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2024/04/14

【朝鮮日報】なぜ雑犯の処刑写真が殉国烈士追悼塔「義兵処刑像」にすり替わったのか?

以前のエントリー〔下記〕でもご紹介しましたが、大韓帝国(1897~1910年)に撮影された韓国人刑吏による処刑の写真が、”日帝による抗日義兵の処刑” と誤って流布されています。

 

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▲画像は戦前に出回った ”残酷絵葉書”(解像度が高いので拡大注意)

 

この写真をモチーフにしたレリーフが、西大門独立公園に建つ殉国先烈追念塔にも刻まれています。

 

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▲ソウルナビ『西大門独立公園』よりキャプチャ

 

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▲レリーフ(一部):『朝鮮日報』コラムよりキャプチャ

 

この西大門独立公園というのは旧西大門刑務所(現在は博物館)や上記の様な塔があって、日本人に対する憎悪を掻き立てる公園になっており、そこに「独立門」(清からの独立を祝って建てた門)があるので、日本からの独立を祝った門だと勘違いする韓国人が後を絶ちません。

西大門刑務所の脇には「慟哭のポプラ」という倒れたポプラの木が保存されており、これは ”日帝に処刑される独立運動家がこの木を抱いて慟哭した” などという尤もらしい説明が教科書にも書かれていますが、実はこの木は解放後に植えられたものでした。

 

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話をレリーフに戻すと、既に書いた様に、”抗日義兵の処刑” とされていますが、日本人による処刑ではありません。

但し、臨時韓国派遣隊が収集した写真が収録された『南韓暴徒大討伐写真帖』(明治43年/1910年)にこの写真が、捕らえられた義兵や名所旧跡などの写真と共に「罪人の絞首刑」というキャプションがついて掲載されており、抗日義兵の処刑と勘違いされる下地はありました。

また、こうした写真は土産物として売られており、これを購入した外国の記者により、誤って外国メディアで使われたりしました。臨時政府や海外で活動する独立運動家達の宣伝物としても使われていたようです。

 

今回、再びこの写真を取りあげるのは、ブログ主が度々ご紹介する『朝鮮日報』の記者で『売国奴高宗』などの著作がある朴鐘仁(パク・ジョンイン)氏が動画で解説されていたからで、更に朝鮮日報のコラムでも取りあげていたので、そのコラムを機械翻訳でご紹介するためです。

※この朴鐘仁氏のコラムは4月22日付 産経新聞の黒田勝弘記者のコラム『勇気ある歴史の検証』で紹介されました。

 

* * * *

※誤変換による漢字の間違いは極力訂正していますが、多少日本語として不自然でも文意が伝わる程度なら機械翻訳ママ。緑字はブログ主の補足。

https://www.chosun.com/national/weekend/2024/04/13/KLAT3S42RRABRAXH6H2CBOBOQU/
순국선열추념탑 ‘의병 처형상’ 속 의병, 진짜 의병인가 떼강도인가?[박종인 기자의 ‘흔적’]
殉国烈士追悼塔「義兵処刑像」の中の義兵、本当の義兵か強盗か?[パク·ジョンイン記者の『痕跡』]
2024.04.13. 

ずさんな検証が生んだ混沌…··· 西大門殉国烈士追悼塔

▲〔画像省略〕ソウル市峴底洞(ヒョンジョドン)の西大門独立公園にある殉国烈士追悼塔。 主要独立運動8つの場面が塔の裏の花崗岩に彫刻されている

ソウル西大門区峴底洞の西大門独立公園には「殉国烈士追悼塔」がある。 毎年殉国烈士の日である11月17日には塔の前で記念式が開かれる。 塔は1992年の光復節にソウル市が設置した。

