ジョンイン)記者が、巷間、閔妃と大院君の写真として出回っているものは偽物だというコラムをお書きになりました。
上記記事でもご紹介した通り、朝鮮末期や大韓帝国時代、多くの外国人が写真を撮ったり購入したものが、いい加減なキャプションを付けられ、更には後世の韓国人学者がろくに検証しないままそれを使用する事が多々あるようです。
直接、歴史認識に関わるものではないのですが、その緻密な検証に敬意を表して、なるべく省略せずにご紹介したいと思います。
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※機械翻訳による誤字などは極力修正しますが、日本語としてやや不自然でも意味が分かれば機械翻訳ママ。
https://www.chosun.com/national/weekend/2024/05/11/MDYUY3QQUNC7THH7QMMWMEO2OE/
‘합성사진’ 속 여자가 왕비요, 마고자 차림 남자가 대원군이라는데…[박종인 기자의 ‘흔적’]
「合成写真」の中の女性が王妃で、マゴジャ姿の男性が大院君だというが···[朴鍾仁記者の『痕跡』]
2024.05.11.
※マゴジャ〔마고자〕:チョゴリの上に重かさねて着きる襟えりのない防寒用の上着
高宗妃の閔氏は問題的人物だ。 彼女を「明成皇后」と呼ぶと「民族的」と言い、「閔妃」と呼ぶと「親日的」と言う。 王妃の閔氏は尊敬され、憎悪の対象でもあった。 1882年に壬午軍乱〔※1〕を起こした往十里〔※地名〕の下級軍人たちは「一人だけを選んで処置し、残りの閔氏を皆殺す(區處一人盡殺諸閔)」と宣言した。(朴柱大「羅岩収録」3冊、162.宣恵清分謡)この「一人」が王妃の閔氏だ。
列強を利用して日本から逃れようとしたという肯定的な評価もある。 王妃は1895年、日本人に暗殺された〔※2〕。 今、彼女は反日民族主義を象徴する人物になった。 ミュージカル「明成皇后」(1995)で「私は朝鮮の国母だ!」と叫ぶ姿はこれをよく表している。
※1 壬午軍乱(1882):大院君による煽動で旧軍の不満兵士が起こした反乱。
※2 実行は日本人壮士(浪人)と朝鮮の訓練隊(近代的な軍隊を整備する為に日本が指導していた軍隊)の共同。特に訓練隊の禹範善は日本に亡命後、閔妃殺害の実行犯である事を話しており、刺客に暗殺される。
ところが、壬午軍という軍人たちがあんなことを言った場所は、興宣大院君が住む雲峴宮だ。 大院君は1873年、高宗が親政を宣言し、自宅に幽閉された状態だった〔※癸酉(きゆう)政変〕。 大院君に会った軍人たちがこのように付け加える。 「旦那様のことは全然心配しないでください。 新しい世界を作り、大監〔※だんげん/高位の官名〕とともに太平を享受できるだろう(大監勿慮勿慮 作:新世界の與後、大監共太平)」大院君は彼らを励まし、軍人は宮殿と漢城に住む閔氏を殺し、家に火をつけた。
※ここまでで、外戚として権力振るっていた閔氏一族および閔妃と高宗の父である大院君に確執があった事が分かる。
写真の真実を求めて
さあ、これから写真の話だ。 数年前まで、上記の<写真②>が王妃の閔氏の写真だとし、国史教科書に載っていた。 かんざしを挿した形式と服飾が王室の女性だという考証が出てきて、この写真はしばらく王妃のミン氏の写真に確定した。 しかし、王妃である可能性がないという主張が力を得て、この写真は教科書から削除された。 ところがまだ市中にはこの写真が「明成皇后写真」として流通している。 一度事実だからといって固まったら、破ることは容易ではない。 また、「写真⑤」が王妃閔妃であるという主張が提起されもした。
ところが、このような主張は激しい学界論争の末、王妃ではないという方向に結論が出て行方をくらました。 しかし、一般大衆の多くは依然としてこれらの写真を「明成皇后写真」として受け入れている。
最初の写真、合成写真が王妃の写真?
イタリアの外交官カルロ・ロゼッティ〔※〕が書いた「コレア·コレアニ」(1904)という本がある。 翻訳本も出ている。 この翻訳本272ページに<写真③>が載っている。 写真の説明は「宮中服色を備えた宮廷女人」だ。
※Carlo Rossetti:1902年11月から翌年5月まで約7カ月間韓国に滞在した第3代イタリア領事
ところが277ページには「妓生の衣服一着」という説明と共に<写真①>が載っている。 この<写真①>と<写真②>を合成すると王妃ミン氏の写真という<写真③>が出てくる。
<写真②>中のござの前にある足がぎこちなく宙に浮いている。 背景は右のカーテン、左の色とりどりの服、後ろの本棚も配置は<写真①>と同じだ。 「明成皇后写真なのに日本人が華麗な背景を消して女官のように見せた」と主張し、この写真を日本人の代表的な歪曲事例に挙げる人もいる。 無理強いだ。
1900年、朝鮮政府が代表団を派遣したパリ万国博覧会に駐韓フランス公使館が「ソウルの記念品(Souvenir de Seoul)」という小冊子を出品した。 ここに背景のない<写真②>が載っている。 タイトルは「宮廷の女(Dame du Palais)」だ。 モデルが王妃なら、高宗が「宮廷の女(女官)」という説明を許可したはずがない。
Wikisource:Souvenir de Séoul, Corée
1900年のパリ博覧会の冊子に掲載された「女官」の写真
この背景のない写真が「朝鮮の王妃」あるいは「女官」という交錯した説明と共に西欧メディアに載せられた。 朝鮮に対する関心が急増する時点で、朝鮮に関する記事を書きながら「商業的に流通していた写真」を記事の脈絡に合うように挿入したのだ。
※イ・テジン大先生が ”発見” した写真のようです。⤵
2枚目の写真、「シースルー」が王妃?
以後、<写真⑤>が若い頃の明成皇后写真という主張が出てきた。 「マゴジャを着た興宣大院君の写真」<写真④>と背景が同じなので、大院君と王妃の閔氏を同じ日に同じ場所で撮影したという主張だ。
1882年に軍乱を起こした軍人たちは「王妃を殺して大院君と太平を享受する」と主張した。 軍乱後、大院君は宮殿に入り、王妃の閔氏を亡くしたと公式発表し、権力を振るった。 そうするうちに2ヶ月も経たないうちに忠清道の荘湖院に隠れていた王妃が還宮し、大院君は清の軍事によって清に拉致された。 その後、大院君と王妃の閔氏は事あるごとに政敵として対立した。 そのような2人が同一空間で同時に記念写真を撮ったという主張は話にならない。
しかも、この女性の写真はスカートが「シースルー」だ。 スカートの中のズボンが見える。 当時、王室の写真は外交手段として使われたりした。 100%ソンボク(盛服)姿で撮影した。 格式のない服装は許されなかった。 したがって、王妃閔妃の写真として流通している写真は、すべて一般人をモデルに撮影した写真だ。 現存する王妃閔妃の写真は「ない」が正解だ。
一旦ここまで。次回に続きます。
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