【安重根】捏造まみれの作られた英雄(3)母の手紙は二重の創作物
前回のエントリーの続きです。
「조마리아 세 차례 ‘전언(傳言)’의 실체」(チョ・マリア3度の「伝言」の実体)という見出しで始まるこの部分は、実は「手紙」では無く、安重根の面会者に託された「伝言」だったというもので、伝言内容は当時の新聞が報じています。
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〔補足は緑字で追加。多少日本語として不自然でも理解に影響が無いと思われる翻訳は機械翻訳ママ〕
安重根のハルビン義挙日は1909年10月26日でした。 弟のアン・ジョングンとアン・ゴングンが安重根に初めて面会した日付は12月23日で、ここで母親のチョ・マリアの「伝言」を伝えました。 この面会の光景は12月24日付の大阪毎日新報が初めて報じ、この日本語の記事を翻訳して28日の皇城新聞、29日の大韓毎日新報が同じ内容を報じました。 その内容はこうです。
「兄弟間に対面する時、末っ子のアン・ゴングンが泣き叫ぶと、大胆な兄の安重根も突然血が胸いっぱいになるように想起した表情を見せたが、少しして三兄弟が無理やり精神を収拾した。 2人の弟が母親が送った十字架を取り出し、兄のアン·ジュングンの目の上に奉じて祀る母親の<伝言>だと…。」
二人の弟は確かに母親が書いた「手紙」を持って行きませんでした。 伝言、つまり母親のチョ・マリアの言葉を兄のアン·ジュングンに伝えただけです。 その次に出てくるチョ・マリアの伝言は…。
上記のⓑの内容でした。 現世で再び会うことを望まないから、お前は刑を受けて早く現世の罪悪を洗い流した後、次の世では必ず善良な天父の息子になって世に再び出て来いという。 そして神父様が代わりに懺悔を捧げるという。
ⓑ「母は現世であなたと再び会うことを望まないので、あなたはその後神妙に刑を受け、早く現世の罪悪を洗い流した後、次の世界では、必ず善良な天の息子になり、世界に再び出て来なさい。あなたが刑を受ける時、ヴィレム神父があなたのために山を越え、水を渡り、長い道のりを行ってあなたの代わりに懺悔をするのだから、あなたはその時、神父の導きの下、私たちの教会の法度に従って静かにこの世を去りなさい。」
これを聞いた安重根が驚いたり失望したという記録はありません。 「誓って教会の法道に基づき、信徒の資格と信者の道理に醜態を見せずに最期を終えるので、お母様は安心してください」と答えたということです。
チョ・マリアの2番目の「伝言」は年が変わった1910年2月1日にあったというのがアメリカの新韓民報の同年3月10日付の報道です。 ド・ジンスン教授が最近見つけたものです。 韓国人弁護士のアン・ビョンチャンは旅順地方裁判所から公判の弁護を拒否された後、安重根と面会し、チョ・マリア氏のこうした言葉を伝えたということです。 「君が国家のためにここまで来たのなら、死んでも光栄だし、母子がこの世では二度と会えないので、定離(別れることになっている)するしかない。」 最初の伝言で言ったように、息子が罪を犯したと思いながらも、そのことが国のためだったことは理解しているし、二度と会えないと思っているということです。
第3の伝言は、安重根が死刑宣告を受ける一日前の2月13日、再び面会に来た二人の弟が伝えた母の言葉で、同じ日の満州日報に掲載されました。 「結局、死刑宣告を受けるなら、きれいに死んで名門の名を汚さないように、早く天国の神のそばに行くようにしなさい」。 記事は「堂々とした親の心に検察官も暗淚に咽び泣いた」と書いています。 ここで「名門」とは伝統的な両班名門家という意味ではなく、黄海道一帯のカトリック信者を急激に増やすことに貢献した「カトリック名門」という意味だとド・ジンスン教授は解釈します。やはり最初の伝言と同様に「死で贖え」という意味になるのです。
チョ・マリアの「伝言」はこの3つがすべてです。 他にはありません。
私たちがよく知っている「手紙」ⓐ の大部分を占める内容、「朝鮮人全体の公憤を背負った」「大義に死ぬのが親孝行だ」「正しいこと」「笑いもの」「親不孝」などの内容はどこにも見当たりません。 「孝」や「義」への言及自体がないのです。
では、チョ・マリアが息子に送ったという「手紙」は?
はい、どこからも全然見えません。 「伝言」があっただけで、「手紙」はありませんでした。
では、「手紙があった」という話はいつ出現するのでしょうか。
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この後は、「手紙」は斎藤泰彦・大林寺住職が書いた『我が心の安重根』(1994/1/1)に出てくるもので、都珍淳(도진순/ド・ジンスン)教授が2010年5月22日にの著者に直接会って確認した所、本の一部に創作があると答えたが、伝言の部分については語らなかった、と続きます。
そして、この本が2002年に韓国語に翻訳された際、更に原文にない言葉が追加されました。記事の以下の部分です。
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「①君がもし老母より先に死ぬことを不孝だと思うなら、この母は嘲笑の対象になる。君の死は君一人のものではなく、韓国人全体の怒りを背負っているのだ。お前が公訴をすれば、それは命を乞うことになる。②君が国のためにこれに至ったのだから、死ぬことは栄光であるが、母はこの世では二度と再会できないだろうから、その心情をこう言うことができるだろう...」
斎藤の本を翻訳するにあたり、①には「韓国人全体の怒りを背負っていること」という、原文にない内容が追加されました。 そこに、1910年2月1日の新韓民報に掲載された2回目の伝言の内容である②を新たに挿入し、「国のためのことをしたのだから控訴(上訴)するな」という文脈を作りました。
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こうした経緯を経て、「母の手紙」が創作されたのです。
記事はこの後、筆者(記者)が更に報道された伝言と突き合わせて分析したり、過去のドラマ等がどのように影響を受けていたかを書いているのですが、省略します。
次回は「寿衣」の真実をご紹介します。
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