【韓国】加藤清正が入城した門だから国宝第1号?
韓国では日本人が悪者にされている事がよくあります。ハングルを奪ったとか、強制連行したといった、日本人がよく知っている事以外に、知って見ると、よくもこんな下らないデマを思いつくなぁと感心...はしませんが、呆れることがままあります。
今回はそんなネタです。
韓国の国宝第1号は南大門(正式名称:崇礼門)でした。
「でした」と言うのは、2年程前に、日本で言う「文化財保護法」を見直して、指定登録番号を廃止したからです。 〔とは言え、管理番号としては生きていて、教科書等で文化財名を表記する際に使わないという事らしい。→文化財指定番号制度の改善〕
文化財保護法の見直しは、この法律が作られた当時の文化財の分類や体系では現状に合わなくなって来たという理由で行われたのですが、この後、記事をご紹介して説明するように「日帝残滓」の清算の意味合いが強いようです。
そうです。
例によって、韓国の国宝(宝物や古蹟)は日本統治時代に選定されたもので、文化財を管理する法令も朝鮮総督府が発令した「朝鮮宝物古跡名勝天然記念物保存令」 (1934年8月27日付) に従っている ”日帝残滓” なのです。
そして、これが問題化するきっかけになったのが、南大門が放火で消失した事件(2008年)でした。
この時に、ある日本人留学生が書いた修士論文が話題になり、「南大門が国宝第1号になったのは、”加藤清正が文禄慶長の役で漢城(ソウル)入りした時に通った門だから”」という事実が判明〔←※実は誤解〕した事で、国宝第1号を剥奪すべきという議論が起こり、結局、国宝指定はそのままですが、指定登録番号を廃止することになったのです。ソウル大学に留学していたその学生のミスとは言え、担当教授もいいかげんでした。
以下、「ハーグ密使事件」の時も参考にした、『朝鮮日報』のパク・ジョンイン記者のコラムを引用しながら、解説します。
* * * *
〔補足は緑字で追加。多少日本語として不自然でも理解に影響が無いと思われる翻訳は機械翻訳ママ〕
https://www.chosun.com/opinion/2022/08/03/KJPMPXG5SNHEVOXA4O6BNSR7GU/
가토 기요마사가 통과해서 남대문이 ‘총독부 보물’이 됐다고?
加藤清正が通ったから南大門が「総督府の宝」になった?
2022.08.03
>2008年2月10日の夜、南大門が全焼して以来、南大門は史上最も多くの注目を浴びた。南大門は無事に復旧されたが、別の論争が勃発した。壬辰倭乱当時、日本軍第2代加藤清正の部隊が南大門から漢城〔※現ソウル〕に入城し、植民地時代に総督府が南大門を「戰勝門」として記念するために朝鮮宝物1号に指定し、その制度を踏襲した大韓民国政府が日本の戰勝門を「国宝1号」としてきたということだ。論争の末、2021年に南大門はもちろん、「宝物1号」〔※「宝物」は日本で言う重要文化財らしい〕だった東大門〔※正式名称:興仁之門〕も1号証が剥奪された。全国八都すべての国宝・宝物の番号が消えた。
昭和9年(1934年)8月27日付の総督府令では、第1号:京城(ソウル)南大門〔現 第1号〕、第2号:京城東大門(正式名称:興仁之門)、第3号:京城普信閣鐘、第4号:京城円覚寺址十層石塔〔現 第2号〕となっています。
>このような措置が合理的であるためには、次の3つの質問にすべて「正しい」と答えなければならない。第一、加藤清正が南大門で漢城に入城したのか。 第二、朝鮮総督府はその南大門を朝鮮宝物1号に指定したのか。 第三、加藤清正の凱旋門だからそのように指定したのか。 調べてみる。
結局、筆者(パク・ジョンイン氏)は、第一と第二は正しい事を検証し、最後に第三の論拠となっている論文を検証します。それは、2008年に南大門が消失した際に注目されたソウル大学大学院の留学生である太田秀春氏(現 鹿児島国際大学教授)が書いた修士論文です。
>論文の中で南大門に関する部分は衝撃的だった。 1905年乙巳条約によって通鑑部が開設されると、日本居留民会は龍山を含む40万~50万人の人口を収容できる大都市建設を計画した。問題となったのは、交通上の障害となる南大門の処理問題で、当時の朝鮮軍司令官である長谷川好道は「砲車の往来にも支障をきたすので、そのような老朽化した門は破壊してしまえ」と強く主張した」。
>論文に引用された上記の長谷川発言の出典は「朝鮮回顧録」(1915)という本である。筆者の中井錦城は「讀賣新聞」の主筆まで務めたジャーナリストである。朝鮮で「漢城新報」を運営し、日本人居留民団団長を務めた人物だった。本名は中井喜太郞である。
>論文の著者太田秀春氏はこう結論付けた。壬辰倭乱の時、日本軍の先鋒である加藤清正が南大門を通過してソウルを陥落させたという事実のために南大門は保存されたのだ。
しかし、”加藤清正が入城した門だから” と言って長谷川好道を説得したという中井の証言を詳しく調べると、時系列的に辻褄が合わず、嘘だと筆者は結論づけます。どうやら、「加藤清正」云々で説得したというのは中井の作り話か記憶違いらしいのです。
>ところが、時間帯も主人公もごちゃごちゃだ。 乙巳條約締結日は1905年11月17日だ。 統監府は3ヵ月後の1906年2月1日に開設された。 したがって居留民団が統監府に都市計画を出した時点は1906年2月統監府開設後だ。 その時、中井錦城は居留民団長ではなかった。 中井は1905年12月に民団長を辞任し、1906年1~2月、民団長は和田恒一と淵上貞輔という骨董商兼実業家だった。(邦訳「京城府史」2巻(京城府、1934)、ソウル歴史編纂院、p649)
