【ハーグ密使事件】(3)李瑋鐘(イ・ウジョン)の演説の中身
前回のエントリーの続きです。
前回ご紹介したコラムの筆者は、ハーグ密使事件の主体は米国人のハルバートと考えているようです。これについては、後ほど考察してみたいと思っています。
ここでは、イ・ウジョンの演説について見てみます。
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※日本語して多少不自然でも理解に問題が無ければ機械翻訳ママ。緑字はブログ主の補足。
私たちが知らなかったイ・ウィジョンの演説
風餐露宿〔※ふうさんろしゅく:風にさらされて食事をし、露に濡ぬれて野宿すること。 転じて、旅の苦労、野宿の苦しみの喩え〕の末、ハーグに到着した密使たちは会議場への入場を拒否された。 そして7月8日、密使たちは取材記者たちに対して演説を行った。 フランス語が流暢なイ・ウィジョンが代表を務めた。 始まりはこうだった。 「日露戦争の時、日本は朝鮮の独立が目的だ」と公言した。 日本の政治家たちは繰り返し、すべての文明のために戦うと言った」とし、イ・ウィジョンは乙巳條約の不法性と強圧による条約であることを記者たちに雄弁した。
ところが、演説の前段にこのような内容が入っていた。
「旧政権の腐敗、収奪、残酷な行政にうんざりしていた私たち朝鮮の民衆は、共感と希望をもって日本人を受け入れた。」(We, the people of Korea, who had beentired of the corruption, exaction and cruel administration of the old Government, received the Japanese with sympathy and hope)」。
皇帝の委任状と親書を所持した皇帝の密使の口から、その皇帝が経営した政権が腐敗し、貪虐で残忍だという告白が飛び出したのだ。
イ・ウィジョンは「私たちは日本が腐敗した官吏たちに厳しい基準を適用して民衆に正義を実現してくれると信じていた」〔※〕と付け加えた。 そのような信頼を裏切って朝鮮を不法併呑した日本を弾劾するというのが、イ・ウジョンの演説の要旨だ。
※We believed at that time that Japan, while dealing possibly stern measures against the corrupt officials, would give justice to the common people and would give honest advice in the administrative work. We believed that Japan would seize the occasion and lead the Koreans in their efforts to bring about the necessary reforms.
【訳】当時、私たちは、日本が腐敗した官僚に対して厳しい措置をとる可能性がある一方で、庶民には正義を下し、行政業務には誠実な助言を与えてくれると信じていました。日本がこの機会をとらえ、必要な改革を実現するために韓国をリードしてくれると信じていた。
▲1907年8月22日付『インデペンデント』P.423
これらすべてが一般に公開された資料であるため、関係学者は間違いなく知っている。 しかし、私たちはほとんど乙巳條約前後に高宗に巨額の賄賂が渡ったという事実を知らない。 ハーグ密使演説に腐敗政権を批判した内容があることを知る人も少ない。
中途半端な歴史だ。
7月14日日曜日、イ・ウィジョンがしばらくペテルブルクに戻った間、イ・ジュンがホテルで亡くなった〔※〕。 2日後、イ・ジュンは現地の共同墓地に仮埋葬された。 臨時葬儀にはイ・サンソルとホテル社長が出席した。
※死因は不明だが、韓国では国際社会からの拒絶を理由に「自殺」したとされている。〔Wikipedia(英語):Yi Tjoune〕 韓国では「割腹自殺」という、朝鮮にない習慣の自殺方法で死んだともされている。
高宗は強制退位された。 7月20日、大韓帝国皇帝純宗は「偽りの密使を司法処理せよ」と命じた。 8月8日、法部大臣のチョ·ジュンウンが平理院〔※現代の「高等裁判所」〕の判決文を純宗に報告した。 正使のイ・サンソルは絞首刑、副使のイ・ウィジョンとイ・ジュンは終身刑を言い渡された〔※〕。 刑は彼らを逮捕した後、執行することを決定した。(1907年8月8日「純宗実録」)
※7月20日の時点ではイ・ジュンの死亡は伝わってなかった事になる。なお、韓国語のWikipediaには刑の宣告は日本がした事になっているが、この時点ではまだ統監府は司法権を掌握していなかった。
※イ・ウジョンの死亡日・場所とも不明とされており、イ・サンソルは1917年4月1日、亡命先の沿海州ニコリスクで病死したとされている。刑を恐れて帰ってこなかったのだろう。
ここまで、フィリピンと朝鮮を分け合うことで密約〔※桂・タフト協定〕した米国に頼ろうとした皇帝と、「売国奴」の処罰を最後まで拒否した皇帝と、その皇帝が送った密使の口から出た「腐敗し、貪欲な政権」についての短い話だった。
▲〔画像省略〕1907年7月5日付「平和会議報(Courrier de la Conférence)」。 写真は左から特使のイ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンだ。
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『韓国併合 大韓帝国の成立から崩壊まで』は一般向けに書かれた新書版で、脚注がないので出典は不明ですが、高宗がハーグ密使事件の主体のように書かれています。しかし、このコラムの筆者、パク·ジョンイン氏は前回のエントリーで紹介したように、ハルバートが主体で資金は漢城電気のコールブランが出したと、小松緑の「明治外交秘話」を根拠に書いています。
更に、パク・ジョンイン氏の動画『10. 헤이그밀사의 폭로』(10.ハーグ密使の暴露)によると -コメント欄に書かれていたのですが- ハルバートと官僚が計画したことでは無いかと推測していました。最終的に高宗の裁可は必要だったとは思いますが、高宗が演説の草稿まではチェックしていなかったのは、演説文で体制批判をしている事から間違いないと思います。
あくまでも密使は、乙巳条約で外交権を剥奪された=独立国では無くなった=事が不満だったのです。
前述の通り、ハーグ密使事件直後に高宗は退位させられ、第3次日韓協約が締結されます。これで高級官吏の任免権、司法権、監獄事務等、統監府、即ち日本の権限が更に強化されました。
『韓国併合』によると、この時、伊藤博文が将来の韓国併合を決断していたか否かについては議論が分かれているそうですが、著者〔森万佑子氏〕は毒茶事件で知的障害があった純宗を新皇帝に据えてまで皇室を残したことで、即時併合は考えていなかっただろうと推測しており、ブログ主も納得します。
高宗の退位については、ハーグ密使事件を重く見た李完用が、7月16日から連日高宗に譲位を諌奏〔※かんそう:忠告〕しているそうです。〔『韓国併合』〕
『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』(新城道彦 著)によると、7月17日に閣僚が参内した時、李完用が「社稷重しと為す。君軽しと 為す。」 と述べて位を退くよう迫ったそうです。これは孟子の言葉で、本来は「民尊しと為し、社稷は之に次ぎ、君軽しと為す。」で、社稷とは国家の事で、「民は国家よりも大切であり、また国家は君主よりも尊いものである。」という意味です。李完用は、高宗を守るのではなく、祭司者である皇帝という地位を守り、国を守ろうとしたわけです。
簡単に言えば、高宗の代わりはいるが、皇帝そのものが無くなってしまったら、大韓帝国は滅びると考えたのです。そして、彼は、併合の際も、なんとか形式としての大韓帝国を残そうと、日本政府と交渉します。
果たして、李完用は逆臣だったのでしょうか?
これで「ハーグ密使事件」については終わりますが、次回、伊藤博文の朝鮮統治に関する考え方について補足します。
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