【広島・原爆】張本勲さん「日本に『謝罪せよ、金を出せ』、いつまで繰り返すのか」【朝鮮日報】
公開:2023-05-12 08:55:33 最終更新:2023/05/12 13:39
『朝鮮日報』に元プロ野球選手の張本勲氏のインタビューが掲載されていました。機械翻訳でご紹介します。
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※『朝鮮日報日本語版』の記事が公開されたので、翻訳はそれを拝借しました。
https://www.chosun.com/international/japan/2023/05/12/LUBK6MP7AFDCXEFSBQUKTZUQZU/
日야구전설 장훈 “원폭에 누나 잃어… 위령비 참배 결단에 감사”
2023.05.12.
日本野球伝説の張本勲「原爆で姉を失う… 慰霊碑参拝の決断に感謝」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/05/13/2023051380028.html
「原爆で姉を亡くした…韓日首脳の慰霊碑訪問決断に感謝」 被爆者で日本球界のレジェンド、張本勲さんインタビュー(上)
2023/05/13 11:05
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/05/13/2023051380029.html
「私の祖国だから言える…韓国は日本に『謝罪しろ、カネを出せ』といつまで言うのか」 被爆者で日本球界のレジェンド、張本勲さんインタビュー(下)
2023/05/13 11:35
広島の生存被爆者「日本野球の伝説」張本勲氏インタビュー
「真夏で蒸し暑かった1945年8月6日、当時5歳だった私が友達と外に遊びに行こうとしていたところ、『ピカッ、ドン』という音がしました。気を失った後、目を開けたら、母が私をギュッと抱きしめていました。ガラスの破片が突き刺さった母のチマチョゴリ(韓服)は血で赤く染まっていました」
10日、在日韓国人2世の元プロ野球選手、張本勲さん=韓国名:張勲(チャン・フン、82)=は広島に米国の原子爆弾が落ちた瞬間を語りながら、何度も涙ぐんだ。80歳を過ぎても、78年前の記憶が生々しくよみがえるようだった。張本さんは「その日は避難して、町の畑に行きましたが、ひどいやけどを負って皮膚が焦げた人だらけでした。ひどいにおいも覚えています」と話した。
張本さんは日本プロ野球界で23年間にわたり活躍し、3085安打・504本塁打を記録したスター選手。日本プロ野球の殿堂入りを果たしているが、韓国国籍者だ。太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、米軍が広島に投下した原爆で生き残った被爆者でもある。
尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と日本の岸田文雄首相は7日の韓日首脳会談で、G7広島サミット(第49回先進国首脳会議、5月19日-21日)に合わせ、広島平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れることで合意した。被爆者であり、日本で自ら韓国人であることを公表して生きてきた張本さんが、両国首脳の慰霊碑訪問に対して抱く感慨はひとしおだ。「新型コロナのことで対面は難しいです」という張本さんは電話インタビューに応じてくださった。インタビューでこのニュースについて尋ねると、「お二人には感謝しかありません」「もう(訪問する姿が)ありありと目に浮かんでいます。戦後初めてですよね? 私も、私の家族も、在日同胞たちもみんな、韓国人原爆被害者慰霊碑に行きます。うちの(=在日同胞の)おじいさん、おばあさん、おじさんたちがみんなそこに眠っているからね。慰霊碑の前に立つたびに、心の奥底では「お金を稼ぐために遠いよその国まで来ていなかったら…」という思いもありますが、これもすべて人生だということではないでしょうか」と答えた。
張本さんは1940年6月19日、広島市内で生まれた。両親は慶尚南道昌寧郡大合面の出身だ。1939年に母親が兄1人と姉2人を連れて広島に来た。お金を稼ぎに日本に来た父親について来たのだ。その後、父親は帰国して病死し、家族は故郷に帰らず日本に定住した。
