【朝鮮学校】三重県に「自主的財源をもって学校運営を行います」と誓約書を提出してた朝鮮学校
『それでも韓国に住みますか 』(2023/3/22/ワック)の著作がある豊璋(ほうしょう)氏は大阪の朝鮮学校出身在日3世で、18歳の時に韓国籍を取得され、現在は日韓を行き来するビジネスマンとして韓国事情に関する寄稿文を多く書かれていますが、「X」(@hooshoo716)では朝鮮学校に関するポストも多くしていらっしゃいます。
「午後5:28 · 2024年1月25日」のポストでは、『朝鮮学校の教育史』〔副題:脱植民地化への闘争と創造/呉永鎬 著/2019/04/10/明石書店〕という論文に、三重県四日市の朝鮮学校設立許可を得る為、学校側は自治体に「自主的財源をもって学校選営を行う」などといった誓約書を提出していた証拠、誓約文の写しを発見してポストされていました。
豊璋氏は、他の自治体(県庁)にも、同様の誓約書が残っているのでは無いかと言います。
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三重県の誓約書は、上記本の「第10章」に収録されています。画像でupされていたものをテキストに起こしました。
第10章 政治問題としての法的地位
第一節 日本政府および文部省の立場
(1)学校閉鎖措置後の朝鮮学校の法的地位
(2)各種学校認可の両価性
第二節 無認可校への補助金交付――四日市市の論理
第三節 各種学校認可をめぐる三重県の対応
(1)文部省方針の貫徹
(2)認可問題に関する政治的判断
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【県側の案】
1. 日本国の法令ならびに監督庁の諸指示を遵守します。
2. 日本国の社会秩序に反し、又は利益を害する教育は行いません。
3. 外国人学校制度が設けられたときは、改正法に従います。
4. 助成金の要求はいたしません。
5. 上記のことについて、違反した場合は、法人の解散ならびに学校廃止 の処置をうけてもいたし方ありません。
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【実際に提出された誓約書】
誓約書
記
1 日本国の法令ならびに監督庁たる知事の諸指示を遵守します。
2 日本国の社会秩序および利益を尊重した教育を行います。
3 自主的財源をもって学校運営を行います。
1966年11月16日
学校法人 三重朝鮮学園
理事長 金龍王
三重県知事
田中覚殿
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「第10章」の「第一節」に「(1)学校閉鎖措置後の朝鮮学校の法的地位」とありますが、これは恐らく、1949年10月の「朝鮮学校閉鎖の閣議決定」と「GHQによる『朝鮮学校閉鎖令』施行」の事だと思います。
この後のサンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)以降、日本政府は朝鮮総連〔正確にはその前身の『在日朝鮮統一民主戦線』(民戦)〕に対し、朝鮮学校の自主運営を求めるようになります。
従って、その後に設立される朝鮮学校に対し、自主財源で運営する様、誓約させるようになったのでしょう。
以下、参考までに『朝鮮総連―その虚像と実像』〔朴斗鎮 著/中公新書ラクレ 新書/2008/11/1〕を参考に、Wikipediaなどの情報を補足して、簡単に戦後の朝鮮総連の歩みと朝鮮学校の変化をまとめておきます。
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◆在日本朝鮮人総聯合会(『朝連』期と『民戦』期)
1945年(昭和20年)結成の『在日朝鮮人連盟』〔朝連〕は、戦後の米ソ対立の中、大韓民国(1948年8月15日)と北朝鮮(同年9月9日)がそれぞれ建国され、GHQによって ”暴力主義的団体” として解散させられた(1949年9月8日)。
その後、新たに設立された『在日朝鮮統一民主戦線』〔1951年(昭和26年)/略称は「民戦」〕を経て1955年に設立。略称は朝鮮総聯。
民戦は、在日朝鮮人連盟が解散させれた後に合法組織として『朝鮮解放救援会』が残り、その後、『朝鮮人団体協議会』(1950年4月)を経て、2ヵ月後に勃発した朝鮮戦争で北朝鮮政府を支援する強力な組織を構築すべく1951年1月に結成された。日本共産党と連携して政治活動を行う。
◆『朝連』期の朝鮮学校
日本に於ける朝鮮学校の歴史は、敗戦直後まで遡る。帰国準備と次世代教育を目的に「国語講習所」の名称で全国に作られた「学び舎」が朝連の指導の下、発展していく。朝連は第二回全体大会(1946年2月)で、初等学院の設立を決定。
しかし、1948年頃に朝鮮学校を取り巻く環境に大きな変化が起きた。日本当局やGHQによる弾圧である。
1948年、当局と朝鮮学校の大きな衝突〔阪神教育事件=4.24教育闘争〕が起こる。朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人と日本共産党による暴動及び拉致監禁事件だ。
1949年4月4日に「暴力主義的・反民主主義的」とみなされた団体の規制を目的とした「団体等規正令」が発効し、朝連は解散させられ、10月12日には、朝鮮学校閉鎖の閣議決定がなされる。1949年10月19日にはGHQにより「朝鮮学校閉鎖令」が施行された。
朝鮮学校の生徒は日本人の学校に分散入学させられたが、一部は「朝鮮人学校取り扱い要綱」(1948年12月20日)の管理下で、「公立学校」〔ex. 東京都立朝鮮人学校〕として存在した。
著者(朴斗鎮氏)によると、朝連期の朝鮮学校は金日成を支持する傾向にあったが、思想的に強制されるものではなく、教室に肖像画が掲げられる事も無かった。また、入学式や卒業式で掲げる国旗は「太極旗」〔現在の大韓民国の国旗〕であった。
◆民戦期~朝鮮総連設立迄の朝鮮学校
民戦期には前述の様に公立学校として朝鮮学校が存在したが、サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月28日)により、日本政府は一転、朝鮮学校に自主運営を求めた。
しかし、それまでの弾圧・統制により、朝鮮学校の財政基盤が脆弱化し、1955年〔『総連』体制〕には、学校数110、生徒数17,604人に激減していた。
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【追記】たまたま豊璋氏が家庭環境について「X」で詳しく語っていたので、その一部を転記しておきます。
>私の祖父は朝鮮総連中央幹部(80年代まで)、父親は民団幹部(90年代まで)。叔父は朝鮮大学の選定により自分の意思とは関係なく北朝鮮へ(72年)、、、が私の実家の状態です。もっと言えば青年会(叔父が幹部)女性同盟(叔母が幹部)とゴリゴリの総連で父親のみが民団でした。
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