【李承晩TV】慰安婦 姜徳景(カン・ドクギョン)の隠された話
挺対協(現・正義連)が出版した証言集の第1巻に「挺身隊員から慰安婦へ」というタイトルで姜徳景(カン・ドクギョン)の証言が収録されています。しかし、ここで語られている彼女の体験談は幾つか不都合な話が除かれている、というのを『李承晩TV』が解説しました。
彼女の「語られなかった話」は『“記憶”と生きる: 元「慰安婦」姜徳景の生涯』(土井敏邦 著/2015/4/20)に書かれているそうです。
- 李承晩TV(日本語字幕無し):위안부 강덕경이 숨긴 이야기
慰安婦 姜徳景の隠された話
詳細はTwitterにスレッドの形でまとめたのですが、ここでは何が「隠された話」なのか、簡単に説明します。
彼女は1992年に慰安婦であると挺対協に名乗り出ました。
挺身隊員であった事は事実で、1944年に富山県の不二越で働きますが、2回脱走を試み、2回目の時に憲兵に見つかって暴行され、長野県の松代で慰安婦として働かされたと証言しています。しかし、その移動方法などは詳しく語られていません。
ここで注意しなければならないのは、当時の朝鮮の女性は就学率も低く、挺身隊は義務では無く、斡旋の形でした。彼女は公立普通学校から晋州第一国民学校高等科に進学した恵まれた境遇でした。当時の女性としては上位3%程の中に入っていただろうと朱教授は語ります。
当時の学籍簿も残っており、2年生の時に不二越に挺身隊として行ったと書かれています。彼女は実父と継父と死別するなど、家庭は複雑でしたが、母親の実家が裕福だったのです。
元挺身隊員の証言で多いのは、「働きながら学校で勉強できる」という甘言に騙されたという話ですが、姜徳景にはその動機は当てはまりません。
証言集では語られていませんが、2人の夫と死別した母親は隣の男の子供を産んでいたそうで、土井敏邦氏は「母親からの逃避」ではなかったかと想像しています。
長野県で ”慰安婦” をしていたと言いますが、国内(内地)には慰安所はありません。当時、松代に大本営と政府機関移転計画があり、大規模な地下施設が建設中だったので、兵隊や労働者向けの置屋が幾つもありました。恐らく、彼女はそのどこかで働いていたのでしょう。
終戦後、新湊(富山県)に住む朝鮮人の家にしばらく滞在、同居人の日本人女性と一緒に45年12月帰国。姜徳景は妊娠中で、出産後、孤児院に預けて働きますが、子供が死亡します。
その後は結婚せずに色々な仕事をしていたと証言集には書かれているそうですが、実は米兵や新聞社勤務の男性、ビニールハウス農園の男性と同居しています。
新聞社勤務の男性は優しかったようですが、農園の男からは虐待を受けて別れます。
その後は苦しい生活だったようで、そんな時に、元慰安婦を募集していると話が耳に入り...。
最初にカミングアウトした金学順もそうですが、大金を貯めた事で知られる文玉珠も後半生は男運が悪く、金も使い果たして寂しい生活をしていました。
そうした時に、元慰安婦として名乗り出れば大金を貰えると知ったら...。
もちろん嘘はいけませんが、名乗り出た後、貰うものだけ貰って後は沈黙しているのなら、まだ人情として理解できます。
しかし、姜徳景は絵が上手だったので(但し、プロの手が入っていると指摘あり)、彼女は絵で日本や日本軍を告発し続けます。
下は彼女が描いたという絵。
桜の木は日本兵の象徴で、その根元に裸で横たわる慰安婦。地中には慰安婦の髑髏が埋まっています。
彼女の絵はこうした観念的なものが特徴です。
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