【蔚山は椿文化の発祥地】京都 地蔵院の椿は秀吉軍が略奪したものだ!←根拠不明でした
韓国の蔚山市には、加藤清正が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で略奪したのを取り返した椿があるそうです。しかし、それに疑問を呈す学者がいて、真贋論争?になっているという記事が中央日報にありました。
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https://www.joongang.co.kr/article/25231444#home
한·일 400년 사연 간직한 '오색팔중'은 진위 논란중, 무슨일?
2024.02.27
https://s.japanese.joins.com/JArticle/315522
韓日が400年の歴史が刻まれたツバキ「五色八重」に真偽問題浮上
2024.02.27
韓国慶尚南道(キョンサンナムド)に位置する蔚山(ウルサン)市。同市庁前の庭には韓日両国の長い歴史が物語として刻み込まれた1本のツバキが立っている。高さ2.5メートルのこのツバキは31年前に京都から蔚山にやってきた。樹齢は今年で41年。木は五色、八重の花が咲くといって「五色八重」と呼ばれる希少種だ。1590年代、日本の将帥が蔚山にあった木を日本に持ち帰り、その後400年ぶりに韓国に戻ってきて市庁の広場に植えられたというその「蔚山椿」だ。〔中略〕
◇秀吉が寺に捧げた「蔚山椿」
木の由来探しに地方自治体まで乗り出すほどの理由は、このツバキのまつわる歴史的象徴性のためだ。ツバキは壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時、倭将の加藤清正が蔚山鶴城(ハクソン)で初めて見つけたという。加藤は木の美しさに一目で心を奪われ、これを掘って日本に持ち帰り、君主の豊臣秀吉に捧げたという。秀吉はツバキを自身と縁があった京都の寺院・地蔵院に寄贈した。〔中略〕
ツバキの歴史的象徴性は再び韓国につながった。1989年当時韓国芸術文化団体総連合会のチェ・ジョンドゥ蔚山支部長が地蔵院でツバキを発見した。地域団体および仏教界などが返還運動を展開し、最初は拒否していた日本側も結局返還に同意した。1992年5月1本のツバキが韓国に持ち込まれ、その木が蔚山市庁前の庭に植えられた。蔚山市関係者は「当時樹齢10年の3世代の苗木3本が帰ってきたが、蔚山市庁、独立記念館、慶南泗川(キョンナム・サチョン)朝明軍塚に1本ずつ植えられた」と説明した。現在は蔚山市庁に植えられたものだけが生き残り、残りは枯死した。蔚山市(ウルサンシ)農業技術センターなどの努力で4世代50本余りが別途育てられている。蔚山市庁前の庭の3世代の近くにある小さな木10本がその4世代だ。〔後略〕
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要するに、1989年に地蔵院の椿に目を付けて以来、「加藤清正が盗んだのだから、返還しろ!」とギャーギャー五月蠅いので、1992年5月に1本の苗をくれてやった、という事らしいです。
秀吉が北野大茶会(1587年10月1日)を記念して地蔵院に献木した、と言うのは、地蔵院公式Facebookに書いてありました。しかし、問題は文禄の役(1592~93)、慶長の役(1597~98 ←秀吉の死)が茶会より後なのです(笑)。
記事の省略した部分には以下の様に書いてあります。
>真偽問題は昨年上半期から本格的に浮上していた。地域植物学者などのメディアへの寄稿、文化解説士の情報提供、市民のうわさなどを通してだ。社団法人韓国湿地環境保全連合のチョン・ウギュ博士はメディアへの寄稿文で「(蔚山市が)ツバキについて十分考証せずに広報ばかりに気を使っていたところ、でたらめな情報が拡大再生産されている」と主張した。チョン博士は「在日大使館の文化教育担当領事や元駐日教育官らの協力を得て調査をしたが、蔚山市庁前の庭に植えられたツバキと日本の五色八重散椿は木の形や、葉の形、花が咲く時期などあらゆる点で異なり、同じ木と見ることができなかった」と主張した。
昨年になってようやくかよ!w というツッコミは置いておいて、チョン・ウギュ博士の寄稿文を見つけました。
[울산 동백] 오색팔중산춘, 언제까지 엉터리 정보 확대재생산할 것인가?
2022-03-30
五色八重山春、いつまででたらめな情報を拡大再生産するのか?
チョン·ウギュ (社)韓国湿地環境保全連合理事長兼代表
長いので部分的に引用すると、
>3月末から4月初めになると、文禄·慶長の役で蔚山市役所の庭園に、略奪されてから396年が過ぎ、やっと挿し木の苗を一つ手に入れて植え、世界唯一の五色八重椿が咲いたと大騒ぎする人がいる。 蔚山(ウルサン)の椿五色八重山春を国内に持ち込んだのは、略奪された遺伝子資源を取り戻したという次元でよくやったことであり、意味もある。 その訪問に苦労したし、予算もかかったし、大々的な行事と広報もしたという。
相当、大騒ぎして ”取り戻した” と言う事がよく分かります。地蔵院もいい迷惑だわ...
秀吉軍に盗まれたという ”根拠”(?)らしき事も書いてありました。
>壬辰倭乱の時、日本が略奪していった椿を一番最初に見て言及したのは1763年に通信使の一行として行った李彦瑱〔※이언진/イ・ウンジン〕であり、その文章は「海覽編(해람편)」と推定される。〔彼の死後書かれた漢文の〕小説「虞裳傳」〔※해람편〕を執筆する時、すでに燃やしたイ・ウンジンの詩文を再収集して移しながら「海覽編」を間違って移したのか、内容が事実と逆に「同胞の鼻を切って侮辱し、躑躅(サツキ)と冬柏〔※とうはく、ふゆかしわ〕を三韓に移して植えた」と収録されているだけです。
ここで「冬柏」について調べた所、日本語では「ブナ科の落葉高木」、つまり柏の木ですが、韓国語の「동백(冬柏)」は「椿」だと分かりました。
下の、”返還” 当時の新聞にも「冬柏」と書いてあります。ただ、朝鮮通信使の時代に漢字で書かれた「冬柏」が「椿」なのかは良く分かりません。
「事実と逆に」とは、三韓(朝鮮?)から日本に移したのではなく、日本から三韓に移したと書いてあるので、事実とは逆だと言っているのでしょうが、その事実とは何を根拠に?
しかも、どうやら、加藤清正云々は出てこないようです。
ここまでから想像するに、「豊臣秀吉が贈った椿」から来た 妄想 です。
この寄稿文によると、”日本から取り返した椿” がよほど嬉しかったのか、絵本まで出版して、蔚山市は大々的にアピールしている様子で、考証もせずに恥ずかしいと筆者は書いています。
しかし、筆者も所詮韓国人。「ツバキ」の語源は古代韓国語とか書いています。
>日本は椿の名前「ツバキ」の語源問題を解決していない。椿の語源は「도바기」と整理され、日本の椿の名前「ツバキ」は古代韓語の도바기がツバキに変遷したことが証明される。日本の椿油を搾る技術も三韓から伝わったという説もある。日本で最も人気のある茶花である佗助椿〔わびすけつばき〕も由来のいくつかの説の中で、壬辰倭乱の時に蔚山から持ってきたという説(中村恒雄, 1972)がある。日本の『百椿図』という椿画集に朝鮮椿と高麗椿も描かれている。
>このような点で蔚山は世界ツバキ文化の発祥地と見ることができそうだ。
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韓国人とは、つくづくポジティブな人達だと思います。
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