【韓国】韓国人による「韓国軍兵士のベトナム民間人虐殺」批判は『ピースボート』がきっかけだった
7日、韓国で初の、韓国軍兵士のベトナム戦争での犯罪に対する賠償判決が出ました。
https://www.sankei.com/article/20230207-Q5W45EPBDBONHANWN73LUIGMKM/
ベトナム戦争で民間人虐殺 韓国政府の賠償責任を初認定 韓国地裁
2023/2/7
>ベトナム戦争に派遣された韓国軍による民間人虐殺をめぐり、生存者のベトナム人女性が韓国政府に賠償を求めた訴訟の判決で、ソウル中央地裁は7日、約3000万ウォン(約315万円)を支払うよう韓国政府に命じた。韓国軍による民間人虐殺の賠償責任が認定されるのは初めて。
李宇衍(イ・ウヨン)博士も、Facebookに「ベトナムを切実に必要としていたのは挺対協だ。彼らが行っている反日運動を人権運動として包装するのにベトナムが最高だった。」と書かれていましたが、韓国人がベトナム戦争での韓国軍兵士の蛮行を批判する事は、彼らにとって一石二鳥ならぬ、一石何鳥もの効果があります。
まず、韓国人の正義感アピール → 日本軍慰安婦問題を批判する事の正当性アピール。
次に「反米」。ベトナム戦争で韓国軍を指揮していたのは米国なので、あの戦争の犯罪性をアピールし、この問題をほじくる事で米韓同盟の弱体化を図る。
そして、1948年に成立した大韓帝国、特に、傭兵を送った朴正煕大統領への批判。
ブログ主は、ベトナム戦争での民間人虐殺やライダイハン(ベトナム戦争に派遣された韓国人と現地ベトナム人との間に生まれた子供)問題で韓国を擁護するつもりはないし、「ハルモニの証言と涙」だけで被害者認定した韓国人に対しては ”いい様だ” と思いますが、これは、正義連の行っている日本批判を正当化する効果があります。
だから、日本人は尻馬に乗ってはしゃがない方がいいとずっとブログ主は言ってきました。
韓国人でこの問題をずっと追及しているのが、尹美香(ユン・ミヒャン)の大学の1年後輩のク・スジョン(구수정) という女性。
光州出身の女性運動家で、金大中周辺で政治活動を開始。20年前にベトナムに留学。論文作成の資料収集を口実にベトナムの隅々を回りながら反韓扇動をしていたようです。初めて1999年に『ハンギョレ21』という雑誌にベトナムでの調査結果を発表。
ところで、ここで面白い事実が判明しました。
ク・スジョン氏がベトナム問題に関心を持ったのは、ピースボートに参加したことがきっかけでした。
以下は、2017年のインタビュー記事からその部分を抜粋して機械翻訳します。
* * * *
http://news.seoulbar.or.kr/news/articleView.html?idxno=727
구수정 한베평화재단 상임이사 인터뷰(ク・スジョン韓ベ平和財団常任理事インタビュー)
2017.07.04
Q ベトナム平和紀行が日本のピースボート(Peace Boat)とも似ている点があり、ピースボートが韓国軍民間人虐殺問題を知った経緯とも関係があると聞きましたが、もう少し詳しく説明してください。
実に皮肉なのが、韓国人である私たちが韓国軍ベトナム民間人虐殺を知ったのも、日本が運営していたピースボートの平和紀行を通じてです。 日本は1982年に過去の日本の侵略を「進出」と表現する歴史教科書歪曲をし、これに韓国と中国が大きな反発をしたことで歴史教科書騒動を経験しました。 このような状況で当時の日本の青年世代は大きな衝撃を受け、自分の教科書が間違っている可能性があると自覚するようになり、日本の青年たちが自分たちの歴史を直接訪ねて対面し、人々に会って対話をしながら歴史の真実を探そうと作ったのがピースボートで、これは1983年に作られるようになりました。 今はこのピースボートの外縁が拡張され、環境や脱原発から2000年初めまで日本の過去の占領地を探し回っていたのですが、年に3回ほど出航して5カ月間通ったそうです。 船が大きく、少なくとも500~600人から多くは700~800人が乗船します。 これまで数万人の日本市民がピースボートに乗ったはずで、日本の安全保障法と再武装に反対する市民のほとんどがピースボート出身だそうです。