原爆による3000℃を超える熱で完全に破壊されたり全焼したりした家屋は広島だけで5万2000軒に達した。爆心地から直径1.2キロメートルの区域に住んでいた人々の半数が死亡した。白血球減少など被爆の後障害で、1945年末までに広島の人口の40%に当たる約14万人が亡くなった。張本さんは「熱が体を焼き、人々の顔や手の形が変わった。人間の肌や肉が焼けたにおいはひどいものだった。熱気のせいで多くの人々が畑に行く途中にある小さな川に飛び込んだが、みんな死んだ」と話した。
〔画像省略〕 1977年1月、韓国を一時的に訪問した張勲(チャン·フン、右)が母親の朴順文(パク·スンブン)女史とともに本紙とのインタビューで撮った写真。 張本勲は当時のインタビューで「日本の野球しか知らない思考力を広げ、母国のプロ野球設立にもっと役立てたい」と語った。 パク女史は「息子が走る立派な姿を見るのが大きな楽しみ」と話した。/朝鮮日報DB
その日、張本さんの家族も全員無事という願いはかなわなかった。張本さんは「いつも自慢に思っていた、肌が白く背の高い小学6年生の長姉を亡くしました」と言った。「原爆が投下された時、(張本さんと母親・次姉がいた自宅ではなく)長姉は数十人の子どもたちと一緒に学校で倒れました。母親は熱で溶けて顔も分からない子どもたちの中から名札を頼りに姉を探しました。姉は色白で、一緒に道を歩いているとみんなに『きれいだ』と言われていたのに…。その顔がただれてしまい、見分けもつきませんでした」
全身にやけどを負った長姉は再会を果たした翌日、この世を去った。張本さんは「母親に『姉はいつ死んだのか』と尋ねたが、何も答えなかった」と話した。「明け方に(母親が)号泣する声が聞こえたから、多分その時だったのでしょう。『地獄という世界があるのなら、その瞬間こそまさにそうだった』と今でも思います」。A・B・C・D等級に分類された被爆者健康手帳(広島・長崎の原爆被爆者に日本政府が交付する手帳)にはA等級と記されている。張本さんは「原爆投下地点から1キロメートル以内にいたという意味です」「大体2-3キロメートル離れていた人々はほとんど死にましたが、私は助かりました。運命というのは恐ろしいものです」と言った。裕福でなかった張本さん一家は江戸時代(1603-1868年)からあった、山の中腹の奥まった集落で暮らしていた。その山が原爆の放射能と熱を防いでくれたのだ。
◇「本当に恐ろしいのは原爆以降の社会」
張本さんは「本当に恐ろしいのは原爆以降の社会でした」と言った。「被爆者は韓国人であれ、日本人であれ、日本社会で差別されました。原爆によって手脚がなくなったり、やけどを負ったりした子どもたちとは遊んでくれませんでした。親たちが『被爆も伝染病のように移る』と考えていたからです」。張本さんはプロ野球選手を引退して60歳を過ぎるまで、被爆者であることを公表していなかった。「人が焼けるにおい」を思い出すのが怖く、被爆の記憶がよみがえりそうになるとバットを振ったという。2000年代半ば、日本の番組を見ていた時、若い人々が「原爆が落ちた地点を見物したい」と言うのを聞いて激怒した。2006年8月15日の終戦の日に日本のある番組に出演し、「我々の世代は戦争を、そして原爆の体験を後世に残すべきです」と語った。
一日のうち1食分は水を飲んでしのいでいたころ、張本さんは兄・世烈(セヨル)さんのおかげで大阪の高校に入学して野球選手になる夢をはぐくむことができた。タクシー運転手をして月3万3000円を稼ぎ、1万円を弟に毎月送った。母親ははじめこそ反対したものの、最終的には家族全員から応援されて大阪の浪華商業高校=現:大阪体育大学浪商高校=の4番打者としてプレーした。
張本さんを「韓国人」だと自覚させてくれたのは母親だった。18歳の張本さんを、日本プロ野球チームの東映フライヤーズ=現:北海道日本ハムファイターズ=がスカウトした。だが、問題があった。日本のプロ野球チームでは「外国人選手は2人まで」という規定になっていたが、東映には既に米国人選手が2人いたのだ。そこで、東映のオーナーは養子縁組を提案した。日本国籍に「ロンダリング(洗浄)」しようということだった。「球団オーナーの話を伝えたら、母に『もういい。野球をやめなさい。祖国を売ってまで野球選手になる必要はない』ときっぱり言われました。東映は結局、日本野球機構に圧力をかけ、「1945年以前の日本生まれの選手は例外」という規定を追加させて張本さんを入団させた。
