【沖縄】琉球は日清両属にあらず!(2)琉球処分と脱清人(だっしんにん)
前回のエントリーとは前後しますが、改めて「脱清人」と「琉球処分」〔琉球の廃藩置県〕について、石井望 長崎純心大学准教授の講義をまとめておきます。
◆琉球処分
琉球は、シナ(明→清)との冊封関係にあった為と薩摩の支配下(附庸国/ふようこく)にあった事で、廃藩置県のプロセスはやや複雑でした。
附庸国の「庸」とは、本来「土」へんが付くそうで、突き固めて造った塀=城壁=城という意味で、簡単に言えば付属する国です。
琉球が薩摩の支配下に置かれたのは1609年以来で、これもまた沖縄の言論界では ”薩摩の侵略” という事になっていますが、戦国時代の延長のような17世紀の出来事です。これを侵略云々言うと、先島諸島の人達は、「オヤケアカハチの乱」(1500年)を持ち出します。
そして、琉球方言は紛れもなく日本語であり、(事実かどうかは別として)琉球王の祖先は源為朝(1139~1170)とされていて、琉球渡りを含めた源為朝の一代記は『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき/曲亭馬琴作、葛飾北斎画)という読本(よみほん)になっています。
薩摩藩を通じて幕藩体制に組み込まれた琉球は検地も行われ、禁教令は与那国島まで徹底していました。
明治4年(1871)7月に「廃藩置県」が行われ、北海道のほか3府72県が置かれますが、琉球に関しては薩摩の附庸国から政府直轄〔既に徳川幕府は無いので天皇直轄〕の琉球藩に昇格させます。これが明治5年の事です。この事は慶事として、首里城では大宴会が行われます。〔※後掲の年表参照〕
そして、明治12年(1879)、琉球藩は廃藩置県となり、沖縄県となりました。この一連のプロセスを『琉球処分』と言います。
◆琉球士族の不満→脱清人
しかし、明治8年(1875)、清国への朝貢停止が命じられると、既得権益を失う事になる琉球士族の不満が爆発します。しかし、彼等自身が戦うわけではなく、清に脱出して(脱清人)、援護を要請します。
結局、清が兵を出すことはありませんでしたが、そのままシナで客死した脱清人を葬ったのが玉城デニーが訪問した「琉球国墓地」跡地です。
これが中国にどういうメッセージを送る事になるか、彼は分かっててやったとは思いますが、”明治政府に琉球を盗られた” 事になっている中国に、”琉球を取り戻す” 口実を与える事になります。
◆廃藩置県は農奴の解放であった
話は脇に逸れますが、琉球では土地の私有が認められず、特に離島は重い人頭税を課せられていたため、廃藩置県は農奴の解放でもありました。その為、琉球最後の王、尚泰が亡くなった時に、祝いの綱引きが行われた程です。沖縄県の不手際で消失した首里城を沖縄サミットの為に再建する時に、一部から「搾取の象徴」と反対の声があったのもこういう理由からです。
沖縄メディアなどが、”琉球王朝” などと呼んで琉球時代を美化し、”平和で楽しく暮らしていた琉球を、明治政府が無理やり併合した” という歴史の捏造をするのは、まるでどこかの国を彷彿させます。
閑話休題。
以下は、動画からキャプチャした画面に追記したもので、「琉球処分の年表」と「関連人物」ですが、ここで問題となるのは、琉球最後の王、尚泰王が密使に持たせて清に送ったとされる3通の密書です。
石井望先生の見解は「偽書である」との事ですが、これについては次回のエントリーでまとめます。
« 【沖縄】琉球は日清両属にあらず!(1)玉城デニーの外患誘致 | トップページ | 【沖縄】琉球は日清両属にあらず!(3)尚泰王による清への援軍要請「なかった」 »
« 【沖縄】琉球は日清両属にあらず!(1)玉城デニーの外患誘致 | トップページ | 【沖縄】琉球は日清両属にあらず!(3)尚泰王による清への援軍要請「なかった」 »





















































test

コメント