【3.1独立運動】韓国に於ける「3月1日」とは
3月1日は韓国にとって、「3.1独立運動」と呼ばれる、1919年に起きた、日本統治に抵抗する運動(暴動)が起きた日で、これは現在の憲法前文にも、「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と...」と書かれるくらいに重要な日であり、韓国人のアイデンティティに関わる日です。但し、3.1と臨時政府の設立は直接には関係ありません。
この日の韓国では太極旗が家庭に掲揚され、文在寅政権の時などは、日本食レストランは営業を自粛したり、連休を利用して日本旅行をしようものなら、一斉に叩かれたりする日で、今年はこの日に日本のウィスキーをディスカウント販売したスーパーが批判されたり、日本旅行も批判の声が上がりました。一方、それに対する反論も上がります。
尤も、韓国では、その時のトレンドによって、反日が優勢か、アンチ反日が優勢かの違いがあるだけで、約3割の岩盤左翼支持層がいるので、そういう声は必ず上がるのです。
この辺りは、日本の左翼 ... 現時点の政党支持率から判断すると、日本でも約1割は左翼で、たった1割でも声の大きさだけだと、まるでマジョリティのようなのですから、『声闘』の国、韓国での声の大きさは推して知るべしで、決して、”反日一色” に染まっている訳ではないのです。
とは言え、アンチ反日だからと言って、”親日” だと思うのも誤りで、彼等は好みの日本のコンテンツを消費したいだけです。反日が優勢の時はコソコソとするだけで、アンチ反日が優勢なら、反論の声が若干大きくなるだけです。
捏造歴史の国なので、この日にまつわる様々な ”怪談” (要するにデマ)は各種あります。
実証主義的な韓国人は独自に検証していますが、なかなか訂正されません。
これも立場を変えてみたら多少は理解できます。
日本人は自国、あるいは我々のご先祖の名誉を回復したいという強いモチベーションがありますが、韓国人にとっては、せっかく手に入れた ”被害者” ポジションをわざわざ手放す程のモチベーションはないわけで、事実が広まらないのはしかたがないのです。
日本人は、3月1日に出てくる反日エピソードなど笑って見ていればいいと思います。どうせ日本人が何か反論しても無駄なのですから。
韓国人の意識を変えるのは韓国人しかできません。
* * * *
『デイリー新潮』に「3.1独立運動」に関する、新城道彦教授の著書〔『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』(新潮選書)〕から引用した記事があったので、一部を引用して補足を追記しておきます。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03010615/?all=1#goog_rewarded
韓国で神聖視される「三・一運動」の裏で起きていたこと――内紛、脅迫、デモ参加者水増し
2024年03月01日
〔前略〕韓国併合から9年後の1919年1月に高宗が徳寿宮で息を引き取ると、日本政府は京城(けいじょう、併合後の漢城)で国葬することを決めた。一般の告別式に当たる「葬場祭の儀」が3月3日に設定されたため、2月末になると地方の人々が葬儀見物を目的に続々と京城に集まりはじめた。
※この時、ソウルに集まった人に対して、運動家は「高宗毒殺説」のデマを流布した。
この「高宗毒殺説」は今でも一部で信じられている。それは、2009年にソウル大学教授で歴史学界の重鎮の李泰鎭(イ・テジン)氏が発表した説によるもので、「倉富勇三郎日記」を根拠にしている。但し、その日記に書かれているのは、「毒殺の噂があり、確かめようとしたが叶わなかった」という内容との事である。
前年の1918年にはアメリカのウィルソン大統領が第1次世界大戦後の国際秩序を構想して民族自決を含む14カ条の平和原則〔※「民族自決」〕を提唱していた。民族自決とは、各民族が自らの意志にもとづいて運命を決する権利を持ち、他の民族や国家による干渉を認めないとする考え方である。ただし、これはヨーロッパの民族を想定しており、朝鮮とは基本的に無縁であった。
