【日韓併合】「網を打つ前に魚の方から飛び込んできた」【明治外交秘話】
前回のエントリーでご紹介した様に、李王家の人々やその家来達は、あと数日で国が亡くなる事が分かっていて暢気に純宗〔大韓帝国第2代皇帝〕即位4周年の記念パーティーを楽しんでいました。
既に〔1910年〕8月22日に日韓併合条約に調印しており、当初は26日に公布する予定でしたが、記念式典を開催する為にその延期を日本側に要請したからです。〔公布は8月29日〕
その話を伝え聞いた中国人ジャーナリスト 梁啓超(りょう けいちょう)は、「何なんだ、彼等は...」と驚きました。
少し時間を遡ると、1905年の所謂「乙巳条約」〔第2次日韓協約〕で日本が外交権を接収、大韓帝国を保護国にします。この時に賛成した5人の大臣は『乙巳五賊』(いっしごぞく)と呼ばれ、特に李完用は売国奴の代名詞となっています。
しかし、朝鮮時代から家産国家〔領土と人民と財産とを君主の私的な家産として扱うような国家〕である大韓帝国で、大臣達の独断でこのような事ができたでしょうか?
金が無くなれば貨幣を発行するなど好き勝手にやっていた高宗〔第1代皇帝〕は不満を持ち、オランダのハーグで行われた万国平和会談に密使を送ります。〔1907年(明治40年)6月、ハーグ密使事件〕 しかし、日本が各国に手回しをしていたので3名の密使はどの国の外交官からも相手にされず、会場の外で日本を批判する演説を行いますが、その全文を報じた1907年8月22日付『インデペンデント』 によると、このような事も言っています。
「韓国人は旧政権の残忍な行政と探険と腐敗に疲れていたので、日本人を期待して迎えた」、「私たちは日本が腐敗した官吏たちに厳しい基準を適用して民衆に正義を実現してくれると信じていた」 〔ブログエントリー:【ハーグ密使事件】(3)李瑋鐘(イ・ウジョン)の演説の中身〕
韓国の歴史教科書では「中略」で隠されている部分です。
密使の件に腹を立てた日本、そして日本の怒りを恐れた韓国の大臣は、高宗に譲位を求めます。これで第2代皇帝・純宗が誕生するのですが、7月17日に大臣達が参内した時、李完用はこう言ったと伝えられています。
「社稷重しと為す。君軽しと 為す。」
これは孟子の言葉で、本来は「民尊しと為し、社稷は之に次ぎ、君軽しと為す」(民爲貴、社稷次之、君爲輕)で、社稷とは「土地の神と五穀の神」の意味で「国家」の古風な言い方。「民は国家よりも大切であり、また国家は君主よりも尊いものである。」という意味です。
李完用は、王の代わりはいるけれど、国家が亡くなっては元も子もないと言いたかったのでしょう。
ちなみに、高宗の退位に関わった7人の閣僚は『丁未七賊』(ていびしちぞく)と呼ばれます。
1909年(明治42年)10月26日、伊藤博文が暗殺され、日本で「併合」論が強まります。但し、伊藤もその前に統監職を辞す意向を固めて日本に戻っており、4月10日には併合に同意しています。諦めの心境だったようです。
日本側は併合に向けて慎重に策を練ります。
しかし、先に動いたのは大韓帝国側でした。
「網を打つ前に魚の方から飛び込んできた」
小松緑は当時の統監府外事局長で、後に『明治外交秘話』を著します。
ここに登場する李完用首相、趙重応農相、李人稙(イ・インジク:李完用の秘書)の名前を覚えておいて下さい。
次回に続きます。
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