【書籍】『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか/他』(朴婉緒 著)【朝鮮戦争】
著者の朴婉緒(パク・ワンソ)氏の自叙伝的小説である『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか/あの山は本当にそこにあったのか』は、2つの長編作品の合本ですが、前編/後編のようなもので、前者は主に日本統治下のソウルでの学校生活、後者はほぼ朝鮮戦争が中心に描かれています。〔韓国語版:그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까/그 산이 정말 거기 있었을까〕
彼女は現在の北朝鮮開城(ケソン)郊外の田舎に、1931年に生まれました。小説は7歳(1938年頃)から結婚(1958年)する迄の話で、著者は30年足らずの間に、日本統治時代~解放(軍政期)~朝鮮戦争~戦後という4つの異なった時代を経験した事になります。
ここでは小説のレビューというよりは、資料的側面から、この本で知った事をメモしておきます。
* * * *
◆創氏改名
著者の家族の殆どは創氏改名に賛成でしたが、家長である両班の祖父が許さなかった事で断念、祖父が亡くなった後にもう一度創氏改名について話し合われますが、今度は著者の兄(早く亡くなった父は長男だったので、兄が本家の家長の立場)の反対で結局創氏改名はしないままでした。
2人の叔父の1人は、商売上、日本名にした方が便利だという理由で、母は子供の学校生活や社会生活に有利だと考えての事です。周囲には早々に改名をした家も多かった様です。
例えば叔父一家だけが創氏改名をするのは、戸籍(家系図)から分かれる事になるので、当時の朝鮮人社会では考えられない事でした。したがって、創氏改名は一族単位で合意の上、あるいは家長の一存で行われた様です。
著者は自分の名前が日本語読みされると「ぼく・えんしょ」となり、それが「防空演習」に聞こえるとからかわれるのが嫌で改名したかったそうです。
◆親日派
解放直後、彼女の実家は改名もしていないのに、「親日派」と言われて暴徒に襲われます。叔父の1人が村役場の役人だったからか、理由はよく分かりません。しかし、これは解放による一時の高揚感によるものだったようで、周囲の人が気の毒がって壊れた家を直してくれたり、その後の生活に支障は無かったようです。
◆学校教育/ハングル
著者が4歳の時に夫を病気で亡くした母は教育熱心で、物語の始まりには既に著者の10歳年上の兄を学校に通わせる為にソウルに兄と2人で住んでいます。教育熱心と言っても関心があるのは学歴や良い就職で、著者も母親の「新女性にする」という願いから8歳の時からソウルに呼ばれ、ソウル市内の国民学校に通います。
この時、既に学校でハングルの授業はなかったそうです。
少し不思議なのは、著者はたまたま子供の時に実家でハングルを覚えたのですが、周囲の同級生はハングルを読み書きできなかったそうです。日常には朝鮮語を使っていても、少なくとも子供の世界では文字としての朝鮮語とは無縁だったと言う事でしょう。子供が読む為の絵本の様なものも無かったのでは?と思います。
在学中に図書館に行って読む本も、日本語に訳された『ああ無情(レ・ミゼラブル)』や『小公子』でした。
なお、訳者は後書きで、ハングルが弾圧されたとか、やや悪意のある書き方をしているのですが、この本の出版社が『影書房』だからかも知れません。この出版社の「X」のアカウント(@kageshobo)はかなり偏った歴史観を持っています。興味のある方は、日頃このアカウントがどのようなTweet(「X]では「ポスト(post)」と言う)をしているのか、確認してみて下さい。
◆解放後のイデオロギー
恐らく、解放(1945年)~大韓民国建国(1948年)の社会的背景(イデオロギーの違いによる権力闘争)が反映されたのだと思いますが、著者の通っていた高等学校でも右と左に分かれて議論をしたり、新任の校長の赴任に大した理由も無く反対したりします。著者も一時的に左に傾くのですが、地下活動をしていた兄の影響のようです。
このように、南半分(大韓民国)に左翼的思想を持った国民が少なからずいた事は、朝鮮戦争での混乱にも影響します。
◆朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日停戦協定)