※アジアに植民地を有する欧米列強にアジア人の民族自決など考えていなかったのは自明の理。
とはいえ、朝鮮の独立運動家にとっては希望の光となる。彼らは高宗の国葬によって人々が京城に集まるという好機をとらえ、大衆を動員した独立運動を起こそうと考えた。東京在住の朝鮮人学生も、1919年2月8日に二・八独立宣言書を発表し、運動実践のために朝鮮に戻っていった。
そのころ京城では延禧専門学校や京城医学専門学校の学生たちがたびたび各校の代表会議を開いて国葬の際に事を起こす計画を練り上げていた。他方で、天道教教主の孫秉熙(ソンビョンヒ)もキリスト教や仏教とともに宗教界で団結し、独立宣言書を朗読することをもくろんでいた。
天道教を中心とする宗教団体が考えた独立宣言書は「排他的感情に逸走せず〈中略〉一切の行動は秩序を尊重して公明正大に行え」と謳っており、暴動を起こしてまですぐに独立を実現するような計画ではなかった。彼らが考えていたのは、京城の中心にあるパゴダ公園で独立宣言書を読み上げ、朝鮮の民衆および日本や欧米に対して独立の意志をアピールする程度の、いわばパフォーマンス的な計画だったのである。
それゆえ、血気にはやる学生たちを「意見浅薄」と蔑視しており、連携する考えなどなかった。それどころか、学生たちの動きを察知すると手柄を横取りされるのではないかと焦り、2月末には天道教幹部の権東鎮(クォンドンジン)が宇都宮太郎朝鮮軍司令官を訪問して「国葬の際には何等かの出来事無しとも限らず、用心せよ」とリークしている。
結局、宗教団体は学生たちに先立って3月1日に独立宣言書を読み上げることとし、会場も騒動を避けるためにパゴダ公園から泰和館という料亭に変更した。当日、3~4人の学生が泰和館に来て「多数の学生がパゴダ公園に集まって居るのに何故来ぬか、来て呉(くれ)ねば拳銃で射する」と脅したが、孫秉熙は「若い者が腕力を以て騒ごうとして成就するものではない。自分達はお前達と事を共にする事は出来ぬ故、お前達で勝手にするが良かろう」とあしらっている。
※独立宣言書を読み上げた面々はその後自首した。
一方、パゴダ公園では実力行使を望む者たちが独立を宣言して群衆を煽った。これをきっかけとして「独立万歳」を叫びながら示威行進する、いわゆる三・一運動(万歳騒擾)がはじまった。
宗教団体が考えていた「非暴力の原則」は守られず、群衆は鎌や棍棒を手にして次々と警察署や役場を襲い、官憲を殺害するなどした。他方で日本側も軍隊を出動して群衆を弾圧したため、多くの人々が犠牲となっている。京畿道堤岩里(チェアムリ)では軍隊が住民30名ほどを教会に閉じ込めて虐殺する凄惨な事件も発生した。
なお、京城で出版業に携わった釋尾しゅんじょうは、三・一運動の開始からひと月ほどたった朝鮮社会のようすを次のように記録している。
「騒擾煽動者は近来は誰でも構はぬ騒擾団に加はり万歳を唱へさへすれば五十銭を与ふると云ふことにして浮浪人や労働者を誘ふて居る、其れが為めか近来の騒擾団は学生が少くなり、労働者風の者が多くなつて来た、朝鮮独立万歳の声も一声五十銭とは高いやうで易い〈原文ママ〉やうな感じがする」(『朝鮮併合史』)
※他にも、「万歳運動に協力しないと火を点けるぞ」といった脅迫ビラも撒かれた。
デモを行う際に人を買収して参加者数を水増しすることは珍しくないが、韓国で神聖視されている三・一運動においてもそれは同じであった。
※朝鮮人の特にエリート層が日本(朝鮮総督府)による統治に不満を持っていた事は確かで、総督府は少なからぬショックを受け、これを機会に「武断政治」から「文治政治」に移行する。なお、当時の知性派 尹致昊(ユン・チホ)は、現時点で朝鮮人が国を運営する能力などないのに...という内容を日記に記して呆れている。
※新たに「3.1独立運動」をカテゴリとして分けました。追々、過去のエントリーをこのカテゴリに分類し直します。
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