【関東大震災】朝鮮人6000人虐殺説を検証する
公開:2023-08-15 00:06:33 最終更新:2023/08/15 7:27
関東大震災は1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生しました。つまり、今年は100年目の年に当たり、韓国側でも色々と動きがあるようです。(要するに「謝罪と賠償」w)
流言飛語等による殺人があったのは事実ですが、それに関しては次回補足説明することとして、主に以下の3種類の犠牲者数が知られています。
- 「内務省」公表:248
- 「弔慰金」対象者:832(死亡原因問わず)
- 「独立新聞」(上海臨時政府):6,661
在日コリアン等が主張する6,000人という数字は、朝鮮人が独自に調査し、上海臨時政府の機関紙「独立新聞」に掲載された6,661人を根拠にしていると思われます。
それでは、当時、国内にどれ程の朝鮮人〔当時は朝鮮も国内ですが、以降、便宜的に「在日朝鮮人」と表記〕が住んでいたのか?、彼等に対する救援体制はあったかのか?という事が気になります。今回は基本的な情報と、震災当時の具体的な国内朝鮮人の状況をまとめておこうとおもいます。
◆震災当時の在日朝鮮人数
下の表は『岡山大学経済学会雑誌16(4)』(1985)より、『震災復興期の東京府下朝鮮人労働者に関する人口・職業分析』(松本俊郎 著)より引用&加筆しました。
1920年の在日朝鮮人数30,149人が25年には129,870人と、10万近く増えています。
1923年の正確な数字は分かりませんが、10万人弱、9万人ほどでしょうか〔※ 80,015人と判明。後述〕。同じく県別の数字も分かりませんが、1925年の関東7府県在住の朝鮮人数は在日朝鮮人総数の約15%〔20,335÷129,870×100〕なので、同じ割合を採用すれば、13,500人程度となります。〔1920年の割合は9.9%〕
仮に関東地方だけで6,661人が ”虐殺” されたとすると、13,500人の約49%に当たります。
このような大惨事が起きたとすると、翌年(1924年)の在日朝鮮人数が急増して10万人を突破しているのは不自然だと思わないでしょうか?
しかも、後述しますが、震災後2ヵ月ほどの間(~10月末)に、震災地から一旦、6,335人が帰鮮しているので、関東地方の在日朝鮮人は一時的にほぼゼロになったことになってしまいます。
【追記】※別の資料(Ⅷ 外国人労働者 日本帝国における移住朝鮮人労働者問題)によると、1923年の在日朝鮮人総数は 80,015 。〔データ出所:田村紀之「内務省警保局調査による朝鮮人人口」『経済と経済学』〕関東在住の朝鮮人の割合を15%と仮定すると、12,000人程度。
◆震災直後の朝鮮人の動向
そう言えるのは、『大正震災志』(大正15/1926年)の「下」に記録されているからです。
震災直後、警視庁や日本政府以外に主に在日朝鮮人の保護手配をしたのは、朝鮮総督府の東京出張所でした。朝鮮半島内では、帰鮮する朝鮮人の為に日本赤十字の朝鮮支部や愛国婦人会が入り口となる釜山でケアをしました。
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先に10月末迄の帰鮮者数だけ挙げておくと、
- 震災地からの帰鮮者: 6,335人 〔留学生:1,602、労働者:4,516、その他:217〕
- 震災地外からの帰鮮者: 22,108人 〔留学生:177、労働者:20,942、その他:989〕
となります。〔後掲の【P.572-573】参照〕
震災直後に関東から6千人以上が帰郷したのですから、2人に1人が殺害されるような大規模な虐殺があったとしたら、その話が全く朝鮮内に伝わらないはずがありません。
以下、『大正震災志 下』を提示します。
この本は、主に、日本各地(朝鮮、台湾等を含む各県、団体)や諸外国からどのような支援があったのかが書かれており、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。「第四十六章 朝鮮総督府」は303コマ目~306コマ目迄〔pp.570-577〕です。
【P.570-571】ここでは主に、救護体制や支援物資の確保について述べられています。
【P.572-573】「第九 帰鮮朝鮮人の救護」として、釜山に救援事務所を設置したことや、朝鮮に戻った人数が書かれています。
>〔現代語表記〕 災害地及び各府県より帰来する朝鮮人救護の為に ... 慰問・診療・食糧の給与及び船車の無賃輸送をなし、また、旅費なき者に旅費を支給し、且つ、一身上の措置につき縷々の指導を与えた。
「被災地より帰鮮者 六、三三」は、六、三三五の誤植。
【P.574-575】前項の続きとして、学生の転学を支援したり、「第十一 総督府東京出張所の救護施設」として、被災地の朝鮮人(学生、労働者)に対する救援活動の内容が書かれています。学生に対しては督学部という部署が主に面倒を見、労働者に関しては一般の避難所(収容所)にいる者を適宜移動させたり、帰鮮の面倒を見ているようです。救援活動は10月末まで、約2ヵ月間行っています。
>朝鮮人学生にして、震災地所在の中等学校および専門学校に在学するものにして、朝鮮内同種の学校に転学希望者に対しては、便宜取り計らう事とし、10月末日転学を許可したる者、中等学校203名、専門学校117名、計320名に及んだ。
>学生の救護については、東京主張所、之に当たり、督学部焼残建物3棟に90名を収容し、なお焼け跡にバラックを建てて宿舎とし、その他、食堂・炊事場・洗面所用バラックを建てた。
>労働者の救護、9月中旬において習志野収容者3,200人は、陸軍当局において救護し、目黒収容者617人は警視庁において救護し、この他各警察署において救護せる者900人、相愛会に収容せる者300人、督学部に120人(学生)長白寮に60人(学生)、その他の建物に2,30人ないし60人を収容し、区役所および篤志家において給養し、間接に警察署において保護せる者600人内外、合計5,800余人である。
>9月19日、東京市より明治神宮外苑バラック9棟を借り受け、陸軍および各警察署にて間接に救護しつつあった市内各所に散在せる労働者一千人を収容する事となし、且つ、労働可能者は日本橋救護所に、老幼婦女病者、帰鮮希望者は青山救護所に収容した。〔その他、移動等あり〕
>帰鮮については、朝鮮内の治安関係上、9月28日より開始
【P.576-577】前ページからの続き。被災地と朝鮮からの安否問い合わせに対応したことが書かれており、最後に、企業等からの寄付状況が記されています。
>安否通報、朝鮮在住者の家族または近親者に対して、罹災者の安否通報をなすべく、新聞広告をなし、罹災者の需(もとめ)によりて、朝鮮内に通知すると共に朝鮮内居住者の依頼に応じて安否調査を行いたるが、その取り扱い件数は10月末日迄に8,734件であった。
>罹災朝鮮人に対する同情、特に罹災朝鮮人に対し、金品を寄贈したるものは、東洋拓殖株式会社の金2万円、金3千円(米代)、朝鮮銀行、殖産銀行の各1万4千円、兼二浦三菱製作所〔※兼二浦(けんじほ):現 北朝鮮黄海北道の松林市の日本時代の呼び名。港湾都市・鉱工業都市〕の金7千円、三重県 諸戸静六〔もろと せいろく(実業家)〕の金3千円、福岡県旭硝子株式会社の金2千4百円と物品、漢城銀行東京支店の金1千円をはじめ、第一師団・海軍省に、東京市その他個人より団体よりの寄贈物品は多数に上った。
→ 次回へ続く
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