【併合時代】野口遵(のぐち したがう)
下の画像は、ある韓国人の方がX(旧Twitter)に、「これのどこが搾取なのだ...」と書いてポストしていたもので、内容は尹致昊(ユン・チホ)の1941年1月18日の日記です。(原文は英語)
本文機械翻訳: 咸鏡北道〔※現 北朝鮮の日本統治時代の行政区画〕に位置する窒素会社および合弁会社の設立者であり、日本最大の企業家の一つとして5万人以上の労働者を抱える野口氏〔※野口遵/のぐち したがう〕が最近、社会福祉事業に使ってほしいと3000万円を寄付した。 そのうち500万円は日本に留学中の2万人の朝鮮学生を世話するために使われる予定だという。 この金額は日本人個人が公共の有益のために出した寄付額の中で断然最大額だ。 多数の朝鮮人が毎日新聞社で会合を開き、野口氏の寛大な厚意にどのように感謝を表現すべきかについて話し合った。
野口遵は日本統治時代の朝鮮の歴史には欠かせない実業家の一人ですが、念の為調べた所、野口研究所のサイトに同様の内容が書かれていました。該当部分だけ引用します。
https://www.noguchi.or.jp/about_noguchi.php?lang=ja
「おれの全財産はどのぐらいあるか」。1940年(昭和15年)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」
こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とした。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないのではなかろうか。 〔日本経済新聞-20世紀日本の経済人61飛翔編(2000年3月6日)-より〕
野口遵は1944年1月15日逝去します。享年72歳でした。
寄付された500万円は朝鮮人留学生奨学金に寄付され、現在の「公益財団法人朝鮮奨学会」に続いています。
ちなみに、Wikipedia「野口遵」の韓国語ページはありません(笑)
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