【”徴用工”問題】戦時中の播磨造船所の給料袋、元在日二世の方が産業遺産情報センターに寄贈【産経】
まずは記事のご紹介です。
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https://www.sankei.com/article/20230316-HF2KIMTFDVMPFJNEQPAUGYFNF4/?370414
<特報>「徴用工」に給料袋 適切報酬の証拠 遺族寄贈「歴史認識に活用を」
2023/3/16 21:20
日本統治下の朝鮮半島から「内地」に渡った労働者が、勤務していた兵庫県内の造船所で受け取った給料袋などが見つかり、「産業遺産情報センター」(東京)が保管していた遺族から入手したことが16日、分かった。半島出身の労働者にも適切な報酬が支払われていたことを改めて示す一次資料を同センターが入手するのは初めてで、いわゆる「徴用工」問題を払拭する重要な証拠と位置づけている。
同センターが入手した給料袋などは、兵庫県相生市在住の元在日2世で令和元年に日本に帰化した清本清一さん(78)から託された。清本さんの父親が、相生市の播磨造船所に勤務していた昭和17年1月〔1942年〕から終戦後の20年10月〔1945年〕までに受け取った給料袋約40点をはじめ、当時書かれたメモや戦時中の造船所の労働者名簿など多数にのぼる。〔...〕
「戦後最悪」といわれるまで日韓関係をこじれさせたのは文氏に責任があると考える清本さん。「徴用工の問題は日韓間では解決済みで、韓国政府が自国内で努力すべきもの」としたうえで、「この資料が日韓両国が歴史認識を正しく持つために活用されるなら、大切に保管してきた父への親孝行になる」と話す。〔...〕
■徴用令適用は大戦末期
1910(明治43)年の日韓併合後、朝鮮半島から就労目的で渡日する人は多かった。その後、昭和12年から始まった日中戦争の長期化に伴い、重要産業の労働力確保を目的として半島出身労働者は「募集」や「官斡旋(あっせん)」の名称で集められた。14年に制定され内地の全国民を対象とした「国民徴用令」が半島に適用されたのは先の大戦末期の19年〔1944年〕9月からだった。「募集」や「官斡旋」は、基本的に自由意思による内地への渡航だった。
播磨造船所は戦時中、商船建造では国内4位のシェアを占め、これに艦艇建造も加わって活況を呈した。国民徴用令に基づく指定工場となり、全従業員が徴用に応じた「応徴士」扱いとなった。17年から勤務していた清本清一さんの父親も同様になったとみられる。
社史によると、同社が17年〔1942年〕から終戦にかけて雇用した半島出身労働者は約2千人。終戦時に朝鮮半島への帰還を希望する従業員に対しては、旅費や徴用慰労金、15日分の食料、衣服、日用品を支給したという記録が残されている。
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記事には産業遺産情報センター長の加藤康子さんと清本さんの写真がありますが、帰化されたとは言え、顔や実名を出すのは勇気の要ることではないかと思います。軍艦島(端島)の住民だった在日の方は、証言を公開した事で在日同胞から嫌がらせを受けていたと、以前、『虎ノ門ニュース』で西岡力教授が語っておられました。
給料袋からは、左に「支給賃金」、右に「控除金」が書かれ、各項目は部分的に画像が粗くてよく分かりませんが、産経の記事によると、手取り額は多い月で200円以上で、遺品にあったのでしょうか、20年当時のはがきの金額(5銭)から換算して、1260倍とすると約25万円だそうです。社宅の家賃が控除されているので、悪くない収入です。また、慰安婦の文玉珠(ムン・オクチュ)が「家でも買いなさい」と実家に千円送った話(東京では家一軒5千円くらい)からすると、戦時中のある時期には1万倍くらいの換算率であった事になります。
ところで、韓国人は漢字が読めないからか、あるいは、視聴者はどうせ漢字が読めないと高をくくってか、給与明細のような「証拠」を無造作に映し出すことがあります。
これに関しては、この後追ってエントリーします。
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