裏面に設置された大型花崗岩には「独立闘争の歴史的活動像」を形象化したレリーフ8つが彫刻されている。 ところが、このレリーフの中の一つは疑わしい場面が彫刻されている。 庶民を苦しめた「雑犯処刑」の場面と似ている。 左から三番目の「独立軍義兵殉国烈士処刑像」は義兵ではなく大韓帝国時代「常習窃盗」と「集団強盗」を犯した「強力犯処刑場面」とほとんど同じだ。 つまり、塔が設置された1992年以来32年間、大韓民国市民は民衆を恐怖の中に追い込んだ雑犯たちを追慕し、その犯罪行為を称えてきた可能性が高い。 学界と政界が正確な史料検証なしに独立運動史を記録してきた誤った慣行のためだ。

 

殉国烈士記念塔

「殉国先烈」とは「国権被奪〔※併合/1910年から1945年8月14日まで独立運動をして殉国した人」を意味する(「独立有功者礼遇に関する法律」4条)。 殉国烈士記念日は1939年大韓民国臨時政府が乙巳條約締結日である11月17日を「殉国烈士共同記念日」と定めて以来、建国以後も記念してきた日だ。

1992年8月15日、ソウル市は彼らを称える殉国烈士追悼塔を除幕した。 高さ22.3メートルの塔には14度を意味する太極旗14個が彫刻されている。 裏面幅40メートルの花崗岩には、殉国烈士の活動像が浮き彫りになっている。 計8つの活動賞は「抗日義兵武装像」「李奉昌・尹奉吉烈士〔※1象徴像」「独立軍義兵殉国烈士処刑像」「柳寛順烈士運動像」「3·1独立万歳像」「安重根義士〔※2〕伊藤博文狙撃像」「殉国烈士義兵逮捕処刑像」「青山里戦闘像」だ。

※1、2 このコラムのコメント欄にどなたかが書いていたが、「義士」とは武器を持って戦った人、「烈士」とは単なる被害者とのこと。従って、尹奉吉(ユン・ボンギル)のような爆弾テロリストは本来「義士」とすべきだとの事。一方、獄中で拷問死した(という事になっている)柳寛順のような女性は「烈士」。

  

独立運動を象徴するレリーフ

一番左側には、義兵の活動像を撮影した唯一の写真である「楊平義兵写真」をモチーフに抗日義兵の武装像が彫られている。1907年9月、イギリスの「デイリーメール」記者のフレデリック・マッケンジー(Mckenzie)が撮影した写真だ。

 

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マッケンジーはその出会いをこう記録している。18歳から26歳くらい。6人の兵士のうち5人は銃の種類が違う。いずれも役に立たない銃だった。1人は旧朝鮮軍の火縄銃と火縄銃と火薬庫を持っていた。2人は朝鮮軍のライフル、1人はアメリカで祖父が10歳の孫にプレゼントするようなピストルを持っていた。錆びた中国製ピストルも見えた」(マッケンジー、「The Tragedy of Korea」、E.P. Dutton&Co., 1908, pp.200~201)彫刻には、写真に登場する13人の義兵のうち、印象的な人物7人を抽出して彫刻してある。大韓帝国軍服を着た指揮官と幼い少年兵まで、マッケンジーが見た義兵たちの姿が刻まれている。

▲〔画像省略〕マッケンジーが撮影した義兵の写真をモチーフに制作された「抗日義兵武将像」

李奉昌・尹奉吉義士象徴像と柳寛順烈士運動像、3.1独立万歳像、安重根義士伊藤博文狙撃像、殉国烈士義兵逮捕処刑像、青山里戦闘像まで、他の副像もその人物や事件を容易に連想させる場面で構成されている。問題は左から3番目、「独立軍義兵殉国先鋒処刑像」だ。この作品には「集団絞首刑に処せられた義兵たち」が彫られている

