【乙未事変】閔妃暗殺の実行犯は...
閔妃(びんひ/ミンビ)とは李氏朝鮮26代の国王高宗の妃で、義理の父である大院君を退けて閔氏一族による政権を立て、権勢をほしいままにした人物で、日清戦争後、ロシアに擦り寄り日本を排斥しようと企んでいた所、1895年10月8日に暗殺されます。〔乙未事変(いつびじへん)〕
在朝鮮国特命全権公使であった三浦梧楼が計画を立て、実行したのは日本の大陸浪人や朝鮮の訓練隊...と言われていますが、例の如く、韓国では「日本人に殺された」としか習わないようです。
ちなみに、閔妃の生涯は美化されて、韓国では悲劇のヒロイン「明成皇后」となっています。
閔妃とされる写真はいくつか残っていますが、閔妃ではないという説もあり、顔は分かりません。一つ言える事は、朝鮮という国を傾けた最大の要因の一つが閔妃とその一族で、多方面から恨みを買っていた事は間違いありません。
ここでは、元訓練隊の大隊長だった禹範善(ウ・ボムソン、う はんぜん)という人物 ... 後に高永根(コ・ヨングン)という刺客に殺害されるのですが ... が、酒席で「往年、王妃を殺したのは自分である」と言っていたのを、小村寿太郎外務大臣が林権助公使宛に伝えているので、それをご紹介します。
史料は、『日本外交文書デジタルアーカイブ』ー「第36巻第1冊(明治36年/1903年)」で閲覧できますが、文書に辿り着くまでを説明するのは別のエントリーとすることにし、ここではキャプチャした外交文書のみ提示します。
1903年9月25日付 小村寿太郎外務大臣から林権助公使宛
『禹範善殺害ノ陰謀露顕ノ件』
なお、これは『朝鮮半島の歴史: 政争と外患の六百年』(新潮選書)や『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』(中公新書)などの著書で知られる新城道彦教授の、『高永根による禹範善暗殺の裏面―淳妃嚴氏の密通と陞后問題―』という論文がネタ元です。
以下、該当箇所引用(P.9)
乙未事変に関与して日本に亡命していた禹範善は大阪で尹孝定(ユンヒョジョン)や兪相範(ユサンボム)とともに酒を酌み交わし、旧事を談じていた。尹孝定とは独立協会の元幹部で、1898年に安駉壽とともに高宗の譲位を図った人物である。計画が失敗に終わると安駉壽にしたがって日本に渡り、朴泳孝が神戸に作った朝日新塾30で教師をつとめるなどしていた。禹範善は朝日新塾の塾頭だったので、ふたりは同僚であった。兪相範は韓国からの留学生である。
尹孝定宅で開かれたこの酒席で禹範善は「往年王妃〔閔氏〕ヲ弑セシハ自分ナリ」と口走ってしまい、それが禍して命を縮めることとなる。これを聞いた尹孝定が「禹〔範善〕ヲ殺害シテ韓廷ニ貢献シ依テ以テ自家ノ計ヲナサン」と目論むようになったからである。禹範善の首をあげることで前科を帳消しにして一族の名誉を回復し、あわよくば韓国皇室の許しを得て無事帰国しようとしたのであろう。
* * * *
禹範善について若干補足します。〔この項、『祖国の英雄を「売国奴」と断罪する 哀れな韓国人』(金文学 著)を参考〕
禹範善が閔妃暗殺に参加した時は、朝鮮軍訓練隊の第2大隊長を務めていました。しかし、開化派の勢力が弱体し、身の危険を感じた禹範善は日本に逃れます。
禹は酒井ナカという女性と結婚し、1898年、禹長春が生まれます。1900年に一家は広島の呉に転居しますが、3年後の1903年11月に高永根に暗殺されました。長春、6歳の時です。
本書では「高永根は閔妃の寵愛を受けていた」と説明されていますが、実は、そのような忠誠心から高永根は禹範善を暗殺したのではない〔彼もまた王室から睨まれていて、禹範善暗殺を手柄にして帰国したかった〕... というのが、新城道彦教授の論文です。
禹長春は東京帝大を出て、白菜やキャベツといったアブラナ科の品種改良を行い、李承晩政権に請われて韓国に行き、後に「韓国近代農学の父」と呼ばれる様になります。
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