>どうして「元団長」中井が、「まだ立案もされていない」大都市建設計画について、「軍司令官」長谷川になんだかんだと言えるのか。
いずれにしても、この論文は韓国内で反共を呼び、韓国世論は「南大門の国宝指定を剥奪しろ!」、「代わりに『訓民正音』〔※ハングル〕を国宝1号にしろ」 と いう議論が沸き起こるわけですが、結局、文化財庁は法律を変えて指定番号自体をなくすという措置で世論に対応します。
1号、2号...は登録された順番であり、ランクではないのですが...w。
そして、同じ呼称の文化財、例えば「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のようなものは、指定登録番号(「国宝第78号」、「国宝第83号」)で区別する方法が使えなくなりました
* * * *
このコラムを読んでいない人は、未だに「加藤清正」云々を信じている事になります。
ところで、このコラムで、ブログ主が気になることがありました。
「宝物」の選定は、朝鮮総督府が行った古建築や古蹟の研究が元になっています。以下、再びコラムから引用します。
* * * *
建築史学者の関野貞〔※せきのただし〕(1868~1935)は朝鮮文化財研究の先駆者だ。1902年に朝鮮古建築の調査を始め、当時の朝鮮の芸術と文化の研究を主導し始めた。植民地時代の古建築研究に欠かせない写真図録「朝鮮古跡図譜」は関野が主導して作った大作だ。
1909年9月、関野は統監部治下の大韓帝国拓支部の用役を受け、ソウルと開城、平壌、義州を踏査した。翌年、関野が「朝鮮藝術之研究」という報告書を出した。この本の巻頭に掲載された論文「朝鮮建築調査略報告」に、正式な朝鮮宝物の分類表が初めて登場する。
京城を見ると、南大門・元閣四十三層塔・明正殿など昌慶宮の建物の一部・昌徳宮の敦化門と仁和殿などが記載されています。後ろに東大門と南廟、北廟が見える。各文化財には甲~丁の等級が付けられている。関野は「最優秀の甲と乙は特別に保護する必要があるもの、三番目の乙は朝鮮全域を調査した後、乙に入れるかどうかを決める対象」と説明した。(関野貞ら、「朝鮮藝術之硏究: 朝鮮建築調査略報告」p2、度支部建築所、1910)
南大門が甲である理由はこうだった。開国から壬辰倭乱の時である宣祖までの約200年の期間は、明の影響を受けながらも独自の発展があった時代である。 実質的に韓国的な木造建築が始まった時期である。この時代の木造建築が多少残っているが、最も古い建築物は開城の南大門と京城の南大門がある」(関野、前掲論文pp25, 26)。
この1910年の関野忠次の分類表が、1937年の朝鮮総督府保存令による朝鮮宝物リストのルーツである。分類基準は「時代」と「代表性」だった。
* * * *
こう紹介した後に、筆者は「他国の学者が傲慢に他国の宝物をランク付けした事実は腹立たしいが、」と書いているのです。
筆者は、コラムのテーマやその姿勢から考えると、決して ”反日種族主義” 者では無いはずですが、当時の朝鮮半島が ”日本の一部” になっていたとは考えられないようです。頭のどこかに ”日帝に占拠された” という考えがこびりついているのでしょう。
「関野貞は、”自国の文化財” を分類しただけ」だとは理解できないのです。
日本人がコンクリートを使って石窟庵を修復した事を、”日本人が嫉妬して毀損した” と言う韓国人と根は同じです。
当時の日本人が”自国の文化財” を毀損するはずが無いのに...。
それに、自分で「『時代』と『代表性』で分類」したと書いておきながら、「ランク付け」と言います。確かにランク付けと言えなくもありませんが、それは優劣とは意味合いが違います。
正直、当時の朝鮮には近代的な学問など無かったくせに、と思います。
この辺が台湾人と韓国人の違いです。
台湾では、何のわだかまりも無く、日本人学者を「○○学の父」と呼びます。〔ex. 植物学の父「早田文蔵」〕
ブログ主が、諦めてはいないながらも、韓国人の反日は、慰安婦問題とか徴用工問題とか、そんな事を一つ二つ片付けても払拭できないと考えるのはこういう事が根拠です。
ブログ主はあまり喩え話は好きではないのですが、韓国人は ”基本OS”(Windows10とかAndroidみたいな基本ソフトウェア/Operating System)に「反日」が組み込まれているようなものです。或いは、OSに「反日」というウィルスが巣くっているのです。だから、煽動されると、その上に簡単に「慰安婦」とか「旭日旗」といった "アプリ” が載るのです。
ブログ主は、こうした基本OSにパッチを当てる〔=修正する〕為には、李氏朝鮮末期や大韓帝国まで遡って、歴史を見直さないとダメだと思っていたのですが、『売国奴高宗』の著者ですらこうなのです。
仮に、ウィルス駆除が可能だとしても、それは1年、2年と言った短い期間でできることではないでしょう。
« 【安重根】捏造まみれの作られた英雄(4)母が縫った「死に装束」の真実 | トップページ | 【”徴用工”裁判】2021年却下を不服とした控訴審で公示送達 »
« 【安重根】捏造まみれの作られた英雄(4)母が縫った「死に装束」の真実 | トップページ | 【”徴用工”裁判】2021年却下を不服とした控訴審で公示送達 »
コメント