「独立軍義兵殉国烈士処刑像」には、韓服を着て集団絞首刑を受けた7人の人物が彫刻されている。丸太をぎこちなく縛った処刑台に、ロープで処刑された義兵たちが淡々と描かれている。このシーンもモチーフとなった写真が存在する。植民地時代の日本の土産物店が流通させた写真の一つである。この写真には追悼塔の浮き彫りの処刑台に似た処刑台に韓服を着た男たちが吊るされている。全部で12人で、髷を結った男も見える。追念塔には、1. 写真左端の4人のうち3人と、2. 右側の8人のうち、左端の坊主頭の人物と上着を着て背中を見せた人物、胸を見せた人物を順番を変えて彫刻し、3. 柱の後ろに重なっている人たちを一人として彫刻した後、「独立軍義兵殉国先烈処刑像」と名付けた。果たしてこれらは「集団処刑された義兵」なのだろうか。

 

いつ撮影した写真か

写真自体に、これらの正体を知るためのヒントが隠されている。まず、この絵葉書の下部にはこう書かれている。「韓国風習:罪人の絞殺」「韓国」は、日本が大韓帝国を植民地時代の朝鮮と区別して呼んでいた名称である。この刑の執行時期が1910年以前であることは確かだ。

もっと具体的に見てみよう。この写真は1904年1月2日から1905年10月26日の間に撮影された写真だ。期間を確定できるヒントは、背景に見える白衣と白笠をかぶった群衆である。

白衣、白笠は朝鮮と大韓帝国の国葬の際に民衆が着用した服飾だ。国葬が行われると、1年間、上下を問わず百姓※恐らく「民」の総称は白笠をかぶらなければならなかった大韓帝国時代に国葬は2回あった。1904年1月2日、憲宗妃洪氏明憲太后が亡くなり(1904年1月2日「高宗実録」)、以後1年間、大韓帝国の皇民はすべて白衣と白笠の着用が義務だった。この国葬が終わる2ヶ月前の1904年11月5日、皇太子である純宗妃閔妃が亡くなった(1904年11月5日「高宗実録」)。 それで大韓帝国の人々はこの日から1年後の1905年10月26日まで、また白衣と白衣着用が義務だった。 したがって、この写真は1904年1月2日~1905年10月26日に撮影された写真であり、刑の執行もその期間にあった。

 

集団処刑された窃盗犯

ソウル特別市はこの場面を日本軍による義兵処刑場面だと断定し、追念塔に彫刻しておいた。 果たしてそうだろうか。 別の角度から撮影した写真を見る。 下の写真は1906~1907年に朝鮮と満州、日本を旅行したフランス武官レオ·バイラム(Leo Byram)の紀行文『小さな日本が大きくなるだろう(『Petit Jap deviendra grand』、Berger Levrault、パリ、1908)』という本の75ページに載っている。

 

Byram - Petit Jap deviendra grand !, 1908 (page 105 crop)

▲Wikisource:Léo Byram
Petit Jap deviendra grand !
Berger-Levrault, 1908 (p. 66-102). より

 

1908年に出版されたフランス武官レオ・バイラムの本に出てくる処刑場面の写真。 誰かの国葬期間なので、群衆と朝鮮人の刑吏は皆白笠と白衣を着用した。 右下には西洋式の帽子をかぶった西洋あるいは日本の女性たちと推定される人々も見える。

処刑台の周辺に立っている刑吏たちも白笠と白衣を着用した。 朝鮮人だ。 処刑場のどこにも日本軍は見当たらない。 バイラムは「数ページの歴史」というチャプターの中の日本の侵略部分にこの写真を載せ「日帝の弾圧-絞首刑」と説明した。 しかし、この写真はバイラム本人が撮影したものではなく、購入した写真だ。 バイラムは1906年に大韓帝国に入国し、この時は国葬が終了して一般服装に還元された後だ。 また、旧韓末以来、朝鮮の風物を撮影した写真が印画またははがきで大量に製作され、日本と西欧に流通した。 バイラムの写真説明は購買過程で生じた錯誤だったり、本人先入観である確率が高い。 当時、朝鮮あるいは大韓帝国を未開国と見る日本が無作為に生産した写真を西洋言論が検証なしに引用し、記事の方向に合わせて勝手に説明を付けたためだ。