『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』の著者(任文桓)もそうですが、任氏は家族と別れて30日間の逃避行をしている間、ある集落に避難する際には、そこが「アカ」(共産主義者)の村ではないかと疑心暗鬼に陥っています。このように、朝鮮戦争は単純に北と南の戦争ではありませんでした。
ふと、ウクライナ戦争でもロシアに帰属意識を持つ住民の多いエリアでは似たような事が起きているのではないかと考えてしまいました。
以下はやや ”ネタバレ” になります。
朝鮮戦争は1950年6月25日に北朝鮮の南進で始まりますが、韓国政府はわずか2日で首都ソウルを放棄します。
現在韓国で公開されている映画『建国戦争』では、李承晩大統領が27日に「ソウル市民の皆さん、安心してソウルを守って下さい」と演説をしたのはデマである事を明らかにしているそうですが、当時のソウル市民である著者は、「市民を安心させておいて韓国政府は逃げた」という認識をその後も持ち続けていました。
しかも、攻めてきたのは ”外国” ではなく、同じ民族なので、敵と味方が曖昧で、北に協力する義勇軍に参加するする為に北に行く人も少なくありません。人民軍は基本的には普通の民間人に銃を向けることはありませんが、義勇軍にする為に拉致された韓国人もいます。著者の兄もその一人です。
著者の叔父と兄は戦争中に亡くなりますが、理不尽な死に方をしたのは、著者を可愛がってくれた叔父です。
ソウルが人民軍に占領された時に、商店を営んでいた叔父の家がたまたま人民軍の食事場所に選ばれて、叔父夫婦は食事の世話をします。恐らく密告されたのでしょうが、これが問題となり国軍がソウルを奪還した時に連行され、そのまま帰らぬ人となりました。
他には、解放後の左翼活動が仇となり「市民証」を発行して貰えなかった為に南に逃げることもできず(=検問を通れない)、北に行くことを選択した人もいます。
兄はなんとか逃げて家族の元に戻りますが、再び人民軍に占領されたソウルから、著者の家族(母、兄、兄嫁と子供達)は、兄が怪我をしていたので逃げる事ができず、ソウルに留まります。そこで人民軍と交流を持ったり、プロパガンダの劇場公演 ... と言っても、学芸会のようなものですが、それを鑑賞させられたりもします。
結局、今どちら(南/北)に占領されているかによって、住民は臨機応変に立ち回らざるを得なかったのです。
人民軍から国軍の兵士だったのではないかと疑いをかけられた兄は疑いを晴らす為に必死に説明しますが、完全に疑いを払拭できず、著者と兄嫁、そして2人の子供の内の1人を北に行かせる様命じられます。結局、一行はイムジン河を渡る前に停戦となり再び韓国に戻れます。
なお、ソウルは1951年1月4日に2度目の陥落をします。これを「1.4後退」と呼ぶそうです。
ご存知の様に開戦僅か2ヵ月程で韓国軍は釜山まで追い詰められますが、仁川上陸作戦(1950年9月15日)で押し返すどころか、現在の中朝国境付近まで侵攻します。しかし、10月の中国軍の参戦で再び後退します。そして、興南撤収作戦(1950年12月15日~24日)で民間人と軍人が避難し、これは「クリスマスの奇跡」と呼ばれ、大規模な撤収が成功した面が強調されるようですが、「1.4後退」の混乱と合わせ、多くの離散家族という悲劇が生まれたそうです。
その辺りの話を下の動画で荒木和博先生が説明しています。
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著者は本の中で自分に対しても他者に対しても、”歯に衣着せぬ” と言うか、容赦なく批判をしたり、自分の醜い心も正直に書いています。ただ、韓国人(著者)と日本人(ブログ主)の違い故か、あるいは著者個人の性格故か、かなり ”きつい性格” で、言動には感情移入しにくい部分もありますが、本の中で他人が彼女のことを ”きつい” と評する場面があるので、おそらく性格故でしょう。
冒頭にも書いた様にこの本は2冊の本の合本で、1冊目は学校生活や日常の思い出が主で、読むのに少し時間が掛かりましたが、2冊目の朝鮮戦争の話は、話の展開にスピード感があり、次の展開が気になって、一気に読んでしまいました。
なお、ブログ主は基本的には著者や訳者に敬意を払って新品の本を購入するのですが、『影書房』の本だったので、古書を買いましたw
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