【茶文化】抹茶ブームが日本から中国に逆輸入/韓国には何故茶の文化がないのか〔崔吉城〕
『AFP』に興味深い記事があったので、ブログ主の覚え書きとしてエントリーしておきます。
嘗てあった抹茶が中国では廃れ、抹茶茶碗も消えていたのを、昨今の抹茶ブームで日本から逆輸入されたという内容です。
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https://www.afpbb.com/articles/-/3456656?act=all
抹茶ブームが日本から中国に逆輸入 茶の湯文化の復活もなるか
2023年3月23日
【3月23日 東方新報】抹茶ケーキに抹茶ラテ、抹茶成分入りの美容石けんや化粧水など、中国では日本発の抹茶ブームが数年前から続いている。茶葉を粉末にして飲む抹茶法は12世紀ごろに中国から日本に伝えられたが、発祥の地、中国では長く忘れられてきた。近年、日本から中国に逆輸入された形である。
中国で抹茶の飲み方を書物としてまとめたのは北宋〔※960年 - 1127年〕の第8代皇帝の徽宗(きそう)〔※1100年2月23日 - 1126年1月18日〕だといわれている。徽宗は皇帝の公務には関心を示さなかったが、書道や絵画、骨董(こっとう)に詳しく、茶の湯をたしなむ文化人だったといわれる。その著書「大観茶論(たいかんちゃろん)」には、抹茶のおいしい飲み方として「溶いて軟こう状にした抹茶に7回に分けて湯を注ぎ、茶せんを振って雲や霧のような細かな泡をたてる」などと具体的に書かれている。
徽宗は茶道具、特に茶碗についても詳しかったようだ。当時、天下一の茶碗として高値で売買されていたのは福建省(Fujian)建陽県(jiaanyan)の建窯で焼かれた茶碗だった。なかでも建窯で焼かれた天目茶碗を「建盞 (けんさん、Jianzhan)」 といい、中国国内だけでなく、日本を含む海外でも最高級の茶碗として扱われてきた。
その建窯も時代とともに廃れ、地元の人もどこにあったか知る人はいなくなっていた。その窯の跡地を再発見したのは1935年に調査に訪れた米ミシガン大学(University of Michigan)のプラマー教授(J.M.Plumer)だった。その後、中国の研究者によって調査が続けられ、2016年ごろから地元政府が伝統産業の復活を目指して支援を始めた。〔...〕
中国で抹茶法による茶の湯が廃れた理由には諸説あるが、戦乱が続き、抹茶の複雑な製法が時代にそぐわなくなったことも要因の一つとされる。茶の湯を楽しんだ北宋の皇帝、徽宗の治世、中国では『水滸伝』のモデルとなった宋江の乱など悪政に苦しむ農民たちの地方反乱が続いた。徽宗は「茶の湯の気高く静かな風流は、騒乱の時世に尊ばれることはないだろう」と嘆いたといわれる。
茶の湯が尊ばれる平和な時代を望んでやまなかった北宋の皇帝。その皇帝としての功罪はともかく、現代の抹茶ブームや建盞の修復を知ったら、きっと喜ぶに違いない。
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徽宗(きそう)という皇帝はどことなく東山文化を築いた足利義政〔在職1449~1473〕を彷彿させます。
「茶葉を粉末にして飲む抹茶法は12世紀ごろに中国から日本に伝えられた」というのは、恐らく、臨済宗の開祖、栄西〔※1141年5月27日 - 1215年8月1日/平安時代末期から鎌倉時代初期の僧〕の時代だと思うのですが、茶自体は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄、空海などの留学僧が中国からお茶の種を持ち帰ったのが始まりだそうです。〔『日本茶マガジン』:日本でお茶を広めた人物、栄西とは? 鎌倉時代から南北朝時代〕
但し、上記サイトによると、茶は上流階級が珍味として飲むものに過ぎなかったそうです。
一方、朝鮮半島では、高麗時代こそ茶文化はあったそうですが、李朝期では仏教文化の弾圧によりほぼ廃れ、1960年代に崔吉城教授が調査した所、数カ所の寺で細々と栽培していたそうです。
以下、『東洋経済』のコラムから一部引用します。
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http://www.toyo-keizai.co.jp/news/essay/2010/post_3993.php
2010/06/18
<随筆>◇お茶文化◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授
先日、韓国全羅南道の長興(チャンフン)、康津(カンジン)、海南(ヘナム)などを旅行し、広い茶畑をみた。私にとってその広い茶畑は異国的な風景であった。なぜなら韓国ではお茶文化がないからである。アジアには茶文化が広く存在しているのに朝鮮半島だけにはそれが抜けている。しかし韓国でも古代から仏教が隆盛であった三国時代、高麗時代には茶文化が一般的に普及していたが、朝鮮王朝になると儒教を国教とし、仏教文化の茶文化を禁圧して消滅させた。お茶を奉げる仏教儀礼の「茶礼(チャレ)」を禁じ、酒を奉げる献杯の儒教「祭祀」を奨励した。しかし儒教の祭祀の名前は未だに「茶礼」とよばれ、儒教祭祀の供物の「茶食(チャシク)」も元来お茶文化の茶菓子である。
長い間のお茶文化が李朝の「崇儒排仏」政策で完全に消えたわけではない。李朝中期の学者の丁若鏞(1762~1836)は茶から酒への変化に抵抗を感じ、別名を「茶山」と称して、「茶を楽しんでいる民は栄えて、酒を楽しんでいる民は滅びる(飲茶興飲酒亡)」と言っている。彼はカソリックの天主教に関心を注いでいたが、尹志忠などが母親の葬儀を儒教式で行なわず天主教儀式で行ったことで処刑された鎮山事件の余波により天主教会への辛酉迫害が起きた。丁若鏞と彼の次兄は死刑から島流しに減刑され、18年間島流しの生活をした。彼は流配地である全羅道の康津の草堂にて研究し《牧民心書》などの名著を出した。
私が1960年代に文化財管理局から依頼を受けて茶文化を調査した時は、数か所の寺の坊さんたちが若干栽培しているだけであることが分かった。韓国では一般的に飲茶よりはコーヒーの普及が盛んになり、「茶房(タバン)」と言われてもコーヒーショップを指すものである。喫茶店の茶房には高麗人参茶、紅茶、双和茶、ユルム茶などのメニュがあるが圧倒的にコーヒーが飲まれている。〔後略〕
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それなのに、最近はしばしば「草庵茶」と称して、日本の「佗茶」の起源を主張しています。
【関連ブログエントリー】『韓国「反日主義」の起源』雑記5-茶道に見る韓国の『パクリ』・『起源』主張
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