追悼塔の浮き彫り歪曲を追跡してきた釜山科学技術大学警察行政学科のイ・ドクイン〔※이덕인教授は「1909年7月12日、司法権が統監府に渡るまで司法権は大韓帝国政府が行使した」と話した。 日本が出版した各種アルバムには、義兵討伐作戦の時に逮捕したり処刑した朝鮮人の写真に対しては、自分たちの行為であることを隠蔽せずに記録しておいた。

それなら、写真の中に登場したのは誰か。

強盗であり、泥棒である可能性が高い。 死刑は国王の許可事項である。 実録によれば1904年1月2日~1905年10月26日、国葬期間に国王高宗が絞首刑を許可した人は計144人だ。 高宗は1904年2月7日「殺人強盗犯」42人、3月9日「殺人犯」14人と「強盗犯」6人、「窃盗犯」10人、3月15日「強盗犯」など27人、1905年7月22日「強盗、窃盗、殺人犯」45人に対して絞首刑を許可した(該当日「高宗実録」)。 このうち写真に出てくる罪人12人と数字が一致する刑執行は1904年3月15日27人のうち漢城裁判所管轄囚人12人だ。

大韓帝国の司法記録である「司法稟報」報告書1904年3月17日付によれば罪人の名前はイム・ボクマン、チャ・ソンイク、〔※残りの名前省略〕の12人だ。 前の3人は暴力を伴った常習窃盗犯で、残りは強盗だ。 執行した人は漢城府裁判所検事のユン・バンヒョンで、報告を受けた人は大韓帝国法務大臣のイ・ジヨンである。(『司法稟報』(乙)43冊56、奎章閣韓国学研究院)

彼らは3月15日夜9時、漢城監獄絞首台で処刑され、翌日その遺体が群衆に公開展示された後、使之出埋/사지출매された(上記「司法稟報」)。 他の受刑者は「直ちに埋葬(卽埋/즉매)」処理したが、彼らは直ちに埋葬されなかった。 木の柱の付近に彼らを運んできた背負子たちが見える。

▲〔画像省略〕1904年3月15日、窃盗·強盗犯12人の集団処刑の執行及び名簿を報告した司法稟報。/奎章閣韓国学研究院

 

よりによって3日前の1904年3月12日、大韓帝国の法部から「昼間も略奪と殺人が一度や二度ではないので、特別に厳しく取り締まって処罰せよ」という特命が全国に下った(1904年3月12日「訓令13度6項1目裁判所件」法部、訓指起案(17277の5)第11冊。 図画会、「1895~1908年間のソウルの犯罪様相と政府の刑事政策」「歴史と現実」74、韓国歴史研究会、2009、再引用)。

この雑犯12人は、そのモデルケースになったと推定される。 乙巳条約〔第2次日韓協約/1905年〕1年後、大韓帝国外交はもちろん、内政まで実質的に掌握してしまった統監府は「残忍で効果もない公開死刑を廃止せよ」と大韓帝国法部に勧告した(1906年8月26日「皇城新聞」)。

 

歪曲の始まり、国史編纂委

原本の写真であれ、当時の法律的環境であれ、写真の中で処刑された人々は雑犯だ。 彼らを義兵と断定したソウル市と解放後、今まで義兵として疑いなく主張してきた国史学界は真実が何かを調べる義務がある

 

1966年12月、国史編纂委員会が発行した「韓国独立運動史2」の画報。1904年、雑犯処刑場面が1919年の万歳運動デモ者虐殺場面に化けた。

 

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国編委のような本のようなページにはまた「1919年3月、一軍警に虐殺される万歳デモ者」という説明と共に朝鮮人3人が銃殺された場面を撮った写真が載っている。 ところがこの写真も1919年ではなくフランスの雑誌「イリュストラシオン(L'illustration)」1907年8月10日付で報道された写真だ。 同誌の記事には銃殺刑が行われた場所が「全羅南道潭陽」と書かれている。 日本軍の蛮行であることは明らかだが、平和的デモである3·1万歳運動〔とは関係がない。(1907年8月10日「L'illustration」pp.90,94)

