【韓国】最近の韓国の国史教科書
公開:2023-11-26 10:26:31 最終更新:2023/11/27 19:03
韓国人の方が、ご自分が使ってらした教科書の一部と、高校生のお子さんが使っている(いた?)歴史教科書の一部をX(旧Twitter)にアップされていました。
古い教科書がいつ頃のものかは正確には分かりませんが、年齢を想像すると、80年代後半くらいでしょうか。
画像を機械翻訳で読んでみたところ、「土地調査事業」に関する部分で、おおよそ、以下のような事が冒頭に書かれていました。
◆以前の教科書
土地調査事業によって不法に奪取された土地は全国農地の約40%にも上った。 朝鮮総督府はこの土地を東洋拓殖株式会社などに渡し、韓国に移住してきた日本人に安値で払い下げた。
いわゆる土地調査事業の実施は、韓国農民の生活を大きく脅かした。 従来の農民はすでに土地の所有権と共に耕作権を保有していたが、土地調査事業以後、多くの農民は地主に有利な期限付き契約による小作農に次第に転落してしまった。 そして生活基盤が弱まった農民たちは日本人の高利貸しに苦しめられるようになり、生計維持のために火田民〔※焼き畑農業を行う農民〕を行うになったり、満州、沿海州などに移住しなければならなかった。
日帝の植民地経済政策は、我が国の米穀と各産業の侵奪種原料を安値で買って行き、日本で作った製品を持ち込んで高値で売って二重に搾取することだった。
※公開時、古い教科書の内容と後述の新しい教科書の内容が逆になっていました。お詫びして訂正します。
◆最近の教科書
一方、現在の教科書は、「強制」とか「強要」とか、悪意のある表現が気になりますが、日本の統治により文明化された事実は記述されているようです。
近代化を目標に展開された民族の啓蒙運動だけでなく、日帝の強制によって伝統社会構造と生活様式が変化した。 朝鮮総督府は植民地規律を確立しようとする目的で生活改善を推進した。 森林令を制定して山で薪採取を制限し、新しい度量衡を強要〔※강요〕し、陽暦使用を推奨した。
一方、日帝強占期には近代文物が流入し衣食住生活に変化が現れた。 衣生活ではゴム靴、運動靴、靴、洋服などが広がり、女子学生の間ではショートカットが流行するなど西洋式服装が次第に普遍化した。 日帝は白い服の代わりに色のある服を着させ、日中戦争以後には男性には国民服を、女性にはモンペ」という勤労服を着るよう強要し衣服生活を統制した。 食生活ではコーヒーやパン、アイスクリーム、ビールなどの西洋食品が消費され、和風うどんやおでんが珍しくなくなった。 しかし、一般庶民は米が不足して雑穀ご飯や樹皮などを食べたりもした。
住生活では1920年代から文化住宅が都市を中心に普及した。 だが、農村の住宅は依然として藁葺き屋根の家がほとんどであり、土幕民〔※〕の人々は都市外郭で堤防、川辺、橋の下などの空き地に地面を掘って藁やむしろのようなものを囲んで暮らした。
※Wikipedia『土幕民』より
同じページのコラムにはこのような写真や説明があります。
④ 幅の広い和風ズボン 1930年代後半、日帝は作業の効率性を掲げ、女性にモンペを強要した。
⑨ 文化住宅 内部に台所と浴室などを備えた当時の最新式住宅だった。
当時、ショートカット(ボブ=おかっぱ頭)が「新女性」の象徴として流行ったそうで、古い朝鮮日報の記事を取りあげたコラム〔下〕で読んだ事がありますが、お下げ髪(三つ編み)が主流だった女学生がボブにした時は一種の社会問題になったようです。
https://www.chosun.com/culture-life/culture_general/2021/10/30/PXWS4TOWCBGDVIIBLMBR3ZSC4A/
[모던 경성] ‘단발娘'은 저항의 상징? 〔[モダン京城]「短髪娘」は抵抗の象徴?〕
2021.10.30.
>1932年、24歳の金起林〔※김기림(キム・ギリム)/詩人〕が雑誌にこのような文を書いた。 「ミス·コリア女性よ、短髪にしなさい」(東光37号 1932年9月)
>ボブは妓生やカフェのウェイトレスの間で流行っていた時代だった。 朝鮮日報記者だった彼は「短髪の様々な形はまた単純と直線を愛する近代感覚の洗練された表現」と擁護した。 モダニスト詩人らしい発想だった。
>1920年代「新女性」「別乾坤」「東光」のような雑誌は先を争って「短髪賛否論争」を特集した。 女性短髪批判の核心の一つは「無分別な西洋文化輸入」だった。
▲上記記事より、1934年、鎌倉でポーズを取る崔承喜(舞踏家)
教科書には「日帝強占期に現れた日常生活の変化」と題して、そんなコラムもありました。
資料1 ボブヘアの女性たち
- いたずらをしていた児童たちも「短髪美人になる。 ほら!」と騒いで、店で物を売っていた人たちも彼らの行く姿を注意深く見る。 - 『別乾坤』〔※별건곤(雑誌名)〕 1926
- 今あなたがショートにしたということは、あなたが縛られていた「ハレム」〔※回教徒の女性の衣服。朝鮮女性も外出時に同様のベールを付けていた。〕に別れを告げたことです。 おとなしく編んだ髪はおとなしいことには違いありませんが、そこにはこの時代遅れの封建時代の夢が流れます。 -『東光』〔※동광(雑誌名)〕1932
もう一つ、レコード歌手のコラムもありました。
尹心悳(ユン・シムドク)という、ソプラノ歌手から流行歌の歌手に転向した女性で、『死の賛美』というヒット歌を唄ったと書かれています。Wikipediaによると、1926年、下関から釜山に向かう船から妻子ある男性と投身自殺した、とあります。但馬オサム氏の『300枚のユニークな広告が語るこんなに明るかった朝鮮支配』によると、朝鮮でも大正時代はデカダンス(退廃的)な雰囲気で、心中とかレズビアンとかが流行ったようです。
土地調査事業に関しては「40%の土地収奪」という記述は無くなりました。その一部を機械翻訳でご紹介します。
土地調査事業の実施(1910~1918)
日帝は韓国の国権を強奪した後、土地を調査し産業と各種資源などを統制し植民地支配の土台を用意した。
日帝は1910年に臨時土地調査局を設置し、1912年に土地調査局を公布して本格的に土地調査事業を実施した。 日帝は土地調査事業が地税の負担を公正にし近代的な土地所有権を確立するためのものだと宣伝した。 しかし、この事業の実質的な目的は地税収入を増やして植民地支配の経済的基盤を確保し、ひいては日本人が簡単に土地に投資できるようにすることにあった。
土地調査事業は決められた期間内に土地所有権者が直接申告し所有地として認められる方式で進行された。 日帝は以前、統監部が国有地に編入した王室所有の土地を朝鮮総督府の所有地にした。 しかし、この土地は実際に農民の所有である場合が多く、所有者を確定する過程で多くの紛争が発生した。 総督府は国有地で作った土地を東洋拓殖株式会社に安値で売却した。
教師の教え方にもよるのでしょうが、お子さんとその周辺は反日感情は驚く程少ないとの事でした。
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