【日韓併合】果たして李完用は売国奴なのか?【明治外交秘話】
前回のエントリーを読めば、以下の『中央日報』日本語版のコラムが理解できるでしょう。〔探し方が悪いのかも知れませんが、韓国語の記事が見つかりません。〕
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https://s.japanese.joins.com/JArticle/18651?sectcode=100&servcode=100
【噴水台】韓日合邦の魚
2001.08.27 21:58
「網も張る前に魚が飛び込んできた」--。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。
それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。
この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。
1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹ドク漢(ユン・ドクハン)〔※〕著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。
※『이완용 평전 한때의 애국자, 만고의 매국노』(李完用評伝 一時の愛国者、永遠の売国奴) 尹德漢 著
「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」
まず、李完用は「生まれつきの親日派」と見なすことはできない。彼は、1882年文科に及第し、士大夫官僚として出発した。
開化期の初のランゲージ・スクールである育英(ユクヨン)公院で英語を学び、駐米代理公使(1888年)として2年間勤務した。また、尹致昊(ユン・チホ)・兪吉濬(ユ・キルジュン)と共に、英語に長けた3、4人のうちの一人だった彼は、当初親米派として知られていた。その後、駐日公使の発令(1894年)に対し、彼は母親の喪を理由に強く辞すこともあった。
「盲目的な親日派」だった宋秉畯(ソン・ビョンジュン) とは違い、彼は死ぬまで日本語を話せなかった。彼に関する知られざる話はまだある。初代委員長(1896)として独立協会を主導した2つの顔の人物が彼だ。学界は沈黙しているが、独立門に掲げられた扁額も彼の手によるものだという説が有力だ。
実際、徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。
我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳(ウルサ)条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。
あたふたとして正当な判断をせぬまま、うやむやにされてしまった近代史の総体的象徴といえるのではないだろうか。このことを忘れてしまうから、最近の政界でも、あまりにもたやすく親日派のレッテルを貼られることになる。
そうした後、何とも簡単に忘れてしまう。それは醜態以外のなにものでもない。親日派とは、人に対する悪口でなく「我々」を映す恐ろしい鏡なのだ。
さらに「歴史の網」は、その姿を変え、我々の前に幾重にも張られているのではないか。複雑な心境だ。
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『中央日報』にしては珍しく、あるいは、言及されている『李完用評伝』という本に影響されたのか、李完用を単なる売国奴と見て良いのだろうか?、もっと多面的に評価すべきでは無いか?と疑問を呈しています。
韓国では李完用の事を、売国奴以外には「日和見主義者」と評価する人も多いようです。
しかし、当時は清への事大から脱してその他の国に目を向け始めた時で、どこも朝鮮と違って近代化を成し遂げた国でした。
アメリカに学んだ李完用が、朝鮮を近代的な民主国家にする為には文化的にも近い日本に倣うのが一番朝鮮には合っていると最終的に気付くのは自然だと思います。
記事にも書かれている様に、彼は「独立協会」のメンバーで、この『独立』とは清からの独立を意味します。〔李承晩もメンバー〕
日清戦争後の下関条約で清からの独立を果たすと、迎恩門を壊して独立門を建てるのが独立協会の人達。その中心人物の一人が上に名前が出ている徐載弼(ソ・ジェピル)です。そしてその扁額を書いたのが李完用。
日本の明治維新のような改革を目指した朝鮮の知識人達でしたが、幕末の志士達程の勢力はありませんでした。
庶民...と呼べる様な層は朝鮮にはなく、彼等の志など理解されません。
李朝末~大韓帝国期に朝鮮を旅したイザベラ・バードは「朝鮮の国民を分けるとしたら、盗む者と盗まれる者の2つしかない」と記しました。
その「盗む者」... 既得権益層である両班は変化を好まず、併合によって特権を奪われたので日本を恨んでいる。
そんな状態での併合でした。
歴史は誰の目線で見るかによって異なります。
日本からの独立後に韓国の実権を握ったのが元両班中心だったので、韓国の国史は歪められてしまったのだと思います。
さて、併合の交渉ですが、内々に併合に合意していた日本と韓国の大臣達は条件を詰める作業に入ります。
李王家の人々や重臣達には、爵位や王公族として十分な身分と歳費が約束されました。
その時に李完用首相や趙重応農相が最後まで拘ったのが、国号と王の称号です。
日本側は君主が2人いる様な状態はまずいので、「王」は認めず、結局「李王」となりますが、李完用等は祭司者としての李家の「家門」を守ろうとしていたのでした。韓国(大韓帝国)という実態は無くなっても、これされあれば国は生き残ると思ったのです。つまり、彼等にとって、李家は朝鮮の『国体』だったのだと思います。
記事で言及された『李完用評伝』ですが、ネット書店のレビューや書評の動画〔※〕のコメント欄を少し読んでみましたが、「悪いのは高宗じゃないか」と気付いた人も少なくないようです。
※ 이완용 평전, 1부 - 윤덕한 (이희진의 역사읽기)、이완용 평전, 2부 - 윤덕한 (이희진의 역사읽기)
李完用評伝、1部 - ユン·ドクハン (イ·ヒジンの歴史を読む)、2部
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