張本さんは「その日の夜、母は『日本は武器と人が多いから韓国が負けただけで、同じ武器だったら負けていなかった。韓国はこれから負けたらだめだ』と言いました。その時、母が『朝鮮半島』の強い女性だということを知りました」と話した。息子のすべてだった野球よりも、うんざりするような貧しさから抜け出すよりも、母親にとっては祖国の方が大切だったのだ。1980年に張本さんが3000安打という大記録を打ち立てた時、母親の朴順分(パク・スンブン)さんは張本さんが当時所属していたロッテオリオンズの本拠地・川崎球場にチマチョゴリ(韓服)を着てやって来た。張本さんは「母はいつもチマチョゴリしか着ない韓国の母親」と言った。張本さんの日本プロ野球歴代最多安打記録は今も破られていない。イチロー(鈴木一朗)選手が米大リーグで活動していた2009年に日米通算安打数で張本さんの記録を上回っただけだ。
1959年から23年間プロ野球選手として生きてきた張本さんが、身をもって日本の差別を受けた出来事〔※後述〕がある。日本最高の野球チームとされる読売ジャイアンツ(巨人)に所属していた時に通算2961安打となり、新記録達成まであと39安打となった時点で、ロッテにトレードされたのだ。「日本の自尊心」である巨人では「韓国国籍者」が大記録を達成することを望まなかったのだ。
◇「『日本に謝罪しろ、金を出せ』いつまで繰り返すのか」
「韓国を恨んだことはないのですか」と尋ねると、張本さんは「プロ野球選手というのはみんな、やじを飛ばされるものです。それを『韓国人だからやじられる』と言ってとがめたりはしません」と答えた。ところが、「だが、恨んだことはあるにはあります」と言って、全く違う話を切り出した。「言ったら大変なことになるから誰も言わないけど、私は日本人ではなく在日韓国人だから、(韓国は)私の祖国だから言いますね。いつまで日本に『謝罪しろ』『金を出せ』と繰り返さなければならないのですか? 恥ずかしいです。当時は弱肉強食の時代で、韓国は弱かったから国を奪われました。絶対あのようにやられてはいけなかったのに…。これからは韓国もプライド(自負心)を持って日本と対等に手を取り合い、隣国としてやっていけばいいのではないでしょうか」。
さらに、「(反日などと)そんなことを言う人たち、いい加減にしてほしいですね」「文在寅(ムン・ジェイン)前大統領が隣国(日本)を敵に回した時、私たち在日韓国人はとてもつらかったです。その分、今、韓日関係の雪解けを進めてくれている尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領には感謝しています」と語った。「尹さん(尹大統領に対する日本式の尊称)はやはり格好いいところがあります。韓半島(朝鮮半島)の真の男です」「日本の岸田文雄首相も歴史問題について『心が痛む』と言いました。『謝罪する』という言葉は使いませんでしたが、(在日韓国人の)私には理解できます」と話した。
そして、張本さんは「60歳までは(原爆の)惨状を展示した広島平和記念資料館に一度も行けませんでした。2回ほど資料館の入口までは行きましたが、手が震えて入れませんでした」と打ち明けた。「初めて資料館に行った時、小学生がはくサイズくらいの小さなスカートを見て、『こんなに小さな子も死んだんだ』と涙がこぼれましたが…」と言いかけて言葉に詰まった。それでも、泣き声まじりに語り続けた。「館員がそばに来て、『高校3年生の服です』と言いました。被爆すると人もこんなに小さくなるのだろうと思うと、涙がこみ上げました」。また、北朝鮮の核挑発行動については「私は政治のことはよく分かりませんが、戦争は体験しているからよく知っています」と言った。「広島では20万人が亡くなりました。お互い話し合って問題を解決するから人間なのではないでしょうか。私たちは獣ではないでしょう? どんなことがあっても、戦争だけはダメなんです」
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コメント欄は韓国の英雄として称えるものと、「いつまで謝罪や金を求めるのか」の部分に反応して、反日を煽動した前政権や左派を批判するものが多いようです。
【※追記】巨人から放出されたいきさつですが、巨人最終年は成績が悪かったようです。
>1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和[61]生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。翌1979年は左目の疾患で夏場に40試合ほど欠場[62]、77試合の出場に終わり、打率.263、8本塁打と低迷して戦力構想からも外れた。
そもそも、王選手が中華民国国籍なのに。
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