【慰安婦問題】赤瓦の家の慰安婦、裴奉奇(ペ・ポンギ)さん(3)慰安所生活~戦争~戦後
前回のエントリーの続きです。
ペ・ポンギさんが興南の街で女紹介人に声を掛けられたのが1943年の晩秋、29歳の時でした。そこから最終的に慶良間諸島の渡嘉敷島に向かうのですが、釜山に来たのが数ヶ月後。そこから門司/下関を経由して51人の女性が鹿児島を出発するのは44年の11月になっていました。
那覇はその1ヵ月程前に十・十空襲を受けており、そこでは1~2泊しただけで、20名の女性と共に渡嘉敷(とかしき)、座閒味(ざまみ)、阿嘉島(あかじま)に向かう船に乗ります。
渡嘉敷島の慰安所は接収された仲村渠(なかんだかり)家で、そこに配置されたのは、アキコ(ペ・ポンギさん)の他は、キクマル、ハルコ、スズラン、カズコ、ミッちゃん、アイコの6人で、ペ・ポンギさんは30歳になっていました。
この家が空襲に遭うのは1945年3月23日なので、慰安婦として働いたの5ヵ月に満たない期間ですが、ペ・ポンギさんは慰安所生活について多くは語っていないようです。
朝晩、家畜に餌をやりに行ってた仲村渠家の長女初子さんが、スズランに「こんな若い人がお化粧もしないで、汚いものばかりいじってかわいそう」と、お化粧をしてくれた思い出を語っています。どの島の慰安所も村はずれにあったので、慰安婦達と島民との交流は少ないようですが、慰安所の隣にある新里(しんざと)家には遊びに来ていたようです。
3月23日の空襲でハルコが死にました。その時は簡単に埋葬しましたが、戦後、新里家の人が骨が見えているのを見つけ、壺に入れて埋葬していたのを、1962年に戦没者慰霊の「白玉の塔」が建てられた時、軍人の遺骨とともに合祀されたそうです。
『赤瓦の家』の著者の川田文子氏と共に渡嘉敷島を訪れたペ・ポンギさんはそれを知って「ハルコの遺骨をそんなにまでしてくれて、ありがたいよね。」と言ったそうです。
その後は、終戦まで軍の炊事版で働いたりしながら戦禍を生き延びました。武装解除は8月26日で、ペ・ポンギさんも第三戦隊と共に武装解除式に臨んだと言います。
「ずーっと山に隠れている時、日本は勝つ、日本は勝つ、いつも心の中で思ったよ。そう思ってたのが、はい、日本は負けてね。〔隊長が剣をアメリカーに渡すのを見て〕アメリカーが取るのを見たら、悔しかったよ。」
その後、ペ・ポンギさんは本島の石川収容所に送られます。そこに1年いたのか4年いたのかも記憶がないそうですが、収容所を出た後、再び放浪が始まります。
その間、1972年5月に沖縄が日本に返還され、ペ・ポンギさんも身体が言う事を聞かなくなって、周囲から勧められて入国管理局へ特別在留許可を申告するのが1975年10月でした。
川田文子氏が取材を始めるのが77年12月。ペ・ポンギさんの少ない言葉の間を埋めるように慶良間諸島で取材したり、残りの慰安婦の消息や姉を韓国に尋ねたりと、丹念な取材の様子が本の後半を占めます。
ペ・ポンギさんは1991年10月18日、那覇市のアパートで息を引き取っているのが発見されました。享年77歳。
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『李承晩TV』も彼女の生い立ちなどを日本語字幕付きで解説しています。(2021/06/28)
- 強制連行・性奴隷説に汚染されていない証言、慰安婦ぺ・ポンギ
当ブログの前回エントリーと今回エントリーの内容に該当。
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ところで、本国ではあまりに話題にならなかったペ・ポンギさんですが、朝鮮総連が接近していたようで、それが(1)のエントリーでご紹介した『東京新聞』の記事の希望の種の活動に繋がるのでしょう。彼女の晩年、面倒を見ていたという在日朝鮮人夫婦の肩書きが元総連の働き手などとなっているので調べたら、沖縄県本部の設立で沖縄に移り住んだ夫婦のようです。
以下、月刊イオという雑誌の編集部ブログから。
https://www.io-web.net/ioblog/2021/10/28/86481/comment-page-1/
那覇の同胞を訪ねて
2021年10月28日
〔前略〕初回は、那覇市。
「沖縄に暮らす同胞」というと、真っ先に名があがる2人にお会いすることができた。
まずは、元総聯沖縄県本部活動家の金賢玉さん(79)。
金さんは、1972年の沖縄の本土「復帰」後、在日本朝鮮人総聯合会沖縄県本部の設立を機に、夫の金洙燮さん(2019年逝去)と沖縄へ渡り、沖縄に暮らす在日朝鮮人の権利擁護に取り組んできた。
また1975年に、日本軍性奴隷制被害者の裴奉奇ハルモニと出会い、亡くなるまで寄り添い続けた。
日本軍「慰安婦」とされ、日本軍が勝ってこそ生き延びることができると思っていた裴奉奇ハルモニは、金さん夫婦と出会った当初も日本軍の敗戦を悔やんでいた「皇民化政策の産物」だったという。
その存在が知られるようになり、朝鮮新報に自身の被害を告発(1977年4月23日)するまでの葛藤、金さん夫婦と過ごすなかで、総聯コミュニティ、祖国、分断について知っていき、朝鮮人としての尊厳を回復していったこと― 〔中略〕
これまで、修学旅行で沖縄を訪れる朝鮮学校の生徒たちに、沖縄についてや、裴奉奇ハルモニについて講演してきた金さん夫婦。昨年はコロナ禍で修学旅行が中止となったが、来年1月に生徒たちが訪れるのを心待ちにしているようだ。〔後略〕
金氏はそのように語っていますが、他人との関わりを避けていたペ・ポンギさんなので、総連の広告塔には利用されなかったようですが、今また希望の種が利用しようとしているようです。
唯一の地上戦を経験した沖縄の方々、数奇な運命でその戦争に巻き込まれた朝鮮人女性、この方達の苦労の記憶を留めておくと同時に、ペ・ポンギさんの正確な情報を語りつぎ、変な団体に利用させないようにしなくてはなりません。
なお、『李承晩TV』も約1年前に「強制連行・性奴隷説に汚染されていない証言、慰安婦ペ・ポンギ」(강제연행 성노예설에 오염되지 않은 증언, 위안부 배봉기)というタイトルの動画を公開しています。
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