【光復】「光復」を巡る、韓国右派と左派の滑稽な争い
「光復」とは「復」という漢字からも分かるように「失われた物(領土)を再び取り戻すこと、元に戻すこと」を意味します。要するに「原状復帰」です。
そして、韓国では毎年光復節(8月15日)付近になると、この言葉を巡って右派(保守)と左派(進歩)が言い争いをします。「建国」(1948年8月15日)か「解放」(1945年8月15日)かを巡る争いです。
◆台湾(中華民国)の「光復節」
まず、分かりやすい例として中華民国の光復節は10月25日です。”解放”された8月15日ではありません。
蒋介石により台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命された陳儀が台湾に上陸(1945年10月17日)し、台湾接受の式典を行った日が10月25日だからです。
中国国民党の歴史観では、中華民国は清の後継国家であるため、清が日清戦争で失った領土(台湾とその付属諸島)を再び支配下に置いた日となり、前段部分はともかく、理屈は分かります。
但し、現在台湾では、光復説は祝日(休日)でなくなり、元々、「双十節」〔(1911年)10月10日:辛亥革命の始まり〕を建国記念日のように祝っています。これはこれで、中華民国体制からの独立派(台独派)は不満を持っているのですが...。
なお、中華人民共和国も双十節を祝います。”蛮族(女真族)から漢民族が国を取り戻した日” だからです。
◆韓国の「光復節」の意味を巡る左右の争い
これに当てはめると、1945年8月15日は ”解放” ではあっても、「光復」ではありません。解放後はしばらく連合軍の占領下であり、当初、米軍は信託統治を予定していたからです。
実際に、南朝鮮(韓国)で「光復」という言葉を大韓民国樹立の意味で使ったのは李承晩です。
では、1948年8月15日が「光復」かと言うと、それも誤りです。
なぜなら、領土を失ったのは李王家なのに、李承晩は自分を投獄した李王家一族の帰国を許しませんでした。
また、李氏朝鮮(~大韓帝国)は、領土も人民も全て王家に帰属するという「家産国家」だったので、国民に主権があったわけでもありません。
◆李承晩の歴史観を無条件に受け入れる右派
それでは何故、李承晩は大韓民国樹立を「光復」と呼んだのでしょうか?
それは、彼の中では1919年建国の「臨時政府」が正式な政府だからです。
彼のロジックでは、1919年に大韓民国臨時政府を樹立していたにも関わらず、日本が ”不当に占拠” していたわけです。それを取り戻したので「光復」なのです。
だから、1948年8月15日を「光復」と呼ぶのは、李承晩の理論では一応、筋が通っています。
李承晩が臨時政府を正式な政府だと思っていた証拠に、1949年10月7日付けで駐日韓国代表部がマッカーサーに送った書簡には、「1919年、大韓民国臨時政府が樹立され、この度の解放に至るまで、連合国側に大韓民国の外交連絡機関を設置し、連合国、特に米国とは密接な関係を持ち...」と、臨時政府を正当化しています。
◆左右の建国年を巡る争い:1919年か、1948年か
となると、一見、韓国右派の言う事が正しいようにも見えますが、そうは簡単にはいきません。建国年を巡る右派と左派の議論にも関係してくるからです。
臨時政府樹立をもって建国とする1919年建国説を採っているのは左派です。一方、右派は1948年を建国年としています。
新生国家「大韓民国」は1948年8月15日に建国されたので、建国年については右派の言う事がもちろん正しいのですが、右派がこれを「光復」と呼ぶことを主張すればするほど、李承晩理論、即ち、「1919年の臨時政府樹立をもって建国」とする考え方を肯定する事になってしまいます。
解決するには、保守は「光復」などという言葉に固執せずに、 普通に「建国記念日」と呼べばいいのですが、彼等にとって、李承晩は ”無謬の人” なので、「李承晩が光復と言ったから1948年8月15日が光復なのだ」と言い続けているわけです。
これに関係して、『ハンギョレ』が面白い記事を書いています。
ハンギョレは極左新聞ですから、もちろん「1919年建国」派です。
この記事が面白いのは、「保守が崇拝する李承晩自身が1919年に建国したって手紙に書いてるぞw」という内容だからです。貴重な文書も添付されている記事なので、長い記事ですが、ご紹介します。
* * * *
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/763741.html