※3.1万歳運動を「平和的」と書く辺りはこの記者も ”美化” している。

 

▲〔画像省略〕1907年8月10日、フランスの「イリュストラシオン」誌に掲載された銃殺刑の写真。
▲〔画像省略〕1966年、国史編纂委員会「韓国独立運動史2」に掲載された「1919年万歳運動犠牲者」の写真。 3·1運動以前の写真を万歳運動虐殺事件と歪曲した。

1919年の3·1運動直後、米国で活動した欧米委員会(韓国委員会)〔※臨時政府の海外支部が「韓国での日本の残酷行為」という宣伝文書にこの写真を挿入した。 欧米委員部は「国際映画サービス(International Film Service)」という業者から2ドル25セントで購入したと明らかにした。 欧米委員部は「正当な軍事作戦」という日本政府の主張を根拠がないと排斥し、これを3·1運動当時の蛮行だと主張した。(「大韓民国臨時政府資料集」欧米委員部2Ⅱ。宣伝文書類2.フィラデルフィア通信部·韓国友人会発行文書3)

国編委はこれを時期や事件に対する検証なしに1966年の本に掲載したものだ。 その年に出版された「慶南独立運動小史」(ピョン·ジソプ、三協印刷社、1966年10月)にもこの写真と胃強度処刑写真が3·1運動関連蛮行と説明されている。 臨時政府レベルで綿密な検証手続きなしに行われた宣伝物が歴史的事実として固まった契機だ。 その後、「3·1運動50周年記念論集」(東亜日報社、1969)、在日韓国人学者シン·ギス〔※辛基秀の「韓日併合史」(1987)(目つき〔?出版社名の誤訳と思われる、2009、p63)をはじめとする国内外の出版物に、この集団処刑写真が義兵処刑場面に完全に固まってしまった。 特に「韓日併合史」は誤りがいちいち指摘できないほど多い。

このように、独立運動のための誇張または煽動作業の結果物が、これまで検証なしに歴史的事実と断定されてきた。 このようにあらゆる独立運動関連写真集や資料集にとんでもない雑犯たちが義兵に化けて登場してきたが、ついに強盗と窃盗犯をわけも分からずに追悼する状況に至ってしまった。 責任はこれから誰が負うのか。 イ・ドクイン教授が言う。 「いくら目的が正当であっても手段が歪曲されているならば、その事実の正当性は半減されたり退色されるほかはない。」闘争も扇動も事実(Fact)に基づいてこそ勝利するものだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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コメント


これってあり? さん、コメント、ありがとうございます。

いつもはもう少し要約して書くのですが、今回は朴鍾仁記者の緻密な調査をお伝えしたくてほぼ全文を機械翻訳しました。

>尚、朝鮮日報の朴鐘仁記者が政府や民間機関や個人から名誉棄損で訴えられないか、と危惧しています。
「事実陳列罪」でタイーホされそうですねw
真面目に書くと、韓国の歴史はこうした細かいデマ(韓国人は「怪談」と呼びます)が多く、「慰安婦」や「徴用工」、「ハングルを奪った」、「土地を収奪された」などの有名な捏造以外にも、日本人の知らないところで日本人は多くの無実の罪を着せられています。
本文中にご紹介した『慟哭のポプラ』もその一つですが、これらは所謂歴史学者がでっち上げたもので、朴鐘仁記者は、主に大韓帝国(1897~1910年)時代の定説の誤りを糾す記事をシリーズでお書きになっています。
しかし、歴史学会は無視しています。
韓国の歴史家は「小説家」だと思った方が良いです。

 産経新聞の黒田勝弘記者のコラム『勇気ある歴史の検証』(4月22日付け)を読みました。舌足らずと思い、検索していて貴兄のブログを見付けました。
 最後まで読み、「ガーン」以外の印象はありません。
 尚、朝鮮日報の朴鐘仁記者が政府や民間機関や個人から名誉棄損で訴えられないか、と危惧しています。

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