私が韓国軍のベトナム民間人虐殺に関する資料を98年に入手したのですが、日本のボートで韓国の若い作家たちを招待して一緒にダナン港に降りて訪ねて行ったのが韓国軍民間人虐殺地域だったそうです。 当時、韓国の作家は大きな衝撃を受けたそうで、私が2000年初めに平和紀行に行った時も、ほとんどの韓国の方はこのような事実にあまりにも大きな衝撃を受け、敏感で神経質な反応を見せながら受け入れ難いといいます。 だから当時、日本の友人たちが韓国の作家たちを連れてベトナム虐殺地域に行った時、慰霊碑を見ながらその韓国の作家さんたちが初めて受けた衝撃は想像し難いでしょう。 ピースボートは昼間は現場踏査をし、夜は船で集まってセクション別に討論をするのですが、この韓国の作家たちが入ったテーマが韓国軍民間人虐殺だったそうです。 韓国の作家たちは世の中に初めて聞く話も討論をしなければならなかったし、日本の友人たちにはイライラして信じられないと言い、日本の友人たちはなぜ韓国人たちは日本人が歴史を知らないと言いながら、いざ君たちの歴史にはそっぽを向くのかという過程でずっと大きな葛藤があって、一部の作家たちはただピースボートから降りることになったと言います。 このように途中で離脱した作家たちが降りたところがダナンです。 当時は外国人がほとんどいなかったダナンから大変な苦労をしながらホーチミン市まで来られた韓国の作家たちと会ったのですが、その方々はほとんど信じずにその事実を話してくださって、私は私が論文を書くために入手した資料をお見せしながら、もしかしたらこれが事実かもしれないと一緒に話しました。 それで私たちはこれが事実かどうかは分かりませんが、これ以上日本人の手に引かれるのではなく、私たちが直接真実を探そうという一種の桃源決議をすることになりました。 そのような趣旨で直接私たちが真実を探すために市民団体「私と私たち」を作ることになりました。 「私と私たち」を中心に私が手伝ってベトナム平和紀行を始め、今まで続くようになりました。 こういう点で私たちがピースボートのように財源はないので大きな規模ではありませんが、2000年から何らかの形でベトナム民間人虐殺地域を訪れ、20年近くこのようなことを続けてきており、私たちも今では1,000人以上の韓国の方々が行くことになったのですね。
日本のピースボートは民間人虐殺地域にたくさん行き、ビンホア村も私たちよりずっと先に入ってピースボートが日本政府に提案して最初の小学校を日本のODA資金で建設しました。 韓国の作家たちがダナンから入った村であるトゥイボ村の場合、ジュンコ学校が建てられましたが、このお便りはとても意味があります。 1993年、平凡な日本女子大生だったジュンコはピースボートに乗るようになりましたが、ダナンに到着してトゥイヴォ村でグエン·ティニーというおばあさんに会いました。 このおばあさんは済州4.3.の無名の布のおばあさんのように、韓国軍の銃弾によってあごが飛んでいき、無名の布であごをずっと巻いていました。 グエン·ティニーおばあさんは座っては水一杯、ご飯一さじも飲めず、横になっていなければなりませんでした。 当時、ジュンコは学校に通わなければならない年齢の裸足の子供たちが一日中学校に通わずにピースボートに付いて行く理由が学校がないからだということを知りました。 市民団体や運動圏でもないごく普通の学生だった純子は、日本に帰っても一人で街で毎日募金運動をしていて残念ながら交通事故で死んでしまいます。 無男独女だった娘を亡くしてしまった純子の両親は、どうしても娘の部屋を片付けることができず、1年ぶりに純子の日記帳を見つけたのですが、トゥイボ村の事情や、一日も欠かさず街で募金運動をしていた娘の意を知り、彼女の遺志を奉ずるためにトゥイボ村に学校を建てることになります。
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▲韓国 済州島にある『ベトナム・ピエタ』像。作者は慰安婦像の作家夫婦。
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