[단독] ‘1919년 건국’ 이승만 문서 공개…건국절 논란 끝내나
2016-10-02
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/25302.html
「1919年建国」李承晩文書公開…建国節議論に終止符か
2016-10-03
- 李承晩の鮮明な自筆サイン…「天皇」に送った公式文書
- 朴大統領「建国68周年」と述べた8・15祝辞と衝突
- 「ニューライトなど建国節制定論者らには痛恨の文書」
「大韓民国(the Republic of Korea)の名のもとに、そしてその権限に従い、私は日本に要求する。すべての武装勢力と軍隊、そして通常の外交使節と諮問官らを除いたすべての日本の官僚と市民などを韓国から撤退させよ。我々は大韓民国が独自的で独立した主権国家(distinct、independent、sovereign State)であることを公式に認定することを希望し、これに合致しないすべての条約上の約束は無効と見なす」
これは1919年6月18日、李承晩(イ・スンマン)が大韓民国大統領(President of the Republic of Korea、当時公式名称は大韓民主共和国執政官総裁)として日本国王(「天皇」)に送った公式文書の内容の一部だ。これは、李承晩を国父として尊び、彼が主導した1948年の分断単独政府の樹立によって大韓民国が初めて建国されたとして、1919年の建国を否定し臨時政府や東北地域の武装抗日闘争の歴史を貶めてきた「李承晩主義者」とニューライトの「1948年8月15日建国節」の主張と、真っ向から背反するものであり、李承晩主義者には自己矛盾となる。この文書は、大韓民国臨時政府記念館建設推進委員会のイ・ジョンチャン会長(友堂記念館理事長、元国家情報院長)が2日に公開した。
この文書で李承晩は自分が「1919年4月23日、韓国が完全に組織された自主統治国家(completely organized、self governed State)となったことを『貴方』(you、日本国王)に公式に通報せよという韓国国民の命令を受けた」とし、このすべての公式業務がこれに基づいたものだと明らかにした。李承晩はこれに先立ち、同年3月1日、韓国全域の300カ所以上の地域で韓国民の総意と意志に従って作成された独立宣言書が朗読されて宣布されたという事実、13道の代表が選出され、彼らが4月23日にソウルに集まり立法部(the Korean National Council、a representative legislative body、to goern Korea)を構成し、そこで自分を大韓民国大統領(President of the Republic of Korea)に選出し、他の執行(行政)部管理(executive officers)も選出したという事実を明らかにした。
李承晩の自筆サイン(Syngman Rhee)が鮮明に記されたこの文書は、大韓民主共和国(漢城政府)の樹立(1919年4月23日)当時、米国に在留中だった李承晩が自分が大統領に選出されたという通報を受けてこれを受諾し、ワシントン現地に大韓民国米国事務所を設けて米国、英国、フランス、イタリアなど主要国と日本など各敵国にその事実を公式に通報した文書の一つだ。
この文書を公開したイ・ジョンチャン会長は「1948年建国を主張してきた李承晩推戴勢力にとっては自家撞着だ」と話した。家の全財産をはたいて満州に新興武官学校などを設立し、独立運動に一生を捧げた友堂イ・フェヨンの孫であるイ会長は「先月28日に光復会が主催した『正しい歴史アカデミー』(9月28日~12月21日、毎週水曜日に開かれる歴史講座)の第1テーマ(『民族史的な建国と大韓民国政府樹立』)第1特別講座の講師を務めた時も、その事実を指摘した」とし、「1948年建国主張論者たちにとっては、もっとも痛恨の文書だろう」と指摘した。
この分野の専門家である檀国大学のハン・シジュン教授は「この文書の存在そのものはすでに知られているが、一般人にはよく知られていないうえ、歴史的文書の原本を一般人が直接接することは容易ではない」とし、「この文書の公開と大衆的な共有は意味がある」と話した。ハン教授は特に「1948年建国を主張している李承晩主義者やニューライトは自己矛盾」とし、「彼らの建国節主張で論争が起こっている今の韓国の現実では、より意味深い」と付け加えた。
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