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2023/04/18

【慰安婦問題】赤瓦の家の慰安婦、裴奉奇(ペ・ポンギ)さん(2)慰安婦になるまで

前回のエントリーの続きです。

ここに1枚の新聞記事があります。

 

20230417_19751022_pepongi01

 

1975年10月22日付の『高知新聞』の記事で、『共同通信』が配信した記事との事です。

戦時中、沖縄に連行の韓国女性 30年ぶり『自由』を手に」 、「不幸な過去を考慮 法務省特別在留を許可」といったタイトル・サブタイトルがついています。

画像は解像度が低くて読みにくいのですが、「慰安婦報道の出発点 1991年8月に金学順が名乗り出るまで」(水野孝昭 著/2019年3月)という論文から引用すると、冒頭は以下のように書かれています。

「【那覇】太平洋戦争末期に、沖縄へ『慰安婦』として連行され、終戦後は不法在留者の形でヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手に した。当時は『日本人』でも、いまは外国人。 旅券もビザもないため、強制送還 の対象となるところだったが『不幸な過去』が考慮され、韓国政府の了解を得た うえ、法務省はこのほど特別在留許可を与えた。〔...〕沖縄戦へ強制連行された 朝鮮人の証言が、 直接得られたのは初めてだ。」

 

この記事の元慰安婦、裴奉奇(ペ・ポンギ)さんが世に知られた記事ですが、彼女は沖縄が日本に返還された事により正式の滞在許可を得る手続きをした事がきっかけでその存在が知られました。

彼女については『赤瓦の家』(川田文子 著、1987/2/1)に詳しく、著者はフェミニズムの立場から取材していますが、まだ慰安婦がそれ程大きな日韓の問題とはなっていない時なので、扇情的な表現も無く、約10年を掛けて地道に取材した成果と言える本です。

但し、この本を読む時に気を付けなくてはならない点が2つあります。

1つは、著者が、済州島で慰安婦狩りをしたという吉田清治の証言に影響を受けている事。実際に本の中で吉田清治に言及しています。慰安婦の実態がよく分かっていなかった時期なので、「連行」という認識でいる事です。また、挺身隊と称して慰安婦にさせられるという都市伝説を信じています。

もう1つは、ペ・ポンギさんが嘗て慰安婦をしていた慶良間諸島で起きた集団自決を「軍の命令」と信じている事です。大江健三郎や沖縄メディア、沖縄の活動家の反日・反日本軍キャンペーンにより拡散されたデマなのですが、実態は、遺族が恩給を得られるように、軍の命令だとしてあげた事が恩を仇で返される結果となりました。 〔櫻井よしこコラム(2007.01.11):「沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣

 

ペ・ポンギさんは金学順氏より16年も早く存在が知られた人で、本来なら慰安婦問題の象徴になっても良い人ですが、正義連(旧・挺対協)などの慰安婦利権者がまだ元慰安婦の女性を本格的に利用する前に見つかった事と、典型的な「貧困~甘言に騙されて慰安婦になった」タイプで、慰安婦になる経緯に日本軍など登場しないので、あまり利用価値がないのでしょう。

 

◆ペ・ポンギさんの生涯 慰安婦になるまで

彼女は1914年9月5日、貧しい小作人の次女として生まれ、2歳上の姉と弟がいました。甲斐性が無くてろくに家に帰らない父親、その苛立ちからか母親からしばしば折檻を受け、ペ・ポンギさんが7歳になる以前に母親は姿を消してしまいました。

弟はどこかに預けられ、父親の実家に引き取られます。その家も貧しく、7歳の時にミンミョヌリ〔민며느리:将来息子の嫁にする為に幼い時から連れてきて育てる少女〕に出されます。体のいい口減らしであり下女です。

これ以降、婚家から返されたり、再びミンミョヌリに行ったりと他人の家を転々として、17歳の時に結婚しますが、夫は出稼ぎで殆ど家に帰らず、兄夫婦の家の居候状態で、ペ・ポンギさんはここを逃げ出します。再び結婚するも、ぐうたらな夫で、見切りを付けた彼女は家を出ます。

この後、1943年に興南という街で日本人と朝鮮人の ”女紹介人”(女衒)に声を掛けられる迄の生活は、本人の口が重いのでよく分かりません。本人曰く、「あっち転々、こっち転々、人の家、手伝い、あっちがいいかと思ったら、あっちへ行くし、こっちがいいかねと思ったら、そこへ行くし、そんなさ。」〔『赤瓦の家』pp.38-39〕

60人ほどの女性達に混ざって釜山から下関に行き、そこから6人が渡嘉敷島に着くのが1945年3月です。29歳でした。

多くの記事、前回ご紹介した『東京新聞』の記事もそうですが、「仕事をしなくても金を稼げる」と言われたと書いていますが、上掲の記事には「シンガポールでいい儲け仕事がある」と言われたと書かれています。これは事実で、『赤瓦の家』にも書かれていますが、最初はそう言われていたのだそうです。

彼女は生涯、ほぼ文盲でした。頼れる家族も無く、日本軍慰安婦にならなくても、ほぼそれと同じような仕事をするしかなかったのではないでしょうか。

ここまでで分かるように、彼女が慰安婦になる経緯に日本軍だの強制連行だのといった話は出てきません。

 

次回に続きます

 

 

  


 

